2月にケイチン(華鎮祭)の弓打ち行事をされている田原本町の阪手北。
昨年末の注連縄飾りの際に村人から聞いていた7月16日のゴウシンサン。
充てる漢字は「郷神」さんである。
「八坂神社すぐ傍の辻に建つ石塔にお神酒を供えてお祭りをする」と云っていた。
その石塔は「寛政七乙卯年(1795)霜月吉日」に建之された「常夜燈」だ。
「式下北坂手村 惣中」の刻印もあった常夜燈は村の人たちが建てたものである。
常夜燈ではあるが、お伊勢参りに出かける際は、ここで拝んで旅だったというから大神宮の石塔に違いない。
7月16日に県内各地で行われている大神宮(太神宮)の祭りをダイジングサンと呼ぶ地域は多いが、田原本町・三宅町・川西町ではなぜかゴウシンサンと呼ばれている。
天理市庵治町や武蔵町もゴウシンサンと呼んでいたことから、この辺りの地域固有の呼び方のように思える。
阪手北の郷神さんを祭る行事は地区を三つに分けた東・西・中の廻り順で行われる。
この年の当り当番は東であった。
注連縄飾りの際に話してくださった3人がおられた。
「よう来てくれた」と温かく迎えてくれるゴウシンサンは、始めに作業がある。
八坂神社の蔵に納めていた角材を常夜燈に運び始めた。
ほとんどが男性だが、婦人も運ばれている。
小学三年生の孫さんも手伝う角材運び。
土台・柱・梁・桁で支えて棟木・垂木を置いて屋根で覆っていく。
角材にそれぞれのホゾもあり、東・西・上・下などの印しも書いている。
それどおりに組立てていく。
およそ30分間で組み立てた。
棟木には「昭和四拾七年七月吉日建之」と書かれていた。
それ以前にもあったそうだが、新しく造り替えたと云う。
それまでの角材は蔵が古かったので、隙間風でほこりまみれ。
近くの川に運んで洗っていたそうだ。
斜め材の筋違いがないので、風に煽られると倒れそうにもなるが、それはそれでしっかりとした造りである。
祭壇の板を置いてお神酒やつまみ、お菓子を供えて提灯にローソクを灯す。
一同揃って2礼・2拍手・1礼のお参り。
しばらくはその場で直会るゴウシンサン。
1時間も経てばお参りを終えて角材を解体して終えた。
大正14年生まれの長老の話しによれば、戦後まもない昭和30年代前半まではホラ貝を吹いて、地域に呼出をしていたそうだ。
子供たちは下げた御供の「ショウジセンベイ」を食べていたと話す。
「ショウジセンベイ」は大和郡山市の小林町住民からも聞いたことがある。
長方形のセンベイは障子のサンのような格子状の焼きがあったそうだ。
豆入りもあれば、ないものもあったと云う「ショウジセンベイ」は、稀にスーパーでも売っていたそうだ。
阪手北の人も同じようにスーパーで見たことがあると云う。
懐かし「ショウジセンベイ」が記憶のなかで蘇った。
そのような話題に、婦人たちは「子供のときに参ったら“コウシセンベイ”を3枚もらっていた」と云うのだ。
「ゴウシンサンやったらセンベイ」という記憶があると口々に伝える。
ちなみに、長老が寿司屋をされたいたころは、田原本町味間のゴウシンサンに20本の巻き寿司を配達していたと話す。
味間のゴウシンサンの場は存じている。
いつかは訪ねてみたいものだ。
(H26. 7.16 EOS40D撮影)
昨年末の注連縄飾りの際に村人から聞いていた7月16日のゴウシンサン。
充てる漢字は「郷神」さんである。
「八坂神社すぐ傍の辻に建つ石塔にお神酒を供えてお祭りをする」と云っていた。
その石塔は「寛政七乙卯年(1795)霜月吉日」に建之された「常夜燈」だ。
「式下北坂手村 惣中」の刻印もあった常夜燈は村の人たちが建てたものである。
常夜燈ではあるが、お伊勢参りに出かける際は、ここで拝んで旅だったというから大神宮の石塔に違いない。
7月16日に県内各地で行われている大神宮(太神宮)の祭りをダイジングサンと呼ぶ地域は多いが、田原本町・三宅町・川西町ではなぜかゴウシンサンと呼ばれている。
天理市庵治町や武蔵町もゴウシンサンと呼んでいたことから、この辺りの地域固有の呼び方のように思える。
阪手北の郷神さんを祭る行事は地区を三つに分けた東・西・中の廻り順で行われる。
この年の当り当番は東であった。
注連縄飾りの際に話してくださった3人がおられた。
「よう来てくれた」と温かく迎えてくれるゴウシンサンは、始めに作業がある。
八坂神社の蔵に納めていた角材を常夜燈に運び始めた。
ほとんどが男性だが、婦人も運ばれている。
小学三年生の孫さんも手伝う角材運び。
土台・柱・梁・桁で支えて棟木・垂木を置いて屋根で覆っていく。
角材にそれぞれのホゾもあり、東・西・上・下などの印しも書いている。
それどおりに組立てていく。
およそ30分間で組み立てた。
棟木には「昭和四拾七年七月吉日建之」と書かれていた。
それ以前にもあったそうだが、新しく造り替えたと云う。
それまでの角材は蔵が古かったので、隙間風でほこりまみれ。
近くの川に運んで洗っていたそうだ。
斜め材の筋違いがないので、風に煽られると倒れそうにもなるが、それはそれでしっかりとした造りである。
祭壇の板を置いてお神酒やつまみ、お菓子を供えて提灯にローソクを灯す。
一同揃って2礼・2拍手・1礼のお参り。
しばらくはその場で直会るゴウシンサン。
1時間も経てばお参りを終えて角材を解体して終えた。
大正14年生まれの長老の話しによれば、戦後まもない昭和30年代前半まではホラ貝を吹いて、地域に呼出をしていたそうだ。
子供たちは下げた御供の「ショウジセンベイ」を食べていたと話す。
「ショウジセンベイ」は大和郡山市の小林町住民からも聞いたことがある。
長方形のセンベイは障子のサンのような格子状の焼きがあったそうだ。
豆入りもあれば、ないものもあったと云う「ショウジセンベイ」は、稀にスーパーでも売っていたそうだ。
阪手北の人も同じようにスーパーで見たことがあると云う。
懐かし「ショウジセンベイ」が記憶のなかで蘇った。
そのような話題に、婦人たちは「子供のときに参ったら“コウシセンベイ”を3枚もらっていた」と云うのだ。
「ゴウシンサンやったらセンベイ」という記憶があると口々に伝える。
ちなみに、長老が寿司屋をされたいたころは、田原本町味間のゴウシンサンに20本の巻き寿司を配達していたと話す。
味間のゴウシンサンの場は存じている。
いつかは訪ねてみたいものだ。
(H26. 7.16 EOS40D撮影)