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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

愛媛から九州へ② 予讃線で、丸亀、新居浜・別子銅山

2011-10-06 02:31:31 | * 四国~九州への旅
 9月24日22時東京駅を発った寝台特急「サンライズ瀬戸」は、翌25日の早朝岡山で「出雲」と分かれて、南下して四国へ向かった。
 岡山の先の児島を出たら、瀬戸内海が見えてきて、列車は瀬戸大橋を走った。空は青く晴れ渡り、海も空の色と合わせるように青い。空には小さな雲が浮かんでいる。
 橋で四国へ渡るのは初めてである。
 もうずいぶん昔だが、初めて四国へ行ったときは、淡路島から鳴門海峡を船で渡った。徳島から高知、香川への旅だった。2回目は仕事関係による物見遊山で、高知だけを回った。

 「サンライズ瀬戸」は高松行きなのだが、僕は四国に上陸したすぐの香川の坂出で降りて、予讃線の西へ行く列車を待った。坂出には7時9分に着いたが、すぐに各駅停車の列車はやってきたのでそれに飛び乗り、すぐ先の丸亀駅で降りたった。
 丸亀には城があり、現存天守閣が残っているというので見ておこうと思った。
 現存している天守を持つ城は全国で12しかないが、そのうち四国に4つもある。その1つが丸亀城である。ちなみに四国の4つとは、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城である。

 丸亀駅は高層になっていて、そこから駅前から丸亀市内が一望できた。
 駅前の広場の先に街のビルが並び、その奥に三角形の山がでんと目に入ってきた。それは富士山を縮小して造ったようでもあり、オムスビのようでもあった。
 駅から城の方に歩いていくと、堀がありそれに沿って石垣が続いた。そして、大手門があった。大手門をくぐって天守のあるところに登ると、まだ天守の門は閉まっていて、おじさんが3人門の前で座っていた。天守の前には足場の柱が組まれているので、修復か何かの工事中なのかもしれない。
 僕は工事中なので中には入れないと思って、城の裏手の方や門を覗いたりしていると、おじさんが「まだだよ。開くのは9時からだよ」と言った。腕時計を見ると、まだ8時を回ったところで、8時半にもなっていない。
 おじさんは僕を品定めでもするようにまじまじと見ながら、「見たいの?」「じゃあ、特別に開けてやるか」と言って、ゆっくりと腰を上げて門を開いて入れてくれた。 おじさんは工事の職人ではなく、城の受付等の係りの人だった。
 丸亀城は3層(階)で、階段も年季の入った木造だった。この丸亀城の天守は、四国で最も古いものだった。
 天守の窓からは、やはり駅から見えたあの三角形の山が見えた。解説に讃岐富士とあった。やはり、ご当地富士なのだった。

 *

 丸亀駅に戻り、再び松山方面の列車に乗った。まだ9時を過ぎたぐらいだ。
 座席に座ると、駅で買った駅弁の「たいらぎ弁当」を開いた。大きな帆立貝のような貝の肉が詰まっている。
 ゆっくり弁当を食べ終わったあたりで、10時過ぎに新居浜駅で降りた。ここは、もう愛媛県だ。新居浜には別子銅山跡がある。

 鉱山跡が好きだ。
 鉱業を産み出す鉱山は、時代の栄華と衰退を象徴している。佐渡(新潟県)にしても、石見(島根県)にしても、足尾(栃木県)にしても、そしてあまたある炭鉱にしても。
 鉱山から掘り出される鉱物は無尽蔵ではない。いつか尽きる。時代の宝の山はひとときのものだ。尽きたときに、そこに築かれた組織や街は役割を失っていく。
 夢を追って人が集まり、たちまち街ができ、夢が尽きると、人が去って、いつしか街がなくなる。
 その産業遺産跡には、失われた栄華の哀愁が残っている。

 別子銅山は江戸時代より開発されたが、一貫して住友家が経営し、住友財閥の基盤となったところである。
 駅前からバスで遺跡があるマインとピア別子へ行った。バスは、駅から離れた里山の渕の山の麓で停まった。
 そこは観光地化されていて、観光用の鉱山鉄道が走り、観光用の坑道ができていた。(写真)
 坑道の中は、よくある再現模型が飾ってある。佐渡や足尾をミニチュアにした感じだ。観光坑道を出て周りを歩くと、門を閉めてあるが通洞跡があり、当時の面影を偲ぶことができる。
 ここからさらに奥地の東平(とうなる)地区には、当時の産業遺産ともいうべき建物が残っているが、そこへ行くバスがなかったので、この端出場(はでば)地区を回って駅へ戻ることにした。
 しかし、この東平地区の建物跡を誰が言ったのか、ガイドブックやパンフレットが軒並み「東洋のマチュピチュ」と謳っているのは、過剰表現で面映い。ペルーのマチュピチュは、今では世界遺産の中でも最も人気にあるインカの遺跡なのに。

