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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

愛媛から九州へ⑦ 三池炭鉱の面影、大牟田から佐賀へ

2011-10-17 00:19:42 | * 四国~九州への旅
 9月29日、福岡方面行きの列車で熊本を発って、昼ごろ大牟田駅へ着いた。
 大牟田は父の祖父母が住んでいたところで、子どもの頃は夏休みや春休みなどに、よく遊びに行った。
 当時、大牟田は佐賀の田舎町に比べれば大都会だった。大牟田に行くと、7階建ての玉屋デパートがあり、その屋上でメリーゴーランドの回転木馬に乗り、旗の立ったお子様ランチを食べるのが楽しみだった。
 祖父母が死んだあと、大牟田とは疎遠になった。

 1997年に三井三池炭鉱が閉山になった。
 その翌年の1998年、久しぶりに僕は大牟田に行った。炭鉱がどうなっているか見たいと思ったからだ。
 まずは、閉山まで操業していた三川坑へ行った。三池港の沿岸にある三池鉱業所の事務所の門は開いていて、まだ人が出入りしていた。残務整理が続いていたのか、三池炭鉱はまだ息づいていた。
 門の中を覗いたが、入口には受付の係りの人がいたので、入るのは躊躇った。中は、ずっと奥に広がっていて、椰子の木が植わっていたのが印象に残っている。
 三川坑周辺を歩いたあと、その近くに明治に建てられた西洋建築の「旧三井港倶楽部」を発見し、感動した。
 そして、そこから既に廃墟になっていた宮原坑へ行った。その周辺を歩いていると炭住の跡があった。中にはまだ人が住んでいて、炭住も生きていた。

 *

 昼ごろ大牟田駅に着き、改札口を出るとすぐのところに観光案内所があった。
 そこで、市内地図をもらおうと立ち寄ると、炭鉱跡群は産業遺産として、観光ガイドブックが作られていた。
 まずは玉屋デパートに行ってみようと思い、係りの人に、玉屋デパートへはここからどう行けばいいですかと訊いた。係りの人は、今はもうありません。あったのはこのあたりですが、と地図を指差した。
 その観光案内所ではレンタサイクルもやっていて、自転車を借りて再び炭鉱跡を周ることにした。駅を出て、街中を自転車で走らせると、どこの地方都市もそうだが、街の衰退は隠しようがなかった。
 特に大牟田市は、かつて北九州有数の工業都市で、長く日本の石炭産業を支えた街だった。
 まっすぐ、三川坑のあった三池港に向かった。
 前来た時の1998年、まだ人が出入りをし、息をしていた三川坑のあった事務所の建物はなくなっていた。ただ、入り口の門だけは残されていた。
 門には、「三井石炭鉱業株式会社 三池鉱業所」というプレートは貼られたままだった。名前だけでも残しておこうというのだろうか、それにしても建物を壊したのが、悔やまれる。
 三川坑は、三池争議の舞台となったところだ。それとともに、戦後最大の犠牲者を出した炭塵爆発事故のあったところだ。
 炭鉱の建物と分かる巨大な建物は、稼動していた。いかにも雄大な炭鉱の工場の風景だ。(写真)
 建物の形からして採炭所と思ったが、変電所だったのか? 音がして機械は動いている。門は開いていたので入ってみた。誰も咎めるものもいない。
 その建物の道を隔てたところでは、高いところから下にコンベアーで石炭を落としながら、水で洗う作業は行われていた。
 
