9月24日22時東京駅を発った寝台特急「サンライズ瀬戸」は、翌25日の早朝岡山で「出雲」と分かれて、南下して四国へ向かった。
岡山の先の児島を出たら、瀬戸内海が見えてきて、列車は瀬戸大橋を走った。空は青く晴れ渡り、海も空の色と合わせるように青い。空には小さな雲が浮かんでいる。
橋で四国へ渡るのは初めてである。
もうずいぶん昔だが、初めて四国へ行ったときは、淡路島から鳴門海峡を船で渡った。徳島から高知、香川への旅だった。2回目は仕事関係による物見遊山で、高知だけを回った。
「サンライズ瀬戸」は高松行きなのだが、僕は四国に上陸したすぐの香川の坂出で降りて、予讃線の西へ行く列車を待った。坂出には7時9分に着いたが、すぐに各駅停車の列車はやってきたのでそれに飛び乗り、すぐ先の丸亀駅で降りたった。
丸亀には城があり、現存天守閣が残っているというので見ておこうと思った。
現存している天守を持つ城は全国で12しかないが、そのうち四国に4つもある。その1つが丸亀城である。ちなみに四国の4つとは、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城である。
丸亀駅は高層になっていて、そこから駅前から丸亀市内が一望できた。
駅前の広場の先に街のビルが並び、その奥に三角形の山がでんと目に入ってきた。それは富士山を縮小して造ったようでもあり、オムスビのようでもあった。
駅から城の方に歩いていくと、堀がありそれに沿って石垣が続いた。そして、大手門があった。大手門をくぐって天守のあるところに登ると、まだ天守の門は閉まっていて、おじさんが3人門の前で座っていた。天守の前には足場の柱が組まれているので、修復か何かの工事中なのかもしれない。
僕は工事中なので中には入れないと思って、城の裏手の方や門を覗いたりしていると、おじさんが「まだだよ。開くのは9時からだよ」と言った。腕時計を見ると、まだ8時を回ったところで、8時半にもなっていない。
おじさんは僕を品定めでもするようにまじまじと見ながら、「見たいの?」「じゃあ、特別に開けてやるか」と言って、ゆっくりと腰を上げて門を開いて入れてくれた。 おじさんは工事の職人ではなく、城の受付等の係りの人だった。
丸亀城は3層(階)で、階段も年季の入った木造だった。この丸亀城の天守は、四国で最も古いものだった。
天守の窓からは、やはり駅から見えたあの三角形の山が見えた。解説に讃岐富士とあった。やはり、ご当地富士なのだった。
*
丸亀駅に戻り、再び松山方面の列車に乗った。まだ9時を過ぎたぐらいだ。
座席に座ると、駅で買った駅弁の「たいらぎ弁当」を開いた。大きな帆立貝のような貝の肉が詰まっている。
ゆっくり弁当を食べ終わったあたりで、10時過ぎに新居浜駅で降りた。ここは、もう愛媛県だ。新居浜には別子銅山跡がある。
鉱山跡が好きだ。
鉱業を産み出す鉱山は、時代の栄華と衰退を象徴している。佐渡(新潟県)にしても、石見(島根県)にしても、足尾(栃木県)にしても、そしてあまたある炭鉱にしても。
鉱山から掘り出される鉱物は無尽蔵ではない。いつか尽きる。時代の宝の山はひとときのものだ。尽きたときに、そこに築かれた組織や街は役割を失っていく。
夢を追って人が集まり、たちまち街ができ、夢が尽きると、人が去って、いつしか街がなくなる。
その産業遺産跡には、失われた栄華の哀愁が残っている。
別子銅山は江戸時代より開発されたが、一貫して住友家が経営し、住友財閥の基盤となったところである。
駅前からバスで遺跡があるマインとピア別子へ行った。バスは、駅から離れた里山の渕の山の麓で停まった。
そこは観光地化されていて、観光用の鉱山鉄道が走り、観光用の坑道ができていた。(写真)
坑道の中は、よくある再現模型が飾ってある。佐渡や足尾をミニチュアにした感じだ。観光坑道を出て周りを歩くと、門を閉めてあるが通洞跡があり、当時の面影を偲ぶことができる。
ここからさらに奥地の東平(とうなる)地区には、当時の産業遺産ともいうべき建物が残っているが、そこへ行くバスがなかったので、この端出場(はでば)地区を回って駅へ戻ることにした。
しかし、この東平地区の建物跡を誰が言ったのか、ガイドブックやパンフレットが軒並み「東洋のマチュピチュ」と謳っているのは、過剰表現で面映い。ペルーのマチュピチュは、今では世界遺産の中でも最も人気にあるインカの遺跡なのに。
ようやく新居浜をあとにして松山に向かった。
何だか電車の乗り継ぎもバスも、タイミングがいい。朝早くから行動したとしても、まだ昼を過ぎたばかりだ。
