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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ はつ恋

2006-01-06 18:06:28 | 本/小説:外国
ツルゲーネフ 神西清訳 新潮文庫

 佐賀の田舎町の、駅の片隅に置かれた本立ての自由取り出しの図書館。そこに並んだ文庫本の中から、ふと「はつ恋」という文字が目に入った。そっと、取り出してみる。
 
 「はつ恋」という言葉を目にしただけで、甘酸っぱさと同時に、木苺の棘が指に刺さったような小さな痛みを感じる。それは、過ぎ去った青春の痛みである。
 
 僕は中学生だった。それまで、幼馴染のミヨちゃんにもクラス一番の美少女と噂されているケイコちゃんにも特別何かを感じたことはなかったのに、突然胸騒ぎを起こさせた女の子の出現。僕は、これまで身に覚えのない心の高揚と激しい動悸に、それまでのはしゃぎ遊びほうけるのを忘れ、立ち止まった。いきなりやってきた胸のときめきと、それを押し沈め振り払おうとする気持ちの凌ぎあいに、人知れず心は戸惑い波打っていた。
 
 その子が通るいつもの道を、いつもの時間に、僕はその道を逆に向かって歩いていく。あるときは一人で、あるときは近所の悪がきどもとふざけながら、さりげなく。
 暮れそうで暮れない黄昏が、家並みと小道を誰にも等しい優しさで包み込んでいる。なだらかな坂の小道の向こうの方から、眩しいばかりの赤いワンピースが見えてくる。それが誰だか僕はすぐに分かる。その小さな赤いワンピースは、少しずつ大きくなり、僕とすれ違う。僕はさり気なく、それでも確実に彼女の顔を見つめる。一瞬、目が合う。それだけである。
 「いつもの小道で、目と目が合った。いつものように、目と目をそらした。通り過ぎるだけの、二人のデイト……」(「いつもの小道で」)

 ツルゲーネフの「はつ恋」は、友人同士が初恋について語るという発端から始まる回顧譚である。この何かについて語り合うという高尚な時間つぶしの遊戯は当時の貴族で流行だったらしく、小説の中でも、語り手を夢中にさせた女性を中心に何度も行われる。
 
 主人公の少年は、16歳の夏、別荘で過ごす。少年を夢中にさせたのは、別荘の隣の借屋にやってきた年上の女性だった。その21歳の教養も美貌も兼ね備えた女性の周りには、いつも数人の地位も教養もある男性が集まり、彼女を中心とした小さなサロンを作っていた。彼らは、みな彼女に夢中なのだが、それを手にすることはできずに、花に群がる蝶のように、女王様にかしずく兵士のように振舞っていた。いわば、彼女は、彼らを見えない鎖で繋ぎ足元に飼っていた。少年も、会った次の日から、その一人になる。
 彼女は少年を、あるときは優しく、あるときは冷たく突き放し、彼は彼女の態度に一喜一憂する。恋心は募るばかりだが、彼女の心を窺い知ることはできないで、なす術のない日が続くのだった。
 そして、あるとき、彼女が恋をしているのを知る。自分でないことはわかるが、それは誰なのか? 彼女は変わり、そして憔悴した姿は、彼を苛ます。
 その彼女を恋するしおらしい女にさせたのは、何と少年の父親だった。
 
 この小説を読み出して、すぐに女優ドミニク・サンダを思い出した。1971年製作された映画『初恋』の中で、この気位の高い魅力に満ちた女を演じたのは、彼女だったのだ。父親役は、監督でもあるマクシミリアン・シェル。少年役は、ジョン・モルグー・ブラウン。僕は当時この映画を観て、すっかりドミニク・サンダの魅力に参ったものだ。

 ひと夏の体験は、少年一家がモスクワの町に引き揚げることで終焉を告げた。
 4年後、彼は彼女があっけなく死んだことを知らされる。

 そして、初恋を回顧した作者(ツルゲーネフ)は語る。
 「ああ、青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。お前は思い上がって傲慢で、「われは一人生きる、まあ見ているがいい」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋のように、雪のように」

 初恋を知った頃、人は少年を卒業する。女性というものが特別の存在として見えてきて、人や社会との関わりが曖昧ながらも形あるものへと繋がっていく。
 しかし、まだおぼろげな未来に対しては、傲慢と卑下、快活と暗澹の間を揺れ動きながらも、夢見る日々を続けるのだ。
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□ 聖母の出現

2005-09-13 20:59:54 | 本/小説:外国
 関 一敏著 日本エディタースクール

 「不思議大好き」だった。みんな、子どもの頃はそうだったはずだ。映画「スタンド・バイ・ミー」の少年たちのように、恐る恐ると裏山や知らない隣町を探検した。自分の背丈を越える潅木や草の茂みをかき分け、谷川を渡った。新しい体験すべてが発見だった。
 だから子どもの頃は、世界は不思議なことや怖いことや理解しがたいことがいたるところに散在していて、次々と目の前にやってきたと言っていい。しかし、物事や世の中の仕組みを理解するにしたがって、「不思議」は世界から少しずつなくなっていった。
 しかし、そこに目を向ければ「不思議」はまだいっぱいある。その最たるものを私たちは「奇跡」と呼ぶ。奇跡は一般用語で、奇跡に関する規範条件があるわけではない(と思われる)。だから、泡のように消える奇跡もあり、誰も相手にしない奇跡もある。しかし、世界には長年「奇跡」と呼ばれているものが実際に現存する。

