旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

灯台社

2015年03月12日 08時18分06秒 | Weblog

この数か月間気にかかり続けていて先週になってようやく読み終えた新書がある。稲垣真実著「兵役を拒否した日本人-灯台社の戦時下抵抗-」(岩波新書)だ。1972年7月30日初版だが、安部知二著「良心的兵役拒否」(岩波新書)とともに購入したのは昨年の秋口と記憶している。灯台社(ワッチタワー日本支部)と読んだだけでワッチタワー=ものみの塔、エホバの証人と連想が働いた。私の読みは当たっていた。(にもかかわらず、この新書の主役はあくまで明石順三という、1億人の日本臣民と戦った男の記録だ。)

①入隊後一週間目の夕方、明石順三の長男である明石真一は内務班長の軍曹のところに行って、「自分はキリスト者として聖書の”汝殺すなかれ”の教えを守りたいので、銃器をお返しします。」
と申し出た。真一が申し出を変えないのを知ると、連隊は処置を憲兵隊に一任した。この1939年の時点では、憲兵もまた不敬・抗命の罪状をもつ彼に対して、天皇に対して不忠などといって暴行を加えることはなく、それなりに合理的な調べ方をしていた。真人はまもなく憲兵の調書にもとづいて「不敬・抗命」の罪名で起訴され、ただ一回の軍法会議で懲役3年の刑を言い渡された。
②脱柵(脱走)後、軽営倉3日の処分を受けた村上一生は、釈放後、命じられた銃の手入れをやめて班長室に行き、「私の銃はおかえしします。」と申告した。村木の申し出を聞いた班長は恐怖に包まれたように真っ青になり、怯えた目で押し黙って村本の表情をうかがった。村本はかさねて軍事教練も今後は受けることはできないと述べた。報告を受けた小隊長も困惑しきって処置に苦しむ風で申し出を撤回させるための説得もしようとはせず、とりあえず営倉に差し戻しの処分を決めた。翌日、営倉から出された村本を連れて内務班に行き、兵士たちに「村本一等兵は銃の返納を申し出て軍務を放棄したので営倉へ送られる。」  と伝達した。それを聞かされた内務班の兵(下士官候補生)たちは一斉に電撃に打たれたように立ち上がり静まり返って硬直した表情で村本をみた。言葉を発するものはいなかった。憲兵隊に身柄を引き取られた村本は憲兵隊の取り調べを受けた。取り調べ中、憲兵がしきりに気にしたのは「ほかの兵隊に兵役拒否について話さなかったか」ということだった。「不敬・抗命罪」で起訴された村本は、明石真人と同日の1939年6月14日に軍法会議法廷で懲役2年の判決を受けた。
③日本に灯台社を創立した明石順三は懲役10年の判決を受けた。敗戦後釈放されると、ワッチタワー本部(アメリカ ニューヨーク)を、『すでに宗教本来の目的をなおざりにして、宗教を手段として組織の拡大を図る俗的営利集団の道を歩き出しているのではないか、と真っ向から批判して、「余はクリスチャンにて候。余は我らの主イエス・キリスト以外の追随者にても、これなく候。・・・また、ワッチタワーの追随者たりしことも絶無に候。而して、自己のこの歩みは今後といえども絶対不変なるものにして候。」』という文言を添えて7か条の批判書を送り、公式の弁明を要求して除名された。一人対国家というような途方もなく大きな規模をもつ相手に徒手で立ち向かい、なんの法律的保護もなく、それどころか死刑・無期の重刑を科する治安維持法の弾圧下になお兵役拒否や国家体制を批判する姿勢を維持したことによる自信にも支えられていたのであろう。 
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稲垣真美著「兵役を拒否した日本人」(岩波新書)から引用改竄