新居浜から松山には、特急列車で1時間余で着く。
岡山の先の児島を出たら、瀬戸内海が見えてきて、列車は瀬戸大橋を走った。空は青く晴れ渡り、海も空の色と合わせるように青い。空には小さな雲が浮かんでいる。
橋で四国へ渡るのは初めてである。
もうずいぶん昔だが、初めて四国へ行ったときは、淡路島から鳴門海峡を船で渡った。徳島から高知、香川への旅だった。2回目は仕事関係による物見遊山で、高知だけを回った。
「サンライズ瀬戸」は高松行きなのだが、僕は四国に上陸したすぐの香川の坂出で降りて、予讃線の西へ行く列車を待った。坂出には7時9分に着いたが、すぐに各駅停車の列車はやってきたのでそれに飛び乗り、すぐ先の丸亀駅で降りたった。
丸亀には城があり、現存天守閣が残っているというので見ておこうと思った。
現存している天守を持つ城は全国で12しかないが、そのうち四国に4つもある。その1つが丸亀城である。ちなみに四国の4つとは、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城である。
丸亀駅は高層になっていて、そこから駅前から丸亀市内が一望できた。
駅前の広場の先に街のビルが並び、その奥に三角形の山がでんと目に入ってきた。それは富士山を縮小して造ったようでもあり、オムスビのようでもあった。
駅から城の方に歩いていくと、堀がありそれに沿って石垣が続いた。そして、大手門があった。大手門をくぐって天守のあるところに登ると、まだ天守の門は閉まっていて、おじさんが3人門の前で座っていた。天守の前には足場の柱が組まれているので、修復か何かの工事中なのかもしれない。
僕は工事中なので中には入れないと思って、城の裏手の方や門を覗いたりしていると、おじさんが「まだだよ。開くのは9時からだよ」と言った。腕時計を見ると、まだ8時を回ったところで、8時半にもなっていない。
おじさんは僕を品定めでもするようにまじまじと見ながら、「見たいの?」「じゃあ、特別に開けてやるか」と言って、ゆっくりと腰を上げて門を開いて入れてくれた。 おじさんは工事の職人ではなく、城の受付等の係りの人だった。
丸亀城は3層(階)で、階段も年季の入った木造だった。この丸亀城の天守は、四国で最も古いものだった。
天守の窓からは、やはり駅から見えたあの三角形の山が見えた。解説に讃岐富士とあった。やはり、ご当地富士なのだった。
*
丸亀駅に戻り、再び松山方面の列車に乗った。まだ9時を過ぎたぐらいだ。
座席に座ると、駅で買った駅弁の「たいらぎ弁当」を開いた。大きな帆立貝のような貝の肉が詰まっている。
ゆっくり弁当を食べ終わったあたりで、10時過ぎに新居浜駅で降りた。ここは、もう愛媛県だ。新居浜には別子銅山跡がある。
鉱山跡が好きだ。
鉱業を産み出す鉱山は、時代の栄華と衰退を象徴している。佐渡(新潟県)にしても、石見(島根県)にしても、足尾(栃木県)にしても、そしてあまたある炭鉱にしても。
鉱山から掘り出される鉱物は無尽蔵ではない。いつか尽きる。時代の宝の山はひとときのものだ。尽きたときに、そこに築かれた組織や街は役割を失っていく。
夢を追って人が集まり、たちまち街ができ、夢が尽きると、人が去って、いつしか街がなくなる。
その産業遺産跡には、失われた栄華の哀愁が残っている。
別子銅山は江戸時代より開発されたが、一貫して住友家が経営し、住友財閥の基盤となったところである。
駅前からバスで遺跡があるマインとピア別子へ行った。バスは、駅から離れた里山の渕の山の麓で停まった。
そこは観光地化されていて、観光用の鉱山鉄道が走り、観光用の坑道ができていた。(写真)
坑道の中は、よくある再現模型が飾ってある。佐渡や足尾をミニチュアにした感じだ。観光坑道を出て周りを歩くと、門を閉めてあるが通洞跡があり、当時の面影を偲ぶことができる。
ここからさらに奥地の東平(とうなる)地区には、当時の産業遺産ともいうべき建物が残っているが、そこへ行くバスがなかったので、この端出場(はでば)地区を回って駅へ戻ることにした。
しかし、この東平地区の建物跡を誰が言ったのか、ガイドブックやパンフレットが軒並み「東洋のマチュピチュ」と謳っているのは、過剰表現で面映い。ペルーのマチュピチュは、今では世界遺産の中でも最も人気にあるインカの遺跡なのに。
ようやく新居浜をあとにして松山に向かった。
何だか電車の乗り継ぎもバスも、タイミングがいい。朝早くから行動したとしても、まだ昼を過ぎたばかりだ。
新居浜から松山には、特急列車で1時間余で着く。