 それに、三池港に近い周辺には、いたるところに黒い石炭が積んであった。まだ、ここでは石炭を細々とでも採掘しているのだろうか、と不思議に思った。トラックも、 時々行き来する。もちろん、トラックには三池とは書いてない。どこかの運送会社の名前だ。
 クレーン車で、トラックに石炭を積み移している人がいたので、その疑問を運転手に訊いてみた。すると、元炭鉱夫ではと思わせる陽に焼けた男が答えてくれた。
 「もう、ここで石炭は掘っていないよ。海外から輸入しているんだ。中国とか韓国とか。それに、これはコークスだ」
 三池港は、生きていたのだ。
 そこで、すぐ近くの三池港に行ってみると、ハングル文字のタンカーが停泊していた。
 旧三井倶楽部に、三池炭鉱の開発発展に寄与した團琢麿という男の銅像がある。團は、以下のようなことを言って、三池港を開いたとある。
 「石炭は永久にあることはない。なくなると、今都市となっているのが、また野になってしまう。築港をやれば、そこにまた産業を起こすことができる。石炭がなくなっても、他所の石炭を持ってきて事業してもいい。築港をしておけば、何年保つかしれないけれど、いくらか100年の基礎になる」
 團の考えは、少なからず正しかった。

 さらに三池港に沿って自転車を走らせていると、炭鉱と工場跡の朴訥とした風景の中に、錨の飾りが置いてある少し場違いな印象の建物があった。レストランだろうかと思ったら船の案内所だった。
 建物の中に入ると、受付の窓口があって、奥は待合所らしく2、3人の男性が雑談していた。
 ここ、三池港から長崎の島原まで連絡船が1日5便運航していた。
 「もうすぐ船が出るよ、乗ったら」と、待っていたおじさんが僕に声をかけた。僕は、「いや、今日は見学だけ」と言って笑った。
 桟橋まで階段を下りていったおじさんは、「船の中も見学したら」と言った。
 船は、八幡浜から別府に行くフェリーと比べものにならないほど小さく、観光遊覧船のようだった。もちろん、車は載せられなく、人は20人ほどしか入らないように見えた。
 ここから島原に行くのも面白いと思ったが、荷物は駅のロッカーに置いてきているし、三池港発島原行きは、別の機会にすることにした。今度、いつか、なんて言っていると、大体がいつになるか分からないし、もうそんな機会は来ないかもしれない、と思った。

 三池港を後にし、その近くにある旧三井倶楽部に寄った。明治に建てられたこの洒落た建物は、三井関係の社交クラブや迎賓館として活用されたものだ。今は、結婚式やレストランとして営業している。
 シャンデリアの明かりとバロック音楽が流れる、鹿鳴館のような雰囲気のレストランで、遅い昼食をとった。

 三井倶楽部をあとに、宮原坑跡へ自転車を走らせた。
 宮原坑跡は外に柵が張られていたが、簡単に中に入ることができた。前に来たときは、建物までいけたのだが。
 旧トロッコ電車のあとは、少し低くなっていて草が生い茂っていた。そこが何であったかは、もはや誰も思いもしないような、忘れ去られた暗渠の草むらのようであった。
 それでも、普段の道を横切るように、埋まった線路が顔を出したりしていたところがあって、かつての失われた物語を無言で語ろうとしていた。
 宮原坑跡を出たところで、にわか雨となった。まるで、熱帯地方のスコールのように大粒なので、しばらく納屋のようなところで雨宿りとなった。
 少し小雨になったところで、駅まで自転車を走らせた。

 駅に着いた頃に、雨はやんでいたが、シャツはずぶ濡れとなった。
 大牟田駅を出て、博多行きの各駅電車に乗った。電車の中で濡れたシャツを着替えた。
 鳥栖駅で乗り換え、佐賀に向かった。佐賀に着いたときは、すっかり暗くなっていた。
 ここで、酒でも飲んで帰ることにする。

 寝台列車で東京を出て岡山から四国へ入り、香川から西の愛媛へ向かい、八幡浜の港から大分の別府へ船で渡り、大分から西へ九州を縦断して熊本へ出て、そこから北へ福岡の大牟田を経て佐賀へたどり着いた、寄り道の旅だった。

