昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

今日の雑記

2005-02-07 22:20:32 | ニュース
 
 
 今朝は起床早々から何時に無い暖かさを感じた。朝食後試しに戸外に出てみると、外気温は午前十時の時点で既にプラス一℃にも上がっていた。
 裏庭の木々を絶え間無く揺る何日もの風は、時折り思い出したように吹く程度で、また薄雲を通しての陽射しは心なしかもう浅春の兆候しさえ思わせるほどである。
その上全く珍しい事に今年は予想外に雪が少なく裏庭の積雪は先日降った雪が名残り程度に残るのみで、半分は黒土が顕れているほどである。気象台発表でも積雪はゼロとなっている。但し現時点でのことで、この先どんな大雪があるかも知れず、とにかく彼岸までは安心は出来ないが、何はともあれ新潟や北陸の日本海側地方そして道央の豪雪には申し訳なく思う次第である。

 そう思うものの、今年の春は案外早く来るのでは・・・と戸外に向ける眼の先の木々に鶏影を発見する。まさかこんなに早く渡り鳥でも有るまいと眼を凝らすと、それは紛れも無く「シジュウガラの番い」、白黒の模様が見てとれた。

 シジュウガラに誘われた訳でも無いのだが、約二十日ぶりに老妻と外歩きに出掛けた。
これまでは快晴の上気温もほどほどにもかかわらず、とにかく風が強くて家歩きを余儀なくされて我慢して来たわけである。

 何時も利用するウォーキングコース(サイクリング・ロード)には、防寒コートをガッチリと着込む者やジャージの上下を簡単に着込んだ者などそれぞれの服装で歩く老人達の姿が多かった。しかし意外に暖かいと思って歩き出したものの、風を遮る物が無くなる住宅街の外れに差し掛かると事情は一変する。目前に枯れ芦野が広がりその遥か斜め前方の真っ白に雪をかぶった「雌阿寒岳」からの、いわゆる阿寒颪がまともに吹き付けて来た。その冷たさは正に「立春」など名ばかりの厳しさであった。
 そんな中をほぼ一時間も歩いて来た。帰りは追い風の所為か汗ばむ程であった。
 久しぶりの外歩きで日頃の運動不足からの鬱憤が霧散し満足な一日であった。

 昼食後早速開いて見た「YAHOO!JAPAN」トッピクスのトップ記事「闇給与解消案に猛反対する市職労幹部」を見て猛烈に腹が立った。ウォーキングで得た折角の満足感も吹き飛んで仕舞った。

 郵政の民営化などよりも、大阪市の組織全体の民営化が何よりも先にする必要があるのでは無いのか。

 嗚呼!地方公務員もここまで堕ちたか・・・唯々遣り切れない気持ちだけが残った。









 

表計算方法に付いて!

2005-02-06 18:46:20 | 日々の雑記
 昨年8月のブログで1歳年下71歳の弟とのビデオチャットを載せたが、それ以来甥や姪などから、とんだ「年寄りの冷や水」と冷やかされせながらも、今なお週に2回日曜・水曜の昼間にほぼ1時間続けて来ているのだが・・・。
 
 先日の水曜日のチャット交信時にその弟から「エクセルの表計算」に付いて訊かれていた。それに答えるべく、今日は朝から現役時代「仕入帳・製品売上帳・得意先名簿作り」などで使用していたメモ書きを探し出した。
 「オートSUM」での加減乗除・「製品販売数と金額の昇順と降順」更に「製品別に仕訳するオートフイルタ-」・それぞれの「平均値=(挿入(I)~統計~AVERAGE) etc.       
 それに加えて同窓会等の名簿作りの際に必要になる「ルビとふりがな=(挿入(I)~情報~PHONETIC)」
の入力方法は、現役時代には何の苦も無く使いこなして居たものだが、引退後約2年を経た現在その方法は大方忘れ記憶に残って居なかった。

当時身近に置いて重宝していたメモ書きが、引退時に捨てようとも思いながらも何時かキット何かの役に立つ事も有るだろうと手許に置いたのが、図らずも今回立派に役立って呉れた訳である。

通話料金の心配が殆ど無いままに時間を掛けて、ビデオ会議よろしく「ロジクールのチャットカメラ」をフル活用しながら、無事に伝える事が出来た。

年齢の差はたった一歳しか無いが兄は兄であることは明白!その兄としての面目を充分に施すことが出来て、今日は大・大満足であった。 

嗚呼!立春と言うのに・・・

2005-02-04 18:46:13 | 日々の雑記
 立春と言うのに・・・今日の日中、愛知県安城市内のスーパー店内で、幼児等が40歳代の男性に襲われる事件が起きた。頭部を刃物で刺された11ヶ月の男児(翔馬ちゃん)は、搬送された病院で死亡された。更にその場に居た3歳の女児も顔を斬られ又傍にいた30歳代の女性も顔面を殴られて怪我を負った。

 立春とは暦の上での約束事に過ぎないけれども、その言葉には厳しい冬から希望の春への輝かしい幕開けとも言うべき大いに意義ある一日でないかと思う。
 現に先の短い年金生活を続ける一老人ながら、節分を済ませこの日を迎えると、朝晩の身を切るような凍れにも、後少しの辛抱と来るべく春に希望を抱く。

 何でそんな日に惨劇が・・・と唯々心が凍りついて仕舞う。その後の犯行も繰り返されることも無く、その後間も無く40歳代の容疑者は逮捕されたという。

 嗚呼!八つ裂きにしても・・・なお飽き足りない思いである。

我が家の豆まき!