 ルルドとファチマは、奇跡の地と呼ばれている。
なぜか? いずれも、その地に聖母マリアが出現したからである。いずれも鄙びた寒村での出来事であった。そして、その地はまたたく間に聖地になった。
 ルルドは、1858年、14才の少女の前に、ファチマは1917年に、7、9、10才の3人の羊飼いの少女の前に現れた。
 この出現したマリア像は、当該体現者(上記の少女および少女たち)以外視覚として確認できていない。興味深いことは、それが、どうやって世界中に知られる奇跡の地になったかということである。名もない少女の発言を、周辺の人間が認め、広く大衆が認め、そして今日では法王をも動かすようになったかである。また、いかにして、誰によって、いつから奇跡の地として認知されるようになったかである。
 それが、私には不思議だった。

 この「奇跡」の認知には、教会が関わっていた。いや、関わっていたというより、大衆が教会を動かしたと言った方がいい。
 その不思議現象の噂を聞きつけた人々が次第に多くなり、その地を訪れ、群れを作り礼拝する動きに、教会も無視できなくなる。しかも噂の実態は「聖母」の出現である。その真意の確認のために、司祭による当該体現者(少女および少女たち)に対する何回ものヒアリング調査が行われ、大衆の声にも耳を傾けざるをえなくなる。
 教会の声は順次上の位層へ持ち運ばれ、協議が行われ、その地に礼拝堂(教会)を建てることになる。おそらく最初の礼拝堂は規模もほどほどであったと思われるが、礼拝堂を建てたことにより全国に知れることとなり、さらに訪れる人が増大する。
 いや、礼拝堂(教会)を建てたときにすでに、不思議現象は「奇跡」と認知されたと言っていい。噂は噂を呼び、訪れる人が多くなれば、街の経済的活動も活発になる。遠方から訪れる人のためにホテルやレストランが建ち、お土産物屋も現れ、パンフレットや絵はがきも売られる。こうして、巡礼地が誕生したのだろう。

 ルルドのマサビエル洞窟は、マリアが出現したのみならず、その地に泉が湧き、その水が病気治癒を行う水とされている。
 ルルドの体現者である少女ベルナデットは広く名を知られるようになるが、自身も奇跡の病気治癒を行ったと記録されている。
 しかし、興味深いことに、彼女は計18回の出現体験で、1度も「聖母」とは言っていない。親しい人にも調査をした司祭にも、「婦人の形をした何か白いもの」あるいは「あれ」(Aquero)という形容詞で通している。つまり、「聖母」は、体現者以外の声によって形成されていったのである。
 1858年2月11日最初の出現を見る。2回の無言の出現のあと、3回目にその後15回の出現の約束が交わされる。これ以後、洞窟を訪れる大衆の群れは急に増加する。4回から15回目の2週間は「祈り」「秘密」「悔悛」のメッセージが届けられ、16回目に、初めて名前の告知がある。何回かのベルナデットから「あれ」への質問に対しての返答である。
 それは「私は無原罪の宿りです」(Que soy era Imaculada Councepciou)というものであった。意味を知らないまま伝えられたこの言葉が、司祭に決定的な衝撃を与え、それがベルナデットの体現を認知する引き金になったようである。というのは、4年前に教皇のピウス9世によって宣言された「聖母無原罪の御宿り」の教義と符合していたからである。
 その15回の出現の間に、洞窟から泉の出現を見る。そして、その水による病気治癒の評判が現れる。また、15回の出現の直後、ベルナデットが抱擁した少女の目が快癒したなど2例の病気治癒の奇跡譚がある。
 16回目の出現以後、教会の対応は、司教区レベルの問題となる。司教区調査委員会が組織され、2年余の調査ののち、1862年1月にルルドのマサビエル洞窟での出現を公的に認める教書が発布される。
 ルルドにおける現在に至る65件の奇跡のうち、最初の3件の承認がこの時期(同年3月)になされている。奇跡第1号は、近村から訪れた女性ラピターの右指硬直の治癒(1858年3月1日)である。

 この地のほかにも、世界中でマリア出現の例は数多く報告されている。
 最初に出現されたとされる1830年から1967年までの間に、各地司教区調査委員会の検討に委ねられたものだけでも187にのぼっている。おそらく、他にも検討に至らなかったり(無視)、虚偽として扱われたりして、短い間に雲散霧消した例も多々あったと思われる。
 このうち、11件が教会の許可を得てマリア巡礼の資格を獲得している。このことが重要である。やはり、「聖母出現」の地には、教会の許可、つまり認可があったのである。
 
 最初の例は、1830年、パリ7区バック街の愛徳姉妹会(Soeurs de la Charite)の修道女カトリーヌ・ラブレに、聖母がメダル鋳造のメッセージを託したというものである。それは、彫るべき図柄も視覚化して伝えたとされ、2年後にはパリ大司教許可のメダルが頒布され大評判になった。
 これが、マリア信仰、「マリアの時代」とされるマリア出現の始まりである。
 このメダルの影響から、1842年、ローマのラティスボンヌにおけるメダルの聖母の出現と回心が生まれる。
 このあと、マリア出現は、ラ・サレット(1846年)、ルルド(1858年)、イラカ(1865~67年)、フィリップスドルフ(1866年)ポンマン(1871年)、ノック(1879年)、ファチマ(1917年)、ボーラン(1932~33年)、バンヌー(1933年)と続く。
 
 これら「マリア出現」で特徴的なことは、多くの場合が貧しき者、幼き者への出現ということである。特にファチマに見られるように羊飼いということは、暗示的でもある。
 このあと、ルルドやファチマなどのマリア崇敬は迷信であるとするプロテスタント教会の団体があることを知った。
 こうして見ると、「奇跡」とは、宗教世界のものかもしれない。一般社会にあるのは、「偶然」と「まだ科学では解明できていないこと」であるのかも。
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