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愛媛から九州へ⑥ 「九州横断特急」で、別府から熊本へ

2011-10-13 15:27:34 | * 四国~九州への旅
 9月28日、別府の鉄輪温泉からバスでJR別府駅に出た。
 別府から佐賀に行くには、九州を横断する格好になる。地図を見るとわかるが、大分から西の方に向かって、九州を横断する2本の鉄道が走っている。
 1本は久大線で、湯布院、日田を通って、福岡県の久留米に行く線だ。
もう1本は、久大線より南の方を走る豊肥線で、竹田、阿蘇を通り、熊本に行く線だ。両線とも、かつて乗ったことはある。
 久大線は、名前の通り、大分から久留米に行く線だが、特急は博多まで行っているので、これに乗れば、久留米の先の鳥栖に出ると、佐賀はすぐだ。
 であるから、豊肥線に乗ることにし、熊本へ行くことにした。

 1日4本ある別府始発の「九州横断特急」号の、別府発11時42分に乗った。
 「九州横断特急」と名前は豪勢だが、ホームに入ってきた列車は、車体に貼ってあるプレートの名前を見ないと、ローカル線のワンマンカーと見間違うような2両編成だった。
 以前乗った久大線の「ゆふいんの森」号と大違いだ。「ゆふいんの森」号は、ファンタジックな車体で車内も凝っていて、若い女性の車内案内アテンダントさえいたのだった。
 豊肥線は由布院のように観光地がないからかと、少し僻んだ見方になった。しかし、阿蘇山脈を通り抜ける豊肥線は、なよなよした「ゆふいんの森」号では、走り越すのは無理なのだからと、特急列車らしからぬ「九州横断特急」号の素朴な姿を見ながら自分を納得させた。
 案の定、大分県を抜け熊本県に入ったあたりから、列車は山間の高地を走った。やはり、スリムな車両でないといけないのだ。
 赤水では海抜465mで、九州一の高さを走る。次の立野でいったん戻ってスイッチバックになった。そのあとは、なだらかに下がっていって、熊本市へ入っていった。
 熊本駅に着いたのは14時50分だった。

 この日は、熊本市に住む叔父の家に仮の宿をとることにして、熊本城を見に行った。
 熊本城は、本丸を新しく造ったばかりだった。やはり豪壮な城だ。
 この前熊本の叔父の家を訪れたのが10年前だから、熊本城も10年ぶりとなる。10年とはあっという間だ。城内には、鎧を着た武士や忍者の格好をした案内人がいた。
 この旅では、よく城を周ったことになる。丸亀城から始まって、松山、大洲、宇和島、そして熊本城と見て周った。創建期の天守を現存している城もあったし、新しく出来たての城もあった。
 古城も、装いを新たにする。
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愛媛から九州へ⑤ 八幡浜から船で別府へ

2011-10-11 01:47:50 | * 四国~九州への旅
 9月27日、宇和島駅を8時39分に出発した各駅停車の松山方面行きの列車は、八幡浜駅に9時18分に着いた。
 八幡浜は、愛媛県の西にある九州の別府、臼杵に船が運航している港町だ。かつては宇和島からも九州へ運航していたが、今はない。宇和島からさらに南に行った高知県の宿毛からも大分県の佐伯まで船が出ているが、そもそも宿毛へ行くのが不便だ。
 八幡浜駅前で、タクシーの運転手に港の船の発着所まで、歩いたらどのくらいか訊いてみたら、20分ぐらいだろうと言う。別府行きの船の出発が10時15分だから、ゆっくり歩いて港まで行くことにした。まだ朝なので、街は静かだ。いや、地方の街は、最近はいつだって人通りは少なく静かだ。
 船着場にきたら、車が並んでいた。フェリーなので、ほとんどが車で行くのだろう。僕のように、ふらりと船に乗るのは少ないのだろう。
 しかし、船着場は、どこも同じような風景だ。そして、似たような雰囲気が漂っている。(写真)
 八幡浜から別府まで2時間50分で、13時5分に別府港に着く。
 船の待合所は、なんとなく手持ちぶさたな雰囲気だ。
 船内に入ると、さらに気持ちがゆったりとした感じにおおわれる。列車や飛行機のように、自分の意思ではどうすることもできない、窓が開かない移動する物体に入ったという無意識の圧迫感がない。
 2等室は、いくつかに分けてある大部屋だ。列車や飛行機のように座席がないので、大人数の場合は車座に輪になって座っている家族もいるし、隅でぽつんと膝を抱えている者もいるし、2等室には枕も置いてあるので、寝転がっている者もいる。
 気楽なのがいいので、船旅の場合はいつも2等だ。
 船内には売り場もあり、自由に移動できるし、自由に身体を伸ばしたり動かしたりしても、なんら違和感を抱かれることはないので、緊張感もないのだ。
 甲板に上がると、空が広がっているし、船は海と繋がっている。雨が降っていれば雨に濡れることもできるし(そんな者は滅多にいないだろうが)、その気になれば(その 気になってはいけないが)、海に飛び込んでもいいのだ。
 港の待合室から船内まで、海の大らかさに全体がおおわれるようだ。誰もがゆったりしているし、細かいことには気にしないような雰囲気に包まれてしまっている。

