9月29日、福岡方面行きの列車で熊本を発って、昼ごろ大牟田駅へ着いた。
大牟田は父の祖父母が住んでいたところで、子どもの頃は夏休みや春休みなどに、よく遊びに行った。
当時、大牟田は佐賀の田舎町に比べれば大都会だった。大牟田に行くと、7階建ての玉屋デパートがあり、その屋上でメリーゴーランドの回転木馬に乗り、旗の立ったお子様ランチを食べるのが楽しみだった。
祖父母が死んだあと、大牟田とは疎遠になった。
1997年に三井三池炭鉱が閉山になった。
その翌年の1998年、久しぶりに僕は大牟田に行った。炭鉱がどうなっているか見たいと思ったからだ。
まずは、閉山まで操業していた三川坑へ行った。三池港の沿岸にある三池鉱業所の事務所の門は開いていて、まだ人が出入りしていた。残務整理が続いていたのか、三池炭鉱はまだ息づいていた。
門の中を覗いたが、入口には受付の係りの人がいたので、入るのは躊躇った。中は、ずっと奥に広がっていて、椰子の木が植わっていたのが印象に残っている。
三川坑周辺を歩いたあと、その近くに明治に建てられた西洋建築の「旧三井港倶楽部」を発見し、感動した。
そして、そこから既に廃墟になっていた宮原坑へ行った。その周辺を歩いていると炭住の跡があった。中にはまだ人が住んでいて、炭住も生きていた。
*
昼ごろ大牟田駅に着き、改札口を出るとすぐのところに観光案内所があった。
そこで、市内地図をもらおうと立ち寄ると、炭鉱跡群は産業遺産として、観光ガイドブックが作られていた。
まずは玉屋デパートに行ってみようと思い、係りの人に、玉屋デパートへはここからどう行けばいいですかと訊いた。係りの人は、今はもうありません。あったのはこのあたりですが、と地図を指差した。
その観光案内所ではレンタサイクルもやっていて、自転車を借りて再び炭鉱跡を周ることにした。駅を出て、街中を自転車で走らせると、どこの地方都市もそうだが、街の衰退は隠しようがなかった。
特に大牟田市は、かつて北九州有数の工業都市で、長く日本の石炭産業を支えた街だった。
まっすぐ、三川坑のあった三池港に向かった。
前来た時の1998年、まだ人が出入りをし、息をしていた三川坑のあった事務所の建物はなくなっていた。ただ、入り口の門だけは残されていた。
門には、「三井石炭鉱業株式会社 三池鉱業所」というプレートは貼られたままだった。名前だけでも残しておこうというのだろうか、それにしても建物を壊したのが、悔やまれる。
三川坑は、三池争議の舞台となったところだ。それとともに、戦後最大の犠牲者を出した炭塵爆発事故のあったところだ。
炭鉱の建物と分かる巨大な建物は、稼動していた。いかにも雄大な炭鉱の工場の風景だ。(写真)
建物の形からして採炭所と思ったが、変電所だったのか? 音がして機械は動いている。門は開いていたので入ってみた。誰も咎めるものもいない。
その建物の道を隔てたところでは、高いところから下にコンベアーで石炭を落としながら、水で洗う作業は行われていた。
それに、三池港に近い周辺には、いたるところに黒い石炭が積んであった。まだ、ここでは石炭を細々とでも採掘しているのだろうか、と不思議に思った。トラックも、 時々行き来する。もちろん、トラックには三池とは書いてない。どこかの運送会社の名前だ。
クレーン車で、トラックに石炭を積み移している人がいたので、その疑問を運転手に訊いてみた。すると、元炭鉱夫ではと思わせる陽に焼けた男が答えてくれた。
「もう、ここで石炭は掘っていないよ。海外から輸入しているんだ。中国とか韓国とか。それに、これはコークスだ」
三池港は、生きていたのだ。
そこで、すぐ近くの三池港に行ってみると、ハングル文字のタンカーが停泊していた。
旧三井倶楽部に、三池炭鉱の開発発展に寄与した團琢麿という男の銅像がある。團は、以下のようなことを言って、三池港を開いたとある。
「石炭は永久にあることはない。なくなると、今都市となっているのが、また野になってしまう。築港をやれば、そこにまた産業を起こすことができる。石炭がなくなっても、他所の石炭を持ってきて事業してもいい。築港をしておけば、何年保つかしれないけれど、いくらか100年の基礎になる」
團の考えは、少なからず正しかった。
さらに三池港に沿って自転車を走らせていると、炭鉱と工場跡の朴訥とした風景の中に、錨の飾りが置いてある少し場違いな印象の建物があった。レストランだろうかと思ったら船の案内所だった。
建物の中に入ると、受付の窓口があって、奥は待合所らしく2、3人の男性が雑談していた。
ここ、三池港から長崎の島原まで連絡船が1日5便運航していた。
