マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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西町良福寺文殊堂のお釈迦さん

2014年09月15日 07時18分29秒 | 大和郡山市へ
かつてお釈迦さんの涅槃図は朽ちてボロボロであったが改表装されたと云う。

裏面に書いてあった墨書には「昭和拾二年三月 改表装」、「明治三十二年頃 平端村大字西 辻本太四郎寄附 此ノ太四郎氏ハ辻本善蔵ノ實ノ父成」、「奈良懸生駒郡昭和村大字西 光専寺什物 光専寺 司馬永住職 初代達英 二代黙佛 三代永年 昭和二十一年十月九日 三代住職 司馬永年 謹誌」とある。

光専寺は良福寺よりすぐ近くに西側に建つ浄土真宗本願寺派だ。

涅槃図を納めていた箱には「釋迦涅槃像」、「箱寄進者 村田長太郎 昭和拾弐年三月十二日新調」とあった大和郡山市西町の涅槃図。

この日は良福寺文殊堂のお釈迦さんの行事日である。

額田部町の西側の地であることから西町の名がついたと聞いている。

西町は良福寺文殊堂および戎子神社の祭事を勤める当屋が4組。

それぞれの当屋は交替して寺・神社行事を勤めている。

この日の涅槃さんにあたった当屋は保管してある涅槃図を文殊堂に掲げて御供を供える。

ご主人の都合で、前日に掲げておいた涅槃図は横幅が255cmで縦は210cmであった。

涅槃図は明治三十二年頃に平端村大字西の辻本太四郎が寄附したとある。

ボロボロになっていた戦前の昭和12年に表装しなおした涅槃図は元々村の光専寺の什物。

じっくり見たこともないと云って自治会長夫妻も同席されて拝見する。

例年であればお堂の連子窓は開けることはないがこの日は特別。

涅槃図全景も記録しておきたいと申された自治会長。



燭台も除けてくれた当屋さんらの配慮で村の記録を手伝った。

涅槃図はお釈迦さん入滅画。

周りの僧侶たちは涙をこぼしている。

よく見れば眼が赤く描かれていた。

お供えはお花と椀に盛ったセキハンとお菓子。

当屋の都合で昼過ぎになるという。

拝見はできなかったが、午後ともなれば供えたお菓子を、小学生から生まれたての赤ちゃんまで、子供がいる家に配るそうだ。

その際、「おしゃかさんのはなくそや」と云って配っていたと自治会長婦人やお参りに来た老婦人が話していた。

妙な云い方である「おしゃかさんのはなくそや」は、正月のモチを残しておいて、涅槃の日に煎って御供にしたいわゆるキリコモチ、つまりアラレである。

見た目が似ているから「鼻くそ」と揶揄(やゆ)された「花御供」。

食べると一年間無病息災で過ごせるという謂れがある。

朝に掲げて午後のある時間まで掲げる涅槃図。

その間にお参りする人は閉じた連子窓の隙間からお賽銭を投じて手を合わせる。



普段の様相はこういう状態である。

連子窓ごしに拝見する入滅姿のお釈迦さんに手を合わせる。



涅槃図は古いものではなかったが、堂内に掲げられていた絵馬は享和二年(1802)に寄進されたものだった。

「奉 懸御□□」、「□和二壬戌年三月廿五日 □林村畑野氏門人 小林村小川栗 小泉家中中川春 小林小川春 今国府村連名4名 椎木村連名2名 小林連名3名 今国府1名 小林連名2名 ・・・・ 高辻宣木画」とある。

二壬戌年で□和となる年号は天和と享和があるが、推定するにおそらく享和であろう。

享和二年であれば1802年。

文字は欠けているが下部から判断してそう思った。

「三月廿五日」は旧暦。良福寺文殊堂の行事に2月25日に行われている文殊会式がある。

3月25日は二ノ文殊会式だが、その日は2.5升で搗いたコモチを2個ずつ各戸に配るだけのようだ。

もしかとすればだが、この在り方が「おしゃかさんのはなくそ」がモチに変化したのでは、と思ったのである。

奉懸御された絵馬。

鉢巻をしめた童がサンハタキか、それとも箒と思われる道具を持っている。

何を現したものなのか、判らない。



寄進者は西村(西町)だけでなく、近隣村の椎木村、今国府村、小林村に小泉家中の名もあった。

村の人も知らないと云う絵馬は何であろうか。

(H26. 3.15 EOS40D撮影)


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