かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

Mぽいの好き? 中越典子の「毛皮を着たヴィーナス」

2013-07-10 00:29:33 | ドラマ/芝居
 数年前の、日も暮れかかる夕方だった。
 何の用事でやってきたのか忘れたが、銀座の中央通りと並行して何本かある通りの一つの道を、ぶらぶら歩いていた。
 銀座の裏通りを歩くのは好きだ。近くに来た時は、酔っている時もそうでない時も、銀座の通りをあてどなく歩く。銀座の裏通りは、時間によって違った表情を見せる。
 まだ夜の店が開く前の夕暮れ時は、店の準備をする人やママさんらしい女の人と行き交うことになる。その顔は、店の中で見せる商売の顔でなく、普通の顔をしているのがいい。

 通りを歩いていると、暇を持て余しているのか、向こうからこちらの方にぶらぶら歩く女性が目に入った。バッグも提げていないところを見ると、銀座にショッピングに来たとも銀ブラのおのぼりさんとも思われず、この界隈のおそらく店の人と見受けられた。すれ違いざまによく見ると、いい女だ。
 僕は「どちらのお店ですか?」と、当てずっぽうに訊いてみた。
 その女性は、品定めをするように僕の頭のてっぺんから足元まで見まわした後、一呼吸おいて、「あの店なんだけど」と、はす向かいのビルの上を指さした。
 「まだ店は開いていないけど」と彼女は付け足した。
 僕は店の名前を見つけて、「じゃあ、あとで来ようかな」と言った。
 彼女は、「今、店の中を見てみたら」と、またゆっくりと僕の顔を見ながら言った。
 こんなことは珍しい。普通は、じゃあ○時には開いてますからとか、名刺を渡して、あてにしてないけど待ってますぐらいの、形式的な台詞で終わるものだ。
 彼女は、さらに「店の中を見てから、来るかどうか決めたら」と、店内を見ることを再度勧めた。僕は、そんなに勧めるのなら見てみようかと、彼女について行った。
 女性は、雑居ビルの中にあるその店へ僕を連れていき、扉を開け、中に入るのを勧めた。僕は中に入って、店内を見渡した。
 ほの紅い光が漂う、古いクラシック調の落ち着いた店内装飾だった。ウイスキーの瓶が並び、アールヌーボー調の照明には鞭が絡んでいる。その中で、壁に飾られている1枚の絵が目に入った。シュール的で、エロティックでもあった。
 「こんな店だけど、分かった?」と、その女性は僕に念を押した。
 僕は、「うん、いい店だね。食事してからまた来るよ」と言って、外へ出た。
 店を出て、僕は考えた。あの店は普通の店ではないのだろう。あの女性は、僕が何も知らないで入って、びっくりするのはいけないと思い、あらかじめ知らせてくれたのに違いない。そして、おそらくSMクラブに違いないと確信した。あの妖しい絵が象徴しているのだろう、と。

