かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

日本語を求めて、「台湾生まれ 日本語育ち」

2017-07-18 00:52:04 | ことば、言語について
 私の言語の限界が、私の世界の限界だ。
   ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 日本語はいつもどこかで造語が生み出され、それを面白がられる社会があり、濫用され流布される。それらが文法を無視したものであれ根拠が出鱈目であろうと、構わないで甘受されるところがある。
 日本語というものは、いまだに不安定で流動に見舞われているようだ。
 流行語や短縮した若者言葉が取りざたされると、「言葉というものは、世につれ変わるものですよ」と、言語学者でも平気で言う。
 それまで日本語にない言葉や外来語をカタカナで使う場合などは仕方ないとしても、日本語にあるのに意味や文法を無視して、まるで新しいのが価値と意味があるがごとく世間に流布されるのには違和感を覚える。
 使いたくない日本語について、ある作家が「私はイケメンという言葉は使わない」と言っていたというのを聞いて、その言葉の謂れを調べてみて、私も以後使わないでいる。

 *

 また、今もって時折使っているのを見ると怒りより失望感を抱く言葉の使い方に、去年流行語になった「神ってる」というのがある。
 最初、野球の監督が思わず発してしまったのが、巷で面白いと話題になるのはわかるとしても、その後、ちゃんとしたマスメディアの大新聞がそれを応用して使うとなると、ちょっとやめてくれと言いたくなる。それは、正しい日本語なのですかと言ってみたくなる。
 「神ってる」は、「神がかっている」と言うべきところをはしょって、つい「がか」を抜かしてしまったのだろう。私は、最初はそう思っていた。
 しかし、もし「神している」を動詞の原型としたもので、「神る」と短縮し、「神っている」と進行形にしたのなら、日本語は深刻だと思った。
 名詞に動詞「する」を付け足した動詞は、「恋する」や「勉強する」のように多く使われてきているのだが、それが使用できるものとできないものがある。私は日本語の文法学者でも研究者でもないので、詳しく知りたい人は専門書を読むなり調べてもらうとして、本来言葉はきちんと区別しないといけないはずだ。
 しかし、日本人は使えない言葉でも、多くの人が使うことによって不自然ではないのではと思うようになり、「みんなで使えば怖くない」かのごとく、思いもよらず定着したり、なかには辞書に載ったりすることもある。
 例えば「お茶」は「する」という動詞は使われない。通常「飲む」という動詞がつくはずなのに、「お茶を飲みに行かない?」を「お茶する?」といった具合に、不自然に短縮してきた過去がある。さすがに、最近はあまり聞かなくなったのでホッとしているが。

 あとで紹介する、この項の主題である台湾人の温又柔の著である「台湾生まれ日本語育ち」で、時折おかしい日本語を話す母親を娘たちが「ママ語」と称して揶揄する描写がある。
 そのなかでも娘たちが気にいっている、母親特有の独特の言葉が「迷子する」である。
 「迷子する」という言い方はおかしい。正しくは、「迷子になる」である、と、娘たちが何度言っても、母親は、道に迷わないでね、のつもりで、「迷子しないでね」と言ってしまうのだ。
 なぜそんな間違った使い方をするのかを考えた著者は、その理由を、母は「迷子」という日本語を使うとき、中国語をイメージしているからだと考える。中国語の「迷路」は日本語の「迷路」ではなく、「道に迷う、道を失う」の意味で、「迷」が「迷う」という動詞にあたる。だから動詞形の「する」を付けるのだろうと。
 「迷子」は、知らず知らずのうちに「なる」ものであって、みずからの意思であえて「する」ものではない、と結ぶ。
 著者は、外国人に対する日本語教師もやっているので、自ずと日本語の使い分けにも論理的であろうとする。

 この「迷子する」と同じように、「神」を「する」はおかしな言葉だと思う。意味をその通りにとれば、キリスト教関係者はどう思うのだろう、面白くはないはずだと心配になる。

 そんな矢先に、先月の朝日新聞のテレビ番組欄の「記者レビュー」(6月23日)というコラム欄で、「人間してるな―」という文を見た。「人間している」という日本語はあるのだろうか、と疑問に思った。
 そもそも、「人間をする」とは「神をする」と同様に、日本語として使わないだろう。それを朝日という新聞に書いてあったから、なおさら引っかかったのだ。

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 日本語を真剣に考えた本がある。
 「台湾生まれ日本語育ち」(白水社刊)の著者、温又柔(おん ゆうじゅう)は、台北で生まれ3歳より日本に住む。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つが、本人が通常使ってきたのは日本語で、日本の学校を卒業した。
 著者の述懐によると、幼い頃、両親と使っていた台湾語は少し曖昧だが「話すことば」で、大学(法政大国際文化学部)で改めて学びだした中国語は、意に反して本人は苦手だと意識させられ、ひらがな、カタカナの2種類の表音文字と漢字の表意文字の組み合わせの日本語に表現の喜びを見いだして、現在日本語で文を書き続けている。
 複数の言葉のなかで、母語とは?母国とは?と自問しながら、自分にとっての言葉、言語というものを考え続けているのが綴られている。

 台湾語と中国語は、日本の方言と標準語の違いだろうと思っていたが、その違いの根拠が、本書の次の文から少しははっきりした。
 ――中華人民共和国では、公用語を「普通話」(注:話の言偏はサンズイに似た簡体字)と呼ぶ。「普通」は、「あまねくゆき渡る」の意味だ。日本では「中国語」と言うと、この「普通話」を指すことが一般的である。中国の公用語なので、それを外国語として学ぶならば、発音記号はピンインを、文字は簡体字を使用する。
 ――現在、「台湾語」と一般的に呼ばれている言語は、福建省南部で話されていた閩南(ミンナン)語を起源としたコトバを指す。
 蒋介石率いる国民党政府が台北を「中華民国」の臨時政府としたときから、中国語は「國語」と呼ばれ、台湾において最も特権的な言語となった。もともと「國語」とは、辛亥革命を経て大陸で中華民国が成立した際、北京官話を基礎に標準語として政府が制定し、普及を進めたコトバのことだ。

 *

 「台湾生まれ日本語育ち」は、去年(2016年)出版され、そのとき読んだのだが、著者の「真ん中の子どもたち」(すばる4月号)が、今回の2017年、第157回芥川賞候補作に選ばれたので、改めて読み直した。
 彼女は、台湾語、中国語を媒介に日本語を表現していく。
 もし、日本人の私が、中国で育ち、ずっと中国語の話者であったなら(日本語はほとんどできないで成長したとしたら)、どう日本語を感じとっていただろうかと考えた。

 著者の小説「来福の家」が台湾で翻訳され、そのとき台湾の新聞記者から受けた質問に、著者はこう答えている。
 ――自分の居場所はどこだと感じますか?
 「日語」(日本語)。
 さらに、こう続ける。
 「我住在日語」(私は日本語に住んでいます)

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