 八幡浜港から船が出港し、四国を離れた。この日も青空が広がる晴れた天気で、夏のようだ。
 船の進行方向の左(南)側は、島が散在していたが、やがて島もなくなり静かな海が広がった。右(北)側には、ずっと陸地が続いた。のこぎりのような佐多岬半島が九州の方に向かって延びているのだ。
 見ていると、佐多岬半島には途中から電力発電の風車が並んだ。
もっと増やすといい。

 *

 別府港に着いた。
 別府は日本有数の湯の町で、いくつかの温泉地区を抱えている。港から、バスで鉄輪(かんなわ)温泉という温泉街に行くことにした。温泉地獄があるところだ。
 鉄輪温泉のバス停でバスを降りると、すぐに湯気の香りがした。
 観光案内書で街の地図をもらい、旅館を紹介してもらった。鉄輪温泉街の通りは、各々温泉にちなんだ名前がつけられていた。
 教えられたまま旅館に向かって、街の中心にある「いでゆ坂」を下っていくと、温泉場らしく途中に大衆演芸場があった。館の名前がヤング劇場というので、建てられた時代と感覚が知れた。
 紹介された旅館は、いでゆ坂を下りたところから細い路地を入ったすぐのところにあった。落ち着いた隠れ宿のような和風の旅館で、その垣根の中からも煙のような白い湯気が出ていた。
 旅館に荷を置いて、おかみさんに「ここには地獄がいくつかあるようなので、まずは地獄の湯に入ってきます。旅館の湯はそのあとで入りますから」と言って、出ようとすると、おかみさんは笑って言った。
 「地獄は見るところで、入るところじゃありません。入ると、それこそ大やけどしますよ」
 「入るとすれば、この温泉にしかない、むし湯がいいでしょう」と言ってくれた。
 地獄を見に外を歩いていると、いたるところで湯煙が出ている。火山の白煙のようにもくもくと湧き出ているのもあるし、足元の下水道の鉄網板から出ているのもある。ここ別府は、地のすぐそこまで湯が湧き上がっているのだ。
 まさに、別府は湯煙の街だ。
 「○○地獄」と名づけられた温泉名物(名所)をいくつか見て、例のヤング劇場の前の路地を入ったところにある公共の「鉄輪むし湯」に行った。
 入湯料を払って館内に入ると、風呂場があったが、係りの人はこちらですと、隣の部屋に僕を連れて行った。むし湯は、裸の上に借りた浴衣を着て入るのだった。
 狭い戸口のある室内に入らされると、そこには湯風呂はなく、むんむんと蒸した長い海草のような草(菖蒲か)が敷かれていた。草は石の上に敷かれているようで、その上に寝るように指示され、入口の戸はすぐに閉められた。
 「8分たったら合図しますから、出てください。それ以上は危険ですから、入れません」と係りの人は言った。
 言われるままに寝そべっていると、背中からすぐに身体は熱くなり、着ていた浴衣は汗で湯の中に入ったようにぐっしょりと濡れた。そうでなくても、僕は汗っかきなのだ。
 あまりに熱いので、僕は合図がある前に「もう出ます」と言って、戸を開けてもらった。まだ6分だった。

