かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

好きなことをやる幸福、「裏山の奇人」

2015-01-26 01:09:02 | 気まぐれな日々
 世の中のものは、留まることはない。何かが起きて、何かが生まれ、何かに形を変えながら、あらゆるものや出来事は、それらを運ぶ「時」に委ねることになる。
 時世も人生も、どうなるか誰も知らない。

 人生、自分の好きなことをやって生きていくのが一番いい。それはおそらく、幸せに近づくもっとも有効な方向、方法なのだろう。
 子どもの時は、勉強より遊びが楽しかったのは言うまでもない。遊びながら生き続けられたら、つまり遊びで生活ができたらそれに越したことはないだろう。
 しかし、大人に近づくにつれ、それは簡単なことではないということを知ることになる。
野球やサッカーやテニスで金を稼ぐことができるのは、ある一部の秀でた者だけである。歌を歌ったり踊ったりして生活できる者も、限られている。
 ましてや、裏山で虫を採って生活できる者など、そういるものでない、と思う。

 誰もが子どもの時は、虫採りに夢中になったことがあるだろう。僕も、セミやチョウや、カブトムシやクワガタムシを採るのに夢中になった時期がある。昆虫採集は、小学校での夏休みの課題提出の定番だった。
 しかし大きくなるにつれ、いつしか虫採りから離れていく。学校でも、授業ではもちろん、仲間同士でも虫の話はしなくなっていく。
 どうしてだろう。
 成長するにしたがい次第に、虫を見ても、それを集めても、何の役にも立たないと思うようになるのだろうか。それより、学校の試験の点数の方が大事だと思ってしまうのだろうか。

 それでも、ずっと、大人になっても継続して、子どもの時に好きだった虫から離れずに、それを職業としている人もいるのである。
 「裏山の奇人 野にたゆたう博物学」(小松貴著、東海大学出版部刊)の著者は、2歳の時に、庭の石の下にうごめくアリを見つけ驚き、楽しくなる。そして、そのアリのなかに、ぴょんと飛んでいったアリでない虫を発見して、さらに驚く。アリの巣に勝手に侵入して餌を盗んでいるアリヅカコオロギである。のちに、著者の研究対象となる、好蟻性昆虫の一種である。
 こうして著者は、友だちと遊ぶことよりも、生き物や虫を見つけ、その行動を見たり調べたりすることが最も楽しいことになる。
 普通の人だったら大体が中学生になる頃は虫や生き物から遠ざかるものだが、著者は高校生活でも変わることなく虫や生き物から離れず、大学でも理学部生物学科(信州大学)に入り、ほとんどを裏山に入って虫を研究することに時間を費やすことになる。
 そして、その後も虫中心の生活を続けている。
 著者はこう書いている。
 「私は幼い頃から生き物が好きだった。ただし、私は犬や猫、パンダや像など、テレビや本によく登場してみんなから愛される生き物は好きになれなかった。」
 「いま流行の「会いに行けるアイドル」ではないが、身近にいる何の変哲もない(そしてなぜか多くの人間が嫌がる)小さな生き物のほうが私にとってはずっと愛すべき対象だった」

 著者は、卒業後も恵まれた経済生活とはいえなくとも、虫を研究するという著者にとっては恵まれた生活環境で生きていく。
 先輩研究者に付いて南米ペルーに2度行くことになる。その時の思いのエピソードが面白い。
 リマの空港の入国審査場で会う日本人観光客は、誰もが判で押したようにマチュピチュとしか言っていない。そこでは、何人もの日本人から「ペルーまで行って、なんでマチュピチュに行かないの?」と怒られる。
 彼は書く。「どうせグンタイアリもメバエもいない観光地なんて行く価値もない」

 本書は、専門書のように詳しい論文風の箇所もあるが、まるで著者の視線になったように虫を見つめることができる。どの項目も生き物、特に小さな虫に対する愛情が伝わってきて、楽しいことこの上ない。
 本当に好きということは、こういうことだ。こういう境地に行っていないと、好きなことで生活はできないと実感させられる。
 ただ、博士論文中の献辞にも名を列挙したと告白し(教授のクレームにより削除した)、後書きにも挙げてある、著者が虫の研究の傍ら夢中になっているという美少女ゲームのキャラクターたち、とりわけ「向坂環」さんとあるのが、僕はパソコンのゲームをやらないので理解できない。

 (写真は、僕の家の庭に姿を現したカナヘビ)
コメント
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