2005-02-03 22:03:27 | 日々の雑記
 今日は節分二人の孫を家に連れて来て、孫と共に豆まきをした。両親が共稼ぎのためこの数年来、我が家で一緒に節分をするのが慣わしとなっている。

 先ず神棚にお神酒と共に、炒り大豆・落花生・その他各種の豆類に併せて、これは我が家だけの事かも知れないのだが、アーモンドチョコとピーナッツチョコも一緒にお供えして、老妻と孫二人を従い「二禮二拍手」の参拝を済ませてから、各部屋の窓を開け放して掛け声併せて撒きまわって、疫病神の鬼を追い出した。何だかもうそれだけで部屋の空気が清清しく感じるから不思議なものである。

 次はコンビニで買って来た縁起物の「恵方巻」を、2005年の恵方は「西南西」とあったので、4人揃ってその方向に立って一斉に丸齧りを開始した。

 その後はこれも縁起物の豆をそれぞれに、思い思いに豆を選び年齢の数だけ食べたのは言うまでも無い。そして孫達が家に帰る時には、豆類とチョコ類に併せてミカンも入れ、それぞれ持たせて家まで送り届けた。

 明日は立春、暦の上では一応春の始まりなのだが、北国の事むしろ寒さはこれからが本番と言えるだけに、我が身は勿論だが二人の孫の息災を願いたいものである。


忘れえぬ人々から・・・涙の往復ビンタ!

2005-02-02 21:02:33 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 終戦の年昭和20年春先きのことで、私は高等科の新一年生だった。世は正に戦争末期の様相を呈し、食料不足は大袈裟ながら言語を絶するほどだった。
 港には増産体制で掘り出された石炭が山と積まれていたが、積み出す船舶の数が極端に少なく、漸く割り当てられた船も日本海を制する米国潜水艦の餌食にされるばかりで、
折角の石炭も野晒し状態、船が出せないと云う事は、帰り荷である食料が全然入って来ないことでもある。

 されば自給自足と成るのだが、米や麦づくりなどはとうてい無理な樺太の事、せいぜいジャガ芋が主体である。もうその頃では勉強どころか、来る日も来る日も食料増産の為の開墾に駆り出される毎日だった。

 私達新一年生に割り当てられた開墾地は学校近くの裏山だった。作業は木の根っこの堀出しである。当時はブルドーザなどの重機類が在る訳でも無く、生徒達による人海戦術そのもので、掘り出した根っこにロープを巻き付け引っ張り起こすだけである。そうした木の根っことの格闘の日々が続いた或る日、作業にも好い加減に嫌気がさして来た頃だった。一つの噂(デマ)が流された。「せっかく苦労して作っても、食べるのは先生やその家族だけで、俺等には一つも当たらない・・・」、今考えるとそんな事はあり得ない事なのだが、毎日ひもじい思いをしている子供達にはその噂は余りにも刺激的だった。
 誰とも無くサボる(サボタージュ)事が拡がった。休憩が終わっても何時までも愚図愚図として動かなかった。

 担任のK先生が作業開始を知らせに来た時だった、何となく生徒等の動きに神経を苛立たせてようで、或る生徒の誰にとも無く放った一声が導火線となった。「阿呆らしくって、やっていられないよな・・・」一瞬ざわめきが途絶え、凍りついたように全員が固まった。次の瞬間K先生がぶち切れた。

 クラスの生徒全員が一列に並ばされて始まった「往復ビンタ」、平手打ちだったが怒りに任せたその勢いに殆どが吹っ飛び転倒した。その後は何時ものように作業が続けられやがて終了して教室に戻ったが、我々生徒の中にはK先生を恨むような者は居なかった。
 むしろ生徒の皆は単なるデマに惑わされての軽はずみな行動を悔いていたし、何よりも鉄拳を下すK先生の眼に溢れる涙に気付いていたからである。

 その年の秋の収穫時期、K先生からの思わぬ贈り物がもたらされた。それは「蒸かしたての熱ツアツの芋」だった。生徒が春先に苦労して開墾した畑の収穫物だった。
 大歓声を上げて群がり「旨い!旨い!」を連発しながら貪り食う生徒等を見守る、K先生の満足そうに頷く顔には笑みが一杯に溢れていた。