昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

忘れえぬ人々から・・・涙の往復ビンタ!

2005-02-02 21:02:33 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 終戦の年昭和20年春先きのことで、私は高等科の新一年生だった。世は正に戦争末期の様相を呈し、食料不足は大袈裟ながら言語を絶するほどだった。
 港には増産体制で掘り出された石炭が山と積まれていたが、積み出す船舶の数が極端に少なく、漸く割り当てられた船も日本海を制する米国潜水艦の餌食にされるばかりで、
折角の石炭も野晒し状態、船が出せないと云う事は、帰り荷である食料が全然入って来ないことでもある。

 されば自給自足と成るのだが、米や麦づくりなどはとうてい無理な樺太の事、せいぜいジャガ芋が主体である。もうその頃では勉強どころか、来る日も来る日も食料増産の為の開墾に駆り出される毎日だった。

 私達新一年生に割り当てられた開墾地は学校近くの裏山だった。作業は木の根っこの堀出しである。当時はブルドーザなどの重機類が在る訳でも無く、生徒達による人海戦術そのもので、掘り出した根っこにロープを巻き付け引っ張り起こすだけである。そうした木の根っことの格闘の日々が続いた或る日、作業にも好い加減に嫌気がさして来た頃だった。一つの噂(デマ)が流された。「せっかく苦労して作っても、食べるのは先生やその家族だけで、俺等には一つも当たらない・・・」、今考えるとそんな事はあり得ない事なのだが、毎日ひもじい思いをしている子供達にはその噂は余りにも刺激的だった。
 誰とも無くサボる(サボタージュ)事が拡がった。休憩が終わっても何時までも愚図愚図として動かなかった。

 担任のK先生が作業開始を知らせに来た時だった、何となく生徒等の動きに神経を苛立たせてようで、或る生徒の誰にとも無く放った一声が導火線となった。「阿呆らしくって、やっていられないよな・・・」一瞬ざわめきが途絶え、凍りついたように全員が固まった。次の瞬間K先生がぶち切れた。

 クラスの生徒全員が一列に並ばされて始まった「往復ビンタ」、平手打ちだったが怒りに任せたその勢いに殆どが吹っ飛び転倒した。その後は何時ものように作業が続けられやがて終了して教室に戻ったが、我々生徒の中にはK先生を恨むような者は居なかった。
 むしろ生徒の皆は単なるデマに惑わされての軽はずみな行動を悔いていたし、何よりも鉄拳を下すK先生の眼に溢れる涙に気付いていたからである。

 その年の秋の収穫時期、K先生からの思わぬ贈り物がもたらされた。それは「蒸かしたての熱ツアツの芋」だった。生徒が春先に苦労して開墾した畑の収穫物だった。
 大歓声を上げて群がり「旨い!旨い!」を連発しながら貪り食う生徒等を見守る、K先生の満足そうに頷く顔には笑みが一杯に溢れていた。

 

 


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