 旅館の夕食は、前菜のほか、魚料理と肉料理が並んだ豪勢なもので、手の込んだものだった。おかみさんが自分で料理していると、仲居のおばさんが言った。
 案内所で、旅館は小さくてもいいので、料理が美味しいところがいいですが、という注文を聞き入れてくれたと思った。
 もちろん、旅館の中にも温泉の風呂があるのだった。何せ、ここ別府の鉄輪では、どこでも湯煙がたっているのだから。
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愛媛から九州へ④ 大洲、終着駅、宇和島

2011-10-09 01:25:35 | * 四国~九州への旅
 9月26日、道後温泉から松山市内に出て、松山駅より再び予讃線に乗った。
 予讃線は松山より南西に下って、向井原駅で二股に分かれて海沿いに延び、一方内陸部に侵入した路線は内子(うちこ)を通って内子線と名乗り、伊予大洲(いよおおず)で予讃線の本線と合流するのであった。
 僕の乗った列車は内子を通る線だったが、山間の内子を通り過ぎて伊予大洲駅で降りることにした。

 大洲も城のある古い町だった。
 駅前で、城や古い家並みの街まで歩くとどのくらいか訊いたら、30分以上、1時間ぐらいかかるかもと言われた。駅前の通りを歩いたが、ごくありふれた地方の商店街だった。しばらく行くと自転車(バイク)屋があり、そこで自転車のレンタルをやっていたので、借りることにした。
 当たり前だが、やはり自転車は歩くのより比べものにならないほど速い。
 自転車でまたたく間に商店街を抜けると、大きな橋に出た。肱川に架かるこの橋から、川の向こうの小高い丘に小さな城が見えた。城は、川を隔ててぽつんと建っていて、こちらの街を見つめているようだった。
 大洲城は、なだらかな坂の上に、淋しげに建っていた。
 この城は、藤堂高虎はじめ多くの武将の居城になったのだが、天守は明治になって取り壊された。それが最近の2004(平成16)年に復元されたのだった。ということは、最も新しい城ではなかろうか。
 城は史料を基に木造でもって忠実に復元されたので、城の中に入るといまだ木の匂いに満ちていた。中では、城全体の木組模型や工事風景模様も写真展示されていた。
 城をあとにして、古い家並みが残っている地区へ行った。その家並みの一角が「おはなはん通り」と名付けてあった。
 「おはなはん」とは、若い人はもう知らない人も多いと思うが、NHKの連続テレビ小説の題名であり、主人公の女性の呼び名である。1966年から67年にかけて放映され人気になった朝のドラマだ。
 主人公を演じた樫山文枝は、今でも「おはなはん」と言った方がわかりが早いぐらいで、この役で彼女は一気に人気女優となった。
 「おはなはん通り」にある解説に、「おはなはんが、このあたりに住んでいたとされる」といったことが書いてあるのには苦笑した。「おはなはん」の原作は林謙一の「おはなはん一代記」で、モデルの女性は原作者の母親で、実際の舞台は徳島らしい。
 大洲はドラマ用のロケ地なのだが、半世紀を過ぎてもこうして通りの名として観光に一役買っていた。

 *

 大洲を出て、再び予讃線に乗った。当初の漠然とした考えでは、九州方面への船が出ている八幡浜で泊まることになるかもしれないと思っていたが、宇和島が気になっていた。
 それに、まだ昼下がりだ。
 ここまで来たら、当然八幡浜を過ぎて、終着駅である宇和島へ行かねばならない。
 宇和島へは、闘牛を見に行きたかった。しかし、調べてみると今では滅多にやっていなくて日程が合わなかった。
 井上靖の「闘牛」の舞台となったところだ。父が好きな作家だった。
 それと、小林旭主演の「流れ者シリーズ」である日活映画、「南海の狼煙(のろし)」の舞台となったところだ。「渡り鳥シリーズ」で人気爆発した頃の小林旭、浅丘ルリ子コンビのアクション映画で、当時は地方都市も活きいきしていた。
 ちなみに、「渡り鳥シリーズ」の第一作と解釈されているのが、やはり四国高知を舞台にした、「南国土佐を後にして」である。
 いや、それより四国の旅といえば、九鬼素子作「旅の重さ」だ。家を出た思春期の多感な少女が、あてどもなく四国を旅する物語である。映画では、デビューとなった高橋洋子が瑞々しかった。この映画では、秋吉久美子もデビューしている。