 食事をして、時間を見計らってその店に行った。
 僕にはその毛はないけれど、好奇心が上回った。そのような店があることは知っていたが、行ったことはなかった。
 店に入ると、客は誰もいず、カウンターの中に、さっきの女性だけがいた。まだ早いようだ。僕は女性の前に座り、とりあえずウイスキーを頼んだ。そして、彼女とあたりさわりのない話をした。
 彼女は、僕がその道の人間かどうか半信半疑で店を案内し、どう接していいか距離を掴み兼ねているように見えた。
 「もうすぐ女の子も来るから」と、女性が言った。
 僕はさりげなく、先ほどから喉の奥につかえていて言い出しかねていた思いの内を、「この店は、SM趣味の人が来る店ですか?」と訊いてみた。
 すると、彼女は「普通の人も来るわよ」と、安心していいわよという含みを持たせて言った。
 思い切って、「鞭で打ったり、SMっぽいことも行われるのですか?」と訊いてみた。
 「そういう雰囲気になったら、ある場合もあるわね」と、曖昧な表現が返ってきた。
 しばらくして、中年の客が入ってきた。常連客のようで、その男は女性に顔で挨拶して、奥の大きなテーブルに座り、ウイスキーを飲み始めた。少し遅れて別の客が入ってきて、同じ奥のテーブルに座った。
 店の女の子がやってきて、やはりテーブルに座った。
 3人は和やかで、普段のように話をしているように見えた。
 カウンターに座ってウイスキーを舐めながら、僕はなんだかだんだん気後れしてきた。彼らが堂々としているように見えた。彼らは、日常では普通に装っているが、実は特別な内実を隠し持っている人間のように思えてきた。
 ここにいる、普通の客が、実は鞭で打たれたり、蝋燭をたらされたりしていると想像した。すると、彼らからすると、そんな経験のない僕は幼稚な子供のようなものだと思うに違いない、そう思われているのだろうと、自虐的な気持ちになってきた。
 僕は、カウンターの中にいる女性とも何を話していいのか、だんだん話題がないのを知らされた。ここにいる人間の中で、僕だけが単なる普通の人間で、僕は、何か欠けている、はっきりしているのだが、ここでの最も重要なものが欠けているということを知らされた気がした。 そして、ここにいること自体後ろめたい気になってくるのだった。
 僕は、彼女が案じたように、やはり場違いな人だったと思われたと感じた。彼女は、そんな素振りは見せはしないが、僕はこの店のレベルに達していない人間だという、気落ちした気持ちになり、やがて退散するように店を出た。
 銀座の通りはすっかり暗くなっていたが、ビルのあちこちで光るネオンは誘蛾灯のようで、夜はこれから始まるのよと言っているようだった。その夜のネオンは僕には眩しく、なぜか目を伏せるように歩いていたのだった。

 *

 中越典子と稲垣吾郎による二人芝居「ヴィーナス・イン・ファー」が、6月に東京と大阪にて上演された。
 中越典子は佐賀出身で注目していたし、ドラマでもいい芝居をしているので、渋谷BUNKAMURAに観に行った。新劇や無名の劇団の芝居を観ることはあるが、メジャーな人の芝居を観るのは珍しい。
 観客は、女性が9割以上だということは、稲垣吾郎ファンが大勢を占めているのだろうか。
 演題の「ヴィーナス・イン・ファー」は、マゾッホ原作の、SMのM、つまりマゾヒズムのルーツの作品名である。

 Sのマルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」も、Mのザッヘル・マゾッホの「ヴィーナス・イン・ファー」も読んでいなかったので、この機会に、せめてマゾッホの原作でも読んでみようと思い読んでみた。
 19世紀に書かれた「ヴィーナス・イン・ファー」(原題:Venus im Pelz、邦題「毛皮を着たヴィーナス」種村季弘訳、河出書房新社刊)は、すでに古典である。
 幻想のヴィーナスに恋した男が、現実の女にもヴィーナスを見出し、自分自身のすべてを捧げ、あげく彼女の奴隷になるという、マゾッホの自伝的小説である。

 ヴィーナスは英語読みで、ウェヌス(ラテン語)のことで、ローマ神話の愛と美の女神である。西洋文化のもとでは、いつの時代でも美の創作の対象となった。
 今に残るもので有名なものをあげれば、ギリシャの「ミロのヴィーナス」をはじめとして、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」やティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」などあまた数多い。
 物語で、「ヴィーナス・イン・ファー」の主人公のゼヴェリーンが最初魅せられたヴィーナスの絵は、ティツィアーノの「鏡に向えるヴィーナス」だった。肉感的なヴィーナスだ。あの横たわる「ウルビーノのヴィーナス」を描いた作者だ。
 主人公が「鏡に向えるヴィーナス」の絵を見たときの状況を、作者マゾッホはこう書いている。
 「何という女性だろう! 一篇の詩を書きたくなるほどだ。そうだ! 私はその写真複製を手に取って、裏面にまず「毛皮を着たヴィーナス」と書く」

