ツルゲーネフ 神西清訳 新潮文庫
佐賀の田舎町の、駅の片隅に置かれた本立ての自由取り出しの図書館。そこに並んだ文庫本の中から、ふと「はつ恋」という文字が目に入った。そっと、取り出してみる。
「はつ恋」という言葉を目にしただけで、甘酸っぱさと同時に、木苺の棘が指に刺さったような小さな痛みを感じる。それは、過ぎ去った青春の痛みである。
僕は中学生だった。それまで、幼馴染のミヨちゃんにもクラス一番の美少女と噂されているケイコちゃんにも特別何かを感じたことはなかったのに、突然胸騒ぎを起こさせた女の子の出現。僕は、これまで身に覚えのない心の高揚と激しい動悸に、それまでのはしゃぎ遊びほうけるのを忘れ、立ち止まった。いきなりやってきた胸のときめきと、それを押し沈め振り払おうとする気持ちの凌ぎあいに、人知れず心は戸惑い波打っていた。
その子が通るいつもの道を、いつもの時間に、僕はその道を逆に向かって歩いていく。あるときは一人で、あるときは近所の悪がきどもとふざけながら、さりげなく。
暮れそうで暮れない黄昏が、家並みと小道を誰にも等しい優しさで包み込んでいる。なだらかな坂の小道の向こうの方から、眩しいばかりの赤いワンピースが見えてくる。それが誰だか僕はすぐに分かる。その小さな赤いワンピースは、少しずつ大きくなり、僕とすれ違う。僕はさり気なく、それでも確実に彼女の顔を見つめる。一瞬、目が合う。それだけである。
「いつもの小道で、目と目が合った。いつものように、目と目をそらした。通り過ぎるだけの、二人のデイト……」(「いつもの小道で」)
ツルゲーネフの「はつ恋」は、友人同士が初恋について語るという発端から始まる回顧譚である。この何かについて語り合うという高尚な時間つぶしの遊戯は当時の貴族で流行だったらしく、小説の中でも、語り手を夢中にさせた女性を中心に何度も行われる。
主人公の少年は、16歳の夏、別荘で過ごす。少年を夢中にさせたのは、別荘の隣の借屋にやってきた年上の女性だった。その21歳の教養も美貌も兼ね備えた女性の周りには、いつも数人の地位も教養もある男性が集まり、彼女を中心とした小さなサロンを作っていた。彼らは、みな彼女に夢中なのだが、それを手にすることはできずに、花に群がる蝶のように、女王様にかしずく兵士のように振舞っていた。いわば、彼女は、彼らを見えない鎖で繋ぎ足元に飼っていた。少年も、会った次の日から、その一人になる。
彼女は少年を、あるときは優しく、あるときは冷たく突き放し、彼は彼女の態度に一喜一憂する。恋心は募るばかりだが、彼女の心を窺い知ることはできないで、なす術のない日が続くのだった。
そして、あるとき、彼女が恋をしているのを知る。自分でないことはわかるが、それは誰なのか? 彼女は変わり、そして憔悴した姿は、彼を苛ます。
その彼女を恋するしおらしい女にさせたのは、何と少年の父親だった。
この小説を読み出して、すぐに女優ドミニク・サンダを思い出した。1971年製作された映画『初恋』の中で、この気位の高い魅力に満ちた女を演じたのは、彼女だったのだ。父親役は、監督でもあるマクシミリアン・シェル。少年役は、ジョン・モルグー・ブラウン。僕は当時この映画を観て、すっかりドミニク・サンダの魅力に参ったものだ。
ひと夏の体験は、少年一家がモスクワの町に引き揚げることで終焉を告げた。
4年後、彼は彼女があっけなく死んだことを知らされる。
そして、初恋を回顧した作者(ツルゲーネフ)は語る。
「ああ、青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。お前は思い上がって傲慢で、「われは一人生きる、まあ見ているがいい」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋のように、雪のように」
初恋を知った頃、人は少年を卒業する。女性というものが特別の存在として見えてきて、人や社会との関わりが曖昧ながらも形あるものへと繋がっていく。
しかし、まだおぼろげな未来に対しては、傲慢と卑下、快活と暗澹の間を揺れ動きながらも、夢見る日々を続けるのだ。