 ようやく新居浜をあとにして松山に向かった。
 何だか電車の乗り継ぎもバスも、タイミングがいい。朝早くから行動したとしても、まだ昼を過ぎたばかりだ。
 新居浜から松山には、特急列車で1時間余で着く。
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愛媛から九州へ① 「サンライズ瀬戸」で

2011-10-04 00:41:57 | * 四国~九州への旅
 台風が過ぎ去ったあとの9月24日22時、東京発徳島行きの寝台列車に乗った。
 なぜこの列車に乗ったかというと、次第に絶滅品種のようになりつつある寝台列車に乗りたかったのと、愛媛に行きたかったからだ。
 特急「はやぶさ」「富士」を最期に東京から九州行きの寝台列車がすべて消え去り、東京からの寝台列車といえば、札幌行きの「北斗星」、「カシオペア」、青森行きの「あけぼの」と、「サンライズ出雲」・「サンライズ瀬戸」になってしまった。
 「サンライズ」の「出雲」と「瀬戸」は、東京から連結して東海道線を西へ向かい、2つは山陽本線の岡山で南北に分かれ、「出雲」は北上して島根県の松江、出雲に向かい、「瀬戸」は南下して瀬戸大橋を渡って、四国の徳島へ向かうのだ。
 4年前に、石見銀山が世界遺産に登録される前に、島根の石見銀山跡(大田市)に行くのに、「サンライズ出雲」に乗った。
 だから、いつかもう一つの双子の兄弟ともいうべき「瀬戸」に乗ろうと思っていた。

 2010年の去年、大津から米原、若狭を旅し滋賀県に、黒部・立山のアルペンルートを旅したとき富山市に泊まって富山県に足を下ろした。両県とも、そのとき初めてその地の土を踏んだのだった。滋賀県など、東海道線を通るのだから数えきれないほど通っているのだが、一度も降りたことはなかったのだ。
 今まで思いつきであてどもなく旅をしてきたが、思いおこすと去年の滋賀と富山県に行ったことで、国内では愛媛県だけ足を踏み入れていないことになった。かつて四国には2度行ったのだが、なぜか愛媛県だけ行かなかったのだ。別に全県を踏破しようと思って旅していないから、こういうことは起こるのだが。
 とはいっても、残り1県なら行ってみなくてはと思いたったのだ。
 だから、愛媛を通って九州の佐賀に帰ろうと思い、さらに、それには寝台列車で行こうと思い、「サンライズ瀬戸」に乗ったのだ。
 僕にとっては、最後の未知の1県へ、列車の中の列車といえる(僕だけが言っているのだが)寝台列車で、今では空き家となってしまったが実家への帰省、というなんとも贅沢な3点セットというか、しかも四国から九州へは船で渡るという胸躍る旅なのだ。

 東京駅のホームに音もなく入ってきた「サンライズ」は、新幹線のように思い上がった感じの鋭角的ではなく、寝台車という消えゆく老いの侘しさを漂わせてもなく、むしろそれは上品な貴婦人のようであった。(写真)
 列車は2層(階)になっていて、中央の通路を挟んで左右に列車に即して寝台は設えてある。B寝台個室のシングルは、天井も高く、ベッドではゆうに足を伸ばせる。これとは別に、ツインや格上のデラックスなA寝台個室(値段も倍近い)もある。
 かつて座席の上に設えられた3段ベッドの寝台車とは比べものにならない快適空間で、まるで車内ビジネスホテルといっていいほどである。部屋着風寝巻きも置いてある。
 以前、列車名は忘れたが、浴衣が置いてある寝台車もあった。その浴衣はJRの紋章柄だったから、国鉄からJRになった1987年以降の列車だったのだろう。

 寝台列車は夜10時東京駅を出発した。
 すぐに寝台車の部屋の中で、東京駅内で買った駅弁を開いた。駅構内で声をあげて売っていた「東北支援弁当」である。東北の郷土料理を盛り込んだというだけあって、三陸産茎わかめ細巻寿司、秋田のいぶりがっこ、福島のイカ人参、宮城のしそ巻くるみ揚、岩手の遠野ジンギスカン、山形の玉蒟蒻煮、宮城の油麩煮、宮城の柚子入り笹蒲鉾、青森の長芋煮,青森のりんごシロップ漬、と並ぶ。
 定価1100円を、割引価格ということで900円であった。このバラエティに富んだ中身と東北の豊かな味でこの値段は安い。やはり、電車の中での駅弁は格別だ。

 夜の静寂のなかを、列車はひたすら西へ走った。目指す四国へと。
 「寝台車は疲れるし、眠れないだろう」と言う友人がいるが、それを上回るときめきがある。それに、最近の列車はガタゴトとは揺れないのだ。十分にとは言えないまでも眠れる。しかも、眠っている間に目的地に近づいているのだ。
 この旅の移動感覚が、寝台列車には詰まっている。
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