 絵の中の魅惑的なヴィーナスは、ゼヴェリーンのなかで、実在の女性ワンダに投影されていく。
 そして、主人公ゼヴェリーンはワンダに対して、私はあなたを心底愛している。私はあなたのことならなんにでも耐えられます。あなたを失うこと以外には……、という心境に陥っていく。彼女に足蹴にされ、彼女の言うことは何でも聞く男になる。
 ここが重要なことだが、男は女から言われるままに、愛しているから仕方がなくということではなく、自ら悦(よろこ)んでこういう状態を望んだということである。
 そして、ゼヴェリーンはこう言うのだ。
 「あなたの奴隷になりたいのです。あなたの意のままに弄(もてあそ)べる、絶対服従の所有物、あなたが絶対権力をふるえる、だからしてついぞあなたの重荷になることはない所有物になってしまいたいのです」
 こうして、ゼヴェリーンはワンダの奴隷になることを契約するのである。
 女が教育して男を服従させたのではなく、男が女に命令者であること、絶対的主人であることを教育したのである。

 ザッヘル・マゾッホの「ヴィーナス・イン・ファー」は、物語が多少古いということもあってか、作品に夢中になれず、読むのに時間がかかってしまった。
 かつて映画化されて話題になったポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」(渋沢龍彦訳)や、作者が誰かと騒がれた沼正三の「家畜人ヤプー」も、完読に至らなかった。
 僕がこの種の本を最初に接したのは、大学に入ったすぐに、光文社から出版されたカッパブックスによる渋沢龍彦の「快楽主義の哲学」だった。すでにサド裁判などでその名は知っていたが、初めて渋沢の書いたものを読んだ。
 この本は別にSMについて書いたものではないのだが、まだ愛についても深く知らなかった僕は渋沢の耽美主義にいたく共感し、わけもなく快楽主義者、エピュキュリアンとして生きたいと思った。そして、彼が書いた「エロティシズム」(桃源社)は、当時僕の恋愛論の教科書のようになり、ビアズレーやオスカー・ワイルドを知った。
 そう思いながらも、サドの「悪徳の栄え」も読まなかったということは、その毛はなかったのだろう。
 それよりも、最初に谷崎潤一郎の「少年」を読んだときは、心が震え、「少年」の中に、自分自身を見出したりした。しかし、「痴人の愛」は、そんな被虐的な愛の形態もあるだろうなぐらいにしか感じなかった。「痴人の愛」の本当の魅力を知るには、年を重ねる必要があった。
 つまり、僕は、ワンダに鞭打たれるよりも、ナオミに跨がれることの方が好きだ、ということだ。

 余談だが、2001年にフランスを旅した時、知人の彫刻家が住んでいるプロヴァンス地方の小さな村ラコストを訪れた。そこに、マルキ・ド・サドであるサド侯爵の住んだ城跡があった。
 観光客も訪れない、忘れ去られたように立っている、今にも崩れ落ちそうな石塀だけの廃墟だが、かつて渋沢龍彦も訪れ、「生涯、忘れえぬ思い出になるだろう」と語ったという。


 *

 中越典子と稲垣吾郎による二人芝居「ヴィーナス・イン・ファー」は、ブロードウェイにて上演された、「CHICAGO」などのヒット作で知られるウォルター・ボビーによる演出作品で、ボビーの右腕を務めたロス・エヴァンスによる演出である。(写真:新聞広告)
 物語は、部屋の一室で始まり、そこで終わる。
 マゾッホの小説「ヴィーナス・イン・ファー」(毛皮を着たヴィーナス)を翻案した舞台の主演女優のオーディションを行った、劇作・演出家のトーマス(稲垣吾郎)は、一人スタジオで失望していた。彼の目にかなった女優が一人もいなかったのだ。
 そこへ突然、オーディション希望の女優(中越典子)が駆け込んでくる。
 トーマスは、最初は彼女を理想とする主演女優ではないと軽くあしらおうとするが、次第に彼女のペースにはまっていき、その場でオーディションを行うことになる。二人は、そこで脚本の読み合わせを行ううちに、現実と物語が融合し、二人の力関係が逆転していく。

 艶めかしいという印象ではない中越典子の黒いタイツ姿が、予想を裏切って官能的で美しい。二枚目とも二枚目半ともいえる微妙な立ち位置が魅力といえる稲垣吾郎は、その個性が生かされている。
 「ヴィーナス・イン・ファー」の舞台版は、現在、ロマン・ポランスキーによって映画化されているという。ポランスキーは本物の異端だけに、公開が待ち遠しい。

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