佐賀の田舎町の、駅の片隅に置かれた本立ての自由取り出しの図書館。そこに並んだ文庫本の中から、ふと「はつ恋」という文字が目に入った。そっと、取り出してみる。
「はつ恋」という言葉を目にしただけで、甘酸っぱさと同時に、木苺の棘が指に刺さったような小さな痛みを感じる。それは、過ぎ去った青春の痛みである。
僕は中学生だった。それまで、幼馴染のミヨちゃんにもクラス一番の美少女と噂されているケイコちゃんにも特別何かを感じたことはなかったのに、突然胸騒ぎを起こさせた女の子の出現。僕は、これまで身に覚えのない心の高揚と激しい動悸に、それまでのはしゃぎ遊びほうけるのを忘れ、立ち止まった。いきなりやってきた胸のときめきと、それを押し沈め振り払おうとする気持ちの凌ぎあいに、人知れず心は戸惑い波打っていた。
その子が通るいつもの道を、いつもの時間に、僕はその道を逆に向かって歩いていく。あるときは一人で、あるときは近所の悪がきどもとふざけながら、さりげなく。
暮れそうで暮れない黄昏が、家並みと小道を誰にも等しい優しさで包み込んでいる。なだらかな坂の小道の向こうの方から、眩しいばかりの赤いワンピースが見えてくる。それが誰だか僕はすぐに分かる。その小さな赤いワンピースは、少しずつ大きくなり、僕とすれ違う。僕はさり気なく、それでも確実に彼女の顔を見つめる。一瞬、目が合う。それだけである。
「いつもの小道で、目と目が合った。いつものように、目と目をそらした。通り過ぎるだけの、二人のデイト……」(「いつもの小道で」)
ツルゲーネフの「はつ恋」は、友人同士が初恋について語るという発端から始まる回顧譚である。この何かについて語り合うという高尚な時間つぶしの遊戯は当時の貴族で流行だったらしく、小説の中でも、語り手を夢中にさせた女性を中心に何度も行われる。
主人公の少年は、16歳の夏、別荘で過ごす。少年を夢中にさせたのは、別荘の隣の借屋にやってきた年上の女性だった。その21歳の教養も美貌も兼ね備えた女性の周りには、いつも数人の地位も教養もある男性が集まり、彼女を中心とした小さなサロンを作っていた。彼らは、みな彼女に夢中なのだが、それを手にすることはできずに、花に群がる蝶のように、女王様にかしずく兵士のように振舞っていた。いわば、彼女は、彼らを見えない鎖で繋ぎ足元に飼っていた。少年も、会った次の日から、その一人になる。
彼女は少年を、あるときは優しく、あるときは冷たく突き放し、彼は彼女の態度に一喜一憂する。恋心は募るばかりだが、彼女の心を窺い知ることはできないで、なす術のない日が続くのだった。
そして、あるとき、彼女が恋をしているのを知る。自分でないことはわかるが、それは誰なのか? 彼女は変わり、そして憔悴した姿は、彼を苛ます。
その彼女を恋するしおらしい女にさせたのは、何と少年の父親だった。
この小説を読み出して、すぐに女優ドミニク・サンダを思い出した。1971年製作された映画『初恋』の中で、この気位の高い魅力に満ちた女を演じたのは、彼女だったのだ。父親役は、監督でもあるマクシミリアン・シェル。少年役は、ジョン・モルグー・ブラウン。僕は当時この映画を観て、すっかりドミニク・サンダの魅力に参ったものだ。
ひと夏の体験は、少年一家がモスクワの町に引き揚げることで終焉を告げた。
4年後、彼は彼女があっけなく死んだことを知らされる。
そして、初恋を回顧した作者(ツルゲーネフ)は語る。
「ああ、青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。お前は思い上がって傲慢で、「われは一人生きる、まあ見ているがいい」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋のように、雪のように」
初恋を知った頃、人は少年を卒業する。女性というものが特別の存在として見えてきて、人や社会との関わりが曖昧ながらも形あるものへと繋がっていく。
しかし、まだおぼろげな未来に対しては、傲慢と卑下、快活と暗澹の間を揺れ動きながらも、夢見る日々を続けるのだ。