「もうすぐ船が出るよ、乗ったら」と、待っていたおじさんが僕に声をかけた。僕は、「いや、今日は見学だけ」と言って笑った。
桟橋まで階段を下りていったおじさんは、「船の中も見学したら」と言った。
船は、八幡浜から別府に行くフェリーと比べものにならないほど小さく、観光遊覧船のようだった。もちろん、車は載せられなく、人は20人ほどしか入らないように見えた。
ここから島原に行くのも面白いと思ったが、荷物は駅のロッカーに置いてきているし、三池港発島原行きは、別の機会にすることにした。今度、いつか、なんて言っていると、大体がいつになるか分からないし、もうそんな機会は来ないかもしれない、と思った。
三池港を後にし、その近くにある旧三井倶楽部に寄った。明治に建てられたこの洒落た建物は、三井関係の社交クラブや迎賓館として活用されたものだ。今は、結婚式やレストランとして営業している。
シャンデリアの明かりとバロック音楽が流れる、鹿鳴館のような雰囲気のレストランで、遅い昼食をとった。
三井倶楽部をあとに、宮原坑跡へ自転車を走らせた。
宮原坑跡は外に柵が張られていたが、簡単に中に入ることができた。前に来たときは、建物までいけたのだが。
旧トロッコ電車のあとは、少し低くなっていて草が生い茂っていた。そこが何であったかは、もはや誰も思いもしないような、忘れ去られた暗渠の草むらのようであった。
それでも、普段の道を横切るように、埋まった線路が顔を出したりしていたところがあって、かつての失われた物語を無言で語ろうとしていた。
宮原坑跡を出たところで、にわか雨となった。まるで、熱帯地方のスコールのように大粒なので、しばらく納屋のようなところで雨宿りとなった。
少し小雨になったところで、駅まで自転車を走らせた。
駅に着いた頃に、雨はやんでいたが、シャツはずぶ濡れとなった。
大牟田駅を出て、博多行きの各駅電車に乗った。電車の中で濡れたシャツを着替えた。
鳥栖駅で乗り換え、佐賀に向かった。佐賀に着いたときは、すっかり暗くなっていた。
ここで、酒でも飲んで帰ることにする。
寝台列車で東京を出て岡山から四国へ入り、香川から西の愛媛へ向かい、八幡浜の港から大分の別府へ船で渡り、大分から西へ九州を縦断して熊本へ出て、そこから北へ福岡の大牟田を経て佐賀へたどり着いた、寄り道の旅だった。
大牟田は父の祖父母が住んでいたところで、子どもの頃は夏休みや春休みなどに、よく遊びに行った。
当時、大牟田は佐賀の田舎町に比べれば大都会だった。大牟田に行くと、7階建ての玉屋デパートがあり、その屋上でメリーゴーランドの回転木馬に乗り、旗の立ったお子様ランチを食べるのが楽しみだった。
祖父母が死んだあと、大牟田とは疎遠になった。
1997年に三井三池炭鉱が閉山になった。
その翌年の1998年、久しぶりに僕は大牟田に行った。炭鉱がどうなっているか見たいと思ったからだ。
まずは、閉山まで操業していた三川坑へ行った。三池港の沿岸にある三池鉱業所の事務所の門は開いていて、まだ人が出入りしていた。残務整理が続いていたのか、三池炭鉱はまだ息づいていた。
門の中を覗いたが、入口には受付の係りの人がいたので、入るのは躊躇った。中は、ずっと奥に広がっていて、椰子の木が植わっていたのが印象に残っている。
三川坑周辺を歩いたあと、その近くに明治に建てられた西洋建築の「旧三井港倶楽部」を発見し、感動した。
そして、そこから既に廃墟になっていた宮原坑へ行った。その周辺を歩いていると炭住の跡があった。中にはまだ人が住んでいて、炭住も生きていた。
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昼ごろ大牟田駅に着き、改札口を出るとすぐのところに観光案内所があった。
そこで、市内地図をもらおうと立ち寄ると、炭鉱跡群は産業遺産として、観光ガイドブックが作られていた。
まずは玉屋デパートに行ってみようと思い、係りの人に、玉屋デパートへはここからどう行けばいいですかと訊いた。係りの人は、今はもうありません。あったのはこのあたりですが、と地図を指差した。
その観光案内所ではレンタサイクルもやっていて、自転車を借りて再び炭鉱跡を周ることにした。駅を出て、街中を自転車で走らせると、どこの地方都市もそうだが、街の衰退は隠しようがなかった。
特に大牟田市は、かつて北九州有数の工業都市で、長く日本の石炭産業を支えた街だった。
まっすぐ、三川坑のあった三池港に向かった。
前来た時の1998年、まだ人が出入りをし、息をしていた三川坑のあった事務所の建物はなくなっていた。ただ、入り口の門だけは残されていた。