 宇和島の駅を降りて、駅前を見わたすと、ターミナルから左右に通りが広がり、ビルの脇に椰子の木が聳えていて、こぎれいな町だと思った。
 駅前のターミナル・ホテルに荷を下ろし、街へ出た。
 駅前の通りにバス停があり、その停留所の名前を見て、思わず笑ってしまった。「本社前」と書いてある。本来なら、「駅前」、「宇和島駅前」であろう。どこの本社の前なのか?
 「ナニコレ、珍風景」に投稿しようかと思ったぐらいだ。解答は、このバス会社の本社前なので、まったくとんでもない名前ではないのだが、手前勝手なネーミングのような気がする。
 やはりこの街でも、まっすぐ宇和島城を目指した。
 城は、街の中心部の小高い丘の上にあった。街の商店街と平行に走っている通りから、城山登山口と称した門から城へは登るのだった。
 蛇行した道をハイキングのように登りついたところに、天守がぽつんと建っていた。 この城も藤堂高虎が創建したもので、現存12天守の一つである。
 この旅は、丸亀、松山、大洲、宇和島城と、城巡りのようになってしまった。

 城を下りると、すっかり暗くなっていたし腹も減っていたので、駅の観光案内所で聞いていた郷土料理を食べさせる料理屋へ入った。
 千切りにした蒟蒻(こんにゃく)に4食のそぼろを表面にまぶした「ふくめん」と、小魚をすり潰し油で揚げた「じゃこ天」でビールを飲み、最後に宇和島名物という「鯛めし」を頼んだ。
 「鯛めし」は、鯛の頭と尻尾が伸び上がった刺身のつくりが出てきた。(写真)
 初めてだったので、店の人が食べ方を説明してくれた。鯛の身を、生卵を浮かべた味付けしただし汁に混ぜ、あったかいご飯にかけて食べるというものだった。店の人は、「卵かけご飯のように食べてください」と言った。
 ズ、ズーっと、汁を啜る音が聞こえてきた。やはり、別のテーブルで「鯛めし」を食べているのだろうと思った。
 味のついただし汁が店によって違うらしいし、秘伝であるとも聞いた。ダイナミックに食べるこの「鯛めし」は、宇和島ならではの味覚かもしれない。
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愛媛から九州へ③ 松山、道後温泉

2011-10-08 00:35:29 | * 四国~九州への旅
 東京を夜10時発の深夜特急に乗って、翌日の早朝四国に入り、7時過ぎに香川の坂出で予讃線に乗り換え、丸亀で城を見て、新居浜の別子銅山に寄って、新居浜駅を発ったのはまだ昼の12時8分だった。
 そして松山に着いたのは、13時13分。夕方ごろには松山に着くだろうと思っていたが、こんなに早く着くとは予想外だった。予定より遅くなることはあっても、早くなることは珍しい。
 出発にあたって、あらかじめJR予讃線の時刻表のコピーは持って出たのだが、駅を降りたらどこの駅でもすぐにその駅の時刻表をもらって、列車の発車時刻は頭に刻むようにしている。バスの場合は、別子銅山行きのように運行が1日数本なんてところもあるので、降りたら帰りのバスの時刻をチェックするのは常套だ。
 それにしても慌しく時間を気にして動き回ったわけではないのに、列車、バスなどの交通の接続が思いのほかというか、きわめてうまくいったのだ。
 逆の場合もある。旅に出たら、駅に着いたら乗りたいと思った(目的地に向かう)列車あるいはバスが発車したばかりで、1時間以上も待たなければならないなんてこともよくあることだ。

