セキハン(若しくはモッソ)と呼ばれる氏神祭りの御供は本殿、若宮神社、白山神社、山ノ神へ供えられる。
本殿には大座(中央)が2膳で今座(左)、千座(右)とともに1膳ずつ。
若宮神社へはそれぞれの座(左から今、大、千座)が1膳ずつ。
白山神社は大座(左)、今座(右)ともに1膳ずつで山ノ神が大座であった。
ヒトシオサバとも呼ばれる生サバはそれぞれ2尾ずつ本殿に吊り下げる。
大座ではこれを「掛魚」と称していた。
そして2年任期の村の神主が本殿に登って神事を始められた。
三座の人たちや村の人も参列されての氏神祭りは村の五穀豊穣を願う祝詞を奏上されて終えた時間帯は丁度昼時。
三つの座中はそれぞれの仮屋で会食をする。
いわゆる直会である。
今座の人に聞いた話では当屋(当家とも)は豆、ゴボウ、コンニャクを炊いた三種とパック詰め料理を出す。
数年前まではサバ寿司と巻き寿司もだしていたそうだ。
汁ものはトーフ汁と決まっている。
それらの膳の料理を肴にお酒など酌み交わしてしばらくは座中の憩いの場。
それぞれの座中の語らいが1時間ほど営まれる。
それぞれの座中には座中記録帳がある。
年号の古いものから順に今座の「今座入用帳 天保十二年(1841)九月吉日祭座」、千座の「千座講中簿 昭和十六年(1941)新調」、大座の「奈良市北村町 大座帳 昭和四十二年(1966)十月新調」とある。
今座入用帳には「神宮様 もそ三枚 酒三合 かます二枚・・・」、「若宮様 もそ二枚 なすび いも」、「神様御でま志」、「加ん○志」などの文字が記されている。
どうやら祭典の在り方や御供の内容が書かれているようだ。
それには「十一月座」とあり「大座と當屋分」の文字があることから両座で営まれていたようだ。
また、「おかぐら」の文字もあることから神楽舞がされていたようだ。
安政二年(1855)、四年・・・文久元年(1861)、二年・・・における当屋氏名とか「ヤト」の文字もある。
「まつりとや」とか「まつり座をつとめる」とあるから、当時は当屋の家が「ヤド」となって営みをしていたようだ。
その今座入用帳の中には「天保十年(1839)八月 加利やたて」があることからその時期に仮屋(千座入用帳では籠所)が建てられたようだ。
昭和三十四年に記された大座入用帳では千座のことを新座と呼んでいたことから三番目の座中と思われる。
氏神祭りは昭和61年までは10月17日で、その後は10日(平成5年から11年)であった。
平成12年に制度化されたハッピマンデーの関係で現在は体育の日にされている。
今座のほうでは座中に神主が居る場合において前日に宵宮(夜宮とも)が行われていた。
大座中ではその夜宮で御供搗きがされていたようだ。
その御供搗きは神主の次にあたる一老と二老がしていたらしい。
現在はなくなったが当時は芋、焼き豆腐、鯖、青菜、松茸、ズイキ和え、猪、蒟蒻、牛蒡、蓮根などの献立膳があったようだ。
また、山ノ神に供える餅を「犬ノ舌」と称していた。
ちなみに現在の北村町の軒数は24。
座中の軒数といえば大座が10軒、今座は4軒で千座は2軒である。
村を出たりして徐々に減っていったと話す。
(H23.10.10 EOS40D撮影)
本殿には大座(中央)が2膳で今座(左)、千座(右)とともに1膳ずつ。
若宮神社へはそれぞれの座(左から今、大、千座)が1膳ずつ。
白山神社は大座(左)、今座(右)ともに1膳ずつで山ノ神が大座であった。
ヒトシオサバとも呼ばれる生サバはそれぞれ2尾ずつ本殿に吊り下げる。
大座ではこれを「掛魚」と称していた。
そして2年任期の村の神主が本殿に登って神事を始められた。
三座の人たちや村の人も参列されての氏神祭りは村の五穀豊穣を願う祝詞を奏上されて終えた時間帯は丁度昼時。
三つの座中はそれぞれの仮屋で会食をする。
いわゆる直会である。
今座の人に聞いた話では当屋(当家とも)は豆、ゴボウ、コンニャクを炊いた三種とパック詰め料理を出す。
数年前まではサバ寿司と巻き寿司もだしていたそうだ。
汁ものはトーフ汁と決まっている。
それらの膳の料理を肴にお酒など酌み交わしてしばらくは座中の憩いの場。
それぞれの座中の語らいが1時間ほど営まれる。
それぞれの座中には座中記録帳がある。
年号の古いものから順に今座の「今座入用帳 天保十二年(1841)九月吉日祭座」、千座の「千座講中簿 昭和十六年(1941)新調」、大座の「奈良市北村町 大座帳 昭和四十二年(1966)十月新調」とある。
今座入用帳には「神宮様 もそ三枚 酒三合 かます二枚・・・」、「若宮様 もそ二枚 なすび いも」、「神様御でま志」、「加ん○志」などの文字が記されている。
どうやら祭典の在り方や御供の内容が書かれているようだ。
それには「十一月座」とあり「大座と當屋分」の文字があることから両座で営まれていたようだ。
また、「おかぐら」の文字もあることから神楽舞がされていたようだ。
安政二年(1855)、四年・・・文久元年(1861)、二年・・・における当屋氏名とか「ヤト」の文字もある。
「まつりとや」とか「まつり座をつとめる」とあるから、当時は当屋の家が「ヤド」となって営みをしていたようだ。
その今座入用帳の中には「天保十年(1839)八月 加利やたて」があることからその時期に仮屋(千座入用帳では籠所)が建てられたようだ。
昭和三十四年に記された大座入用帳では千座のことを新座と呼んでいたことから三番目の座中と思われる。
氏神祭りは昭和61年までは10月17日で、その後は10日(平成5年から11年)であった。
平成12年に制度化されたハッピマンデーの関係で現在は体育の日にされている。
今座のほうでは座中に神主が居る場合において前日に宵宮(夜宮とも)が行われていた。
大座中ではその夜宮で御供搗きがされていたようだ。
その御供搗きは神主の次にあたる一老と二老がしていたらしい。
現在はなくなったが当時は芋、焼き豆腐、鯖、