門には、「三井石炭鉱業株式会社 三池鉱業所」というプレートは貼られたままだった。名前だけでも残しておこうというのだろうか、それにしても建物を壊したのが、悔やまれる。
三川坑は、三池争議の舞台となったところだ。それとともに、戦後最大の犠牲者を出した炭塵爆発事故のあったところだ。
炭鉱の建物と分かる巨大な建物は、稼動していた。いかにも雄大な炭鉱の工場の風景だ。(写真)
建物の形からして採炭所と思ったが、変電所だったのか? 音がして機械は動いている。門は開いていたので入ってみた。誰も咎めるものもいない。
その建物の道を隔てたところでは、高いところから下にコンベアーで石炭を落としながら、水で洗う作業は行われていた。
それに、三池港に近い周辺には、いたるところに黒い石炭が積んであった。まだ、ここでは石炭を細々とでも採掘しているのだろうか、と不思議に思った。トラックも、 時々行き来する。もちろん、トラックには三池とは書いてない。どこかの運送会社の名前だ。
クレーン車で、トラックに石炭を積み移している人がいたので、その疑問を運転手に訊いてみた。すると、元炭鉱夫ではと思わせる陽に焼けた男が答えてくれた。
「もう、ここで石炭は掘っていないよ。海外から輸入しているんだ。中国とか韓国とか。それに、これはコークスだ」
三池港は、生きていたのだ。
そこで、すぐ近くの三池港に行ってみると、ハングル文字のタンカーが停泊していた。
旧三井倶楽部に、三池炭鉱の開発発展に寄与した團琢麿という男の銅像がある。團は、以下のようなことを言って、三池港を開いたとある。
「石炭は永久にあることはない。なくなると、今都市となっているのが、また野になってしまう。築港をやれば、そこにまた産業を起こすことができる。石炭がなくなっても、他所の石炭を持ってきて事業してもいい。築港をしておけば、何年保つかしれないけれど、いくらか100年の基礎になる」
團の考えは、少なからず正しかった。
さらに三池港に沿って自転車を走らせていると、炭鉱と工場跡の朴訥とした風景の中に、錨の飾りが置いてある少し場違いな印象の建物があった。レストランだろうかと思ったら船の案内所だった。
建物の中に入ると、受付の窓口があって、奥は待合所らしく2、3人の男性が雑談していた。
ここ、三池港から長崎の島原まで連絡船が1日5便運航していた。
「もうすぐ船が出るよ、乗ったら」と、待っていたおじさんが僕に声をかけた。僕は、「いや、今日は見学だけ」と言って笑った。
桟橋まで階段を下りていったおじさんは、「船の中も見学したら」と言った。
船は、八幡浜から別府に行くフェリーと比べものにならないほど小さく、観光遊覧船のようだった。もちろん、車は載せられなく、人は20人ほどしか入らないように見えた。
ここから島原に行くのも面白いと思ったが、荷物は駅のロッカーに置いてきているし、三池港発島原行きは、別の機会にすることにした。今度、いつか、なんて言っていると、大体がいつになるか分からないし、もうそんな機会は来ないかもしれない、と思った。
三池港を後にし、その近くにある旧三井倶楽部に寄った。明治に建てられたこの洒落た建物は、三井関係の社交クラブや迎賓館として活用されたものだ。今は、結婚式やレストランとして営業している。
シャンデリアの明かりとバロック音楽が流れる、鹿鳴館のような雰囲気のレストランで、遅い昼食をとった。
三井倶楽部をあとに、宮原坑跡へ自転車を走らせた。
宮原坑跡は外に柵が張られていたが、簡単に中に入ることができた。前に来たときは、建物までいけたのだが。
旧トロッコ電車のあとは、少し低くなっていて草が生い茂っていた。そこが何であったかは、もはや誰も思いもしないような、忘れ去られた暗渠の草むらのようであった。
それでも、普段の道を横切るように、埋まった線路が顔を出したりしていたところがあって、かつての失われた物語を無言で語ろうとしていた。
宮原坑跡を出たところで、にわか雨となった。まるで、熱帯地方のスコールのように大粒なので、しばらく納屋のようなところで雨宿りとなった。
少し小雨になったところで、駅まで自転車を走らせた。
駅に着いた頃に、雨はやんでいたが、シャツはずぶ濡れとなった。
大牟田駅を出て、博多行きの各駅電車に乗った。電車の中で濡れたシャツを着替えた。
鳥栖駅で乗り換え、佐賀に向かった。佐賀に着いたときは、すっかり暗くなっていた。
ここで、酒でも飲んで帰ることにする。
寝台列車で東京を出て岡山から四国へ入り、香川から西の愛媛へ向かい、八幡浜の港から大分の別府へ船で渡り、大分から西へ九州を縦断して熊本へ出て、そこから北へ福岡の大牟田を経て佐賀へたどり着いた、寄り道の旅だった。