佐賀を発って、東京へ戻った。今回は、車(自動車)でである。
というのは、関西に住んでいる弟が車で佐賀へ帰ってきていたので、彼の車で関西まで一緒に行くことにした。
長崎自動車道から鳥栖インターチェンジで九州自動車道に変わり、関門橋を渡って中国自動車道、山陽自動車道で関西へ向かう。
鳥栖を経て福岡県に入り太宰府の先に須恵パーキングエリアを過ぎたところで、左側に三角形の山が二つ重なるように見えた。何とボタ山だ。地理的には筑豊炭田より離れているのだが、ここにも炭坑があったのだ。五木寛之の『青春の門』の舞台になった筑豊の田川には、今でも立派なボタ山が残っているのを思い出した。
僕が育った町も炭坑町だったので、ボタ山には郷愁と愛惜がある。石炭から石油へ日本のエネルギー産業が移り、炭鉱が次々と閉山に追いやられるのを横目で見ながら、僕はいくつかの残っている炭鉱を休暇や帰省を利用して訪ねたことがある。
長崎の高島炭鉱が閉山に決まった時、86年、見ておこうと長崎港から船に乗った。年末だったので、島へ帰省する人たちと一緒の船となった。高島は、まだ伸びやかな炭鉱の雰囲気が残っていた。誰も住んでいない無人の端島(軍艦島)が海の彼方に眺められた。
軍艦島は、かつて中学の社会科の教科書にも登場した、石炭産業の華やかさのシンボルだった。昭和30年代には、日本初(大正期)の鉄筋コンクリートである高層ビルが乱立した、当時日本の最先端の島だった。タテ160m、ヨコ480m、周囲1.2kmの人工島は当時世界一の人口密度で、家々にはテレビなどの電化製品が揃っていた。廃鉱になったのは、74年である。
その軍艦島が再び脚光を浴びたのは、もう軍艦島のことは人々が忘れていた頃のことだ。皮肉にも、誰も住んでいないその島に入り込んで、無惨な廃墟となった島内を撮映した一冊の写真集だった。僕も(おそらくそれを見た人は誰でも)、その写真集に衝撃を受けた。昨日まで人が住んでいたかのような生々しい軍艦島の残滓は、その後の廃墟ブームに火をつけたのではなかろうか。
その後、何冊かの写真集が出版され、TVで放映されて話題になったこともあって、今では産業遺跡として、長崎県では観光化する動きもあるほどだ。いや、世界遺産にしようと運動している人もいる。
88年、車で北海道一周を旅した時は、夕張は既に廃山となって、佐渡の金山や足尾の銅山に倣った観光用の鉱山跡と炭鉱博物館に姿を変えていた。しかし、歌志内、上砂川にはわずかに細々と採掘が行われていた。それは、もう息絶え絶えの姿だった。
歌志内の炭住(長屋式の炭鉱住宅)を歩いた時は、人が生活していた。しかし、ここもいずれなくなり、今いる人もどこかへ去って行かざるを得ないのかと思うと、懐かしいという思いは消えて切なくなった。
91年、筑豊の田川のわずかに残っている炭住を歩いた時は、もう廃山になってから相当年月がたつのに、まだこの町では炭鉱の息吹が微かに聞こえるので驚いた。ここではボタ山も健在だった。それは、じっと町を見つめ続ける賢老のようだった。
日本の石炭産業の雄といえば、大牟田市の三池炭鉱である。60年の安保と同時期に起きた三池闘争は、総労働対総資本の闘いと言わしめるほど激しい闘いとなり、日本人全体を注目させた。それでも、時代の流れに勝てず、三池闘争は労働の敗北に終わった。
疲弊し、憔悴した三池の町の中から、65年、三池工業高校が夏の甲子園で全国優勝した。初出場で初優勝だった。その時の投手である上田卓三は、僕の好きだった南海ホークス(現・福岡ソフトバンク・ホークス)に入団した。
その三池も97年閉山した。翌98年、僕は大牟田の三池を訪ねて歩いた。宮ノ原抗、万田抗は既に廃抗となって久しかったが、三池港はまだ息をしていた。静かな山の跡では残務整理が続いていて、まだ人が働いていた。それは、一つの大きな歴史が静かに息を引き取ろうとしている風景だった。
そして、そこの大牟田で発見したのが、三池の華やかな時代の残照ともいえる港倶楽部である。かつてはVIP専用に運営されていた明治42年建てられた西洋建築だが、結婚式場やレストランとして現役で営業していた。誰もいない客室で、一人コーヒーを飲んだ。しかし、ここも今では営業は廃止されたようである。
2000年、僕が最後に訪れたのが、九州最後の炭鉱である長崎の池島炭鉱である。翌2001年に閉山が決定されていた。行きは、佐世保から船に乗って島に渡り、帰りは大瀬戸へ渡ってバスで佐世保に出た。池島では、炭鉱で生活する人がいたし、炭鉱の町があった。
町を歩いていると役場があったので、窓口に行くと、炭鉱の資料を渡してくれた。
抗口のある建物の前に行ってみると、炭鉱夫の銅像がある。ヘルメットを被った抗夫の人が次々と構内へ入っていく。僕も、それらの人について入ってみると、抗口へ通じる通路があり、坑内から出てきた人が入る鉱員浴場があった。構内には入ってはいけないのだろうけど、誰も咎める人はいなかった。黙々と、いや粛々と、残りわずかな命を噛みしめるように、操業は続いていた。
炭鉱夫の銅像は、いつまで残り続けるのだろうか。いつの日か、誰かがその銅像を見て、この炭鉱に思いをはせるのだろうか。
明治以来日本の興国を支えてきた商業用の炭鉱は、2002年の北海道太平洋炭鉱の閉山でもって、幕を閉じた。