 *

 松山駅を降りたら、駅ビル内にある観光案内所に行き、松山の観光地図をもらい、この日泊まろうと思っている道後温泉の旅館を予約した。
 あらかじめ、旅行代理店やインターネットなどで旅館やホテルは簡単に予約できるのだが、僕のような旅の場合、いや僕のような性格の場合と言おうか、その日そこに泊まるとは限らない。この日も、もし別子銅山でてこずったり、思わぬ時間がかかったりしたら、新居浜に泊まるようになるかもしれないという考えも頭の片隅にあった。
 つまり、大まかな行き先のプランはあっても、きちんと決めたスケジュールの旅はいやなのだ。ひとり旅の場合は。

 松山駅前に出ると、市電が走っていた。
 市電のある街は落ち着きがある。ちんちん電車である市電には安心感がある。
 この市電に乗って、市役所、県庁を通り過ぎた松山城の近くの大街道で降りた。城は、こんもりとした森の高台にあった。
 大街道の交差点から城に沿って店が並ぶ通りを歩いた。駅でもそうだったが、この街はまだ司馬遼太郎の「坂の上の雲」の町を前面に出していて、そのポスターがあちこちに貼ってある。松山出身の人が言っていた。「去年は竜馬ブームで、高知に食われたのよね」と。
 この通りのビルの横の窪んだ空間に、ひっそりと小便小僧の銅像があった。気をひこうとするどこかの店かと思ったら、郵便局だった。粋なはからいだ。ベルギーのブリュッセルと姉妹都市でもしているのだろうか。
 通りに、松山城の麓までのロープウェイの発着所があった。城までは歩いて行けないことはないのだが、それに乗ることにした。
 松山城は、大天守と小天守を結んだ連立式城郭で、さすがに風格がある。この城も、現存する天守を持つ12城の一つだ。
 城を下りて街を歩いた。大街道の城の反対側はアーケードの商店街だ。
ところどころに、おばさんやおじさんが「降りましょう」と書いたカードを首からぶら下げて、きょろきょろと辺りを見回している。
 急に降りましょうと言われても、戸惑ってしまう。この人たちは、何からここで降りましょうと言っているのだろうか? バスや車は走っていないので、何を意味して、何を訴えているのかわからない。
 なおも歩いていると、アーケードの道の中心部に自転車が横に並んで置いてある。道(アーケード)の真ん中が駐輪場になっているのも珍しい。そうか、あのおばさんやおじさんは、このアーケードの中で自転車に乗っている人に注意しようと見張っているのだ。
 やっと謎が解けた。

 *

 大街道から市電に乗って、道後温泉へ向かった。
 道後温泉駅は、絵本に出てくるようなレトロな駅だ。駅舎の隣に、可愛い煙突を持った坊ちゃん列車が停まっている。なんと言っても、ここは漱石の坊ちゃん一色なのだ。
 みんなが車座になって足湯をしている広場を横目で見ながら、長い石段を登った先の神社に向かった。朱塗りの本殿で、伊佐爾波(いさには)神社とある。
 旅館に荷物を置き、まずはともあれ道後温泉本館に行った。やはり有名なだけあって、周りには人が多い。浴衣姿も目につく。(写真)
 ここは公共の温泉場で、最も大衆的で入湯料も400円と安い1階の神の湯に入ることにする。いくつか階級(値段に)のある温泉場では、概ね最も大衆的な湯が最も古いものだ。
 この湯の入口で、地元の常連客だろうか、「この湯(神の湯)が一番だよ。この湯に坊ちゃんも入ったんだよ。入るときに、ボチャーンと音がして」と、定番のジョークを言う。
 この湯に入っているときだけでも、坊ちゃんになった気分になれる。
 そういえば、松山城に袴を穿いたマドンナがいたなぁと思いだした。ここ松山では、男は坊ちゃん、女はマドンナなのだ。
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