昭和28年頃私は長兄家族と共に生活していた。住居は炭砿住宅特有の長屋(6軒)だった。その長屋の隣人家族に私より4歳ほど年上の男性がいた。その人を我が家では「隣のお兄さん」と呼んでいた。年齢が近かったせいか私とは「ウマ」があった。
ただ彼は病身で仕事に就くことが出来ず、何時も家で読書をするか本を手にして近所を散歩するか、或いは公園などで本を読んで時間を過ごすのが日課のようだった。
休日の事だった。偶然公園で出合った時「隣のお兄さん」が手にしていた本は、啄木の歌集「一握の砂」だった。有名な歌集だったが、樺太から引き揚げ後若干16歳で就職し、その仕事を覚える事のみに追われる毎日だった。
また当時の私は田舎者丸出しの世間知らずの野猿子に等しく、その様な有名な歌集とは全く知らず別世界のものだった、啄木とその歌集の細かな説明を受けて、その歌集に一気に引きずり込まれ夢中になった。
その後機会を見ては隣の家まで遊びに行くようになった。ただ彼の病名は「肋膜炎」ということで、彼との接触はなるべく避けるようにと兄夫婦に言われて居たのだが、私は「肺結核」とは違うからと全く気にせず、事有る毎に訪ねて同じく啄木の歌集「悲しき玩具」も併せて借りて益々夢中になっていた。
◎一握の砂より
☆ 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
☆ 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日
☆ はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
「隣のお兄さん」によって点けられた私の短歌への道筋は、後年成長するに連れて啄木から、若山牧水・斉藤茂吉・与謝野晶子・吉井勇などにも及んだ。更にまた小学生の頃夢中になって遊んでいた「百人一首」も、当時はその意味などは全く知らなかったが、いつしか万葉歌人達にも興味を抱くようになって行った。
中でも吉井勇には強く惹かれ愛読したものである。
☆ 博うたずうま酒酌まず汝等みな日をいただけど愚かなるかな
☆ かにかくに祇園はこいし寝るときも枕の下を水のながるる
☆ 紅燈のちまたにゆきてかへらざる人をまことのわれと思ふや
先年京都旅行した折、紅燈さんざめく妖艶な夜の祇園に憧れたのだが、残念ながら時間の都合で昼間に訪れただけだった。是非にと思いながら未だにその思いを果たしていない。
その後「隣のお兄さん」は、炭砿病院では処置し切れず街の大手病院に移ったと聞いたが、その後の消息は全く判らない。元気でいるのなら是非お会いしたいものである。