というのは、関西に住んでいる弟が車で佐賀へ帰ってきていたので、彼の車で関西まで一緒に行くことにした。
長崎自動車道から鳥栖インターチェンジで九州自動車道に変わり、関門橋を渡って中国自動車道、山陽自動車道で関西へ向かう。
鳥栖を経て福岡県に入り太宰府の先に須恵パーキングエリアを過ぎたところで、左側に三角形の山が二つ重なるように見えた。何とボタ山だ。地理的には筑豊炭田より離れているのだが、ここにも炭坑があったのだ。五木寛之の『青春の門』の舞台になった筑豊の田川には、今でも立派なボタ山が残っているのを思い出した。
僕が育った町も炭坑町だったので、ボタ山には郷愁と愛惜がある。石炭から石油へ日本のエネルギー産業が移り、炭鉱が次々と閉山に追いやられるのを横目で見ながら、僕はいくつかの残っている炭鉱を休暇や帰省を利用して訪ねたことがある。
長崎の高島炭鉱が閉山に決まった時、86年、見ておこうと長崎港から船に乗った。年末だったので、島へ帰省する人たちと一緒の船となった。高島は、まだ伸びやかな炭鉱の雰囲気が残っていた。誰も住んでいない無人の端島(軍艦島)が海の彼方に眺められた。
軍艦島は、かつて中学の社会科の教科書にも登場した、石炭産業の華やかさのシンボルだった。昭和30年代には、日本初(大正期)の鉄筋コンクリートである高層ビルが乱立した、当時日本の最先端の島だった。タテ160m、ヨコ480m、周囲1.2kmの人工島は当時世界一の人口密度で、家々にはテレビなどの電化製品が揃っていた。廃鉱になったのは、74年である。
その軍艦島が再び脚光を浴びたのは、もう軍艦島のことは人々が忘れていた頃のことだ。皮肉にも、誰も住んでいないその島に入り込んで、無惨な廃墟となった島内を撮映した一冊の写真集だった。僕も(おそらくそれを見た人は誰でも)、その写真集に衝撃を受けた。昨日まで人が住んでいたかのような生々しい軍艦島の残滓は、その後の廃墟ブームに火をつけたのではなかろうか。
その後、何冊かの写真集が出版され、TVで放映されて話題になったこともあって、今では産業遺跡として、長崎県では観光化する動きもあるほどだ。いや、世界遺産にしようと運動している人もいる。
88年、車で北海道一周を旅した時は、夕張は既に廃山となって、佐渡の金山や足尾の銅山に倣った観光用の鉱山跡と炭鉱博物館に姿を変えていた。しかし、歌志内、上砂川にはわずかに細々と採掘が行われていた。それは、もう息絶え絶えの姿だった。
歌志内の炭住(長屋式の炭鉱住宅)を歩いた時は、人が生活していた。しかし、ここもいずれなくなり、今いる人もどこかへ去って行かざるを得ないのかと思うと、懐かしいという思いは消えて切なくなった。
91年、筑豊の田川のわずかに残っている炭住を歩いた時は、もう廃山になってから相当年月がたつのに、まだこの町では炭鉱の息吹が微かに聞こえるので驚いた。ここではボタ山も健在だった。それは、じっと町を見つめ続ける賢老のようだった。
日本の石炭産業の雄といえば、大牟田市の三池炭鉱である。60年の安保と同時期に起きた三池闘争は、総労働対総資本の闘いと言わしめるほど激しい闘いとなり、日本人全体を注目させた。それでも、時代の流れに勝てず、三池闘争は労働の敗北に終わった。
疲弊し、憔悴した三池の町の中から、65年、三池工業高校が夏の甲子園で全国優勝した。初出場で初優勝だった。その時の投手である上田卓三は、僕の好きだった南海ホークス(現・福岡ソフトバンク・ホークス)に入団した。
その三池も97年閉山した。翌98年、僕は大牟田の三池を訪ねて歩いた。宮ノ原抗、万田抗は既に廃抗となって久しかったが、三池港はまだ息をしていた。静かな山の跡では残務整理が続いていて、まだ人が働いていた。それは、一つの大きな歴史が静かに息を引き取ろうとしている風景だった。
そして、そこの大牟田で発見したのが、三池の華やかな時代の残照ともいえる港倶楽部である。かつてはVIP専用に運営されていた明治42年建てられた西洋建築だが、結婚式場やレストランとして現役で営業していた。誰もいない客室で、一人コーヒーを飲んだ。しかし、ここも今では営業は廃止されたようである。
2000年、僕が最後に訪れたのが、九州最後の炭鉱である長崎の池島炭鉱である。翌2001年に閉山が決定されていた。行きは、佐世保から船に乗って島に渡り、帰りは大瀬戸へ渡ってバスで佐世保に出た。池島では、炭鉱で生活する人がいたし、炭鉱の町があった。
町を歩いていると役場があったので、窓口に行くと、炭鉱の資料を渡してくれた。
抗口のある建物の前に行ってみると、炭鉱夫の銅像がある。ヘルメットを被った抗夫の人が次々と構内へ入っていく。僕も、それらの人について入ってみると、抗口へ通じる通路があり、坑内から出てきた人が入る鉱員浴場があった。構内には入ってはいけないのだろうけど、誰も咎める人はいなかった。黙々と、いや粛々と、残りわずかな命を噛みしめるように、操業は続いていた。
炭鉱夫の銅像は、いつまで残り続けるのだろうか。いつの日か、誰かがその銅像を見て、この炭鉱に思いをはせるのだろうか。
明治以来日本の興国を支えてきた商業用の炭鉱は、2002年の北海道太平洋炭鉱の閉山でもって、幕を閉じた。