マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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椎木町光堂寺の涅槃会

2014年09月16日 08時27分51秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市西町で行われたお釈迦さん取材を終えて隣村の椎木町に向かった。

町内の宗派は融通念仏宗派であるが、東地区に建つ光堂寺は真言宗だ。

長年に亘って無住寺だった光堂寺に縁があって勤めることになった香芝の住職。

荒れていた堂内を美しくしたと話す。

光堂寺では先月の2月17日に大般若経が行われた。

お堂に上がるのは自治会長をはじめとして杵築神社の祭祀を勤める十人衆たちであるが、この日のお勤めは涅槃会。

参集された東地区の人たちは自治会長や年番さんに村の婦人たち。

お堂にあがって、お菓子と巻き寿司を供えた。

前回と同様に取材を許諾されるが、撮影はストロボ厳禁で、本尊が写らないように気を配る。

お釈迦さんが亡くなったのは2月15日であるが、椎木町も他村と同様に3月15日に行われる。

お釈迦さんが入滅される涅槃図もなく、法会だけである。



平成3年10月に発刊された『椎木の歴史と民俗』によれば、昭和10年頃までは子供の涅槃があったそうだ。

子供たちは「ねはんさんのすすめ ぜになっとかねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」を三辺繰り返しながら村中を廻ってお供えのお金を集めていたと書いてあった。

「はしのいえたてて」とか「ぼんぼのけえで やねふきや」の台詞で思い出した高取町森のイノコの行事の正調節。

「イノコの晩に モチの搗かん家は 箸の家を立てて 馬のクソで壁塗って ここの嫁はん何時もらう 3月3日の朝もらう イワシ三匹 酒五合 新米藁喰ろうて 祝おうてやろう」の台詞だった。

「箸の家を立てて」が同じだ。

今では廃れたが明日香村の檜前地区の台詞は「亥の子の晩に 餅つかん家は 箸でいえ建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もうた イワシ三匹 酒五合 しんまい藁で祝うたろう もうひとつおまけに祝うたろか」だった。

「ボボの毛で屋根葺いて」は、椎木の「ぼんぼのけえで やねふきや」と同じである。

椎木の台詞に「ねはんさんのすすめ」がある。

これを「ねはんのすずめ」と呼んでいたのが奈良市日笠の子供の涅槃。

今では廃れたが奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」だった。

山添村勝原のこども涅槃の台詞は「ねはん きゃはん おしゃかのすずめ」であった。

「きゃはん」は足を保護して歩きやすくする脚絆布。

「おしゃかのすずめ」とは米を拾う雀。

お釈迦さんが行った修業を見習って、その使いとなった子供たちがお米を集めるという説があると聞いているが、である。

「ねはんのすすめ」がいつしか「ねはんのすずめ」に移った台詞の本来は「涅槃の勧め」である。

椎木の台詞は涅槃の勧めとイノコ行事の台詞が混ざったのでは、と思ったのである。

子供が大勢いたころは、西地区にある出雲寺(しつうんじ)まででかけてダンゴを貰うとか、集めたお金でお菓子を買って食べていたようだ。

史料によれば光堂寺、出雲寺ともそれぞれに涅槃図が現存すると『椎木の歴史と民俗』に書いてあった。

いずれは確認したいと思っている。

ちなみに椎木町は天誅組だった三枝蓊「さえぐさしげる」が生まれたとされる浄連寺がある。

天保十一年(1840年)にこの地で生まれた三枝蓊は伴林光平「ともばやしみつひら」が天誅組に入ったことで挙兵(文久三年・1863年)し共に活動をしていたと伝わる誕生地である。

平成25年は天誅組が挙兵して150周年。

安堵町の歴史民俗資料館が主催するツアーに多くの人が浄連寺にやってきたと云う。

(H26. 3.15 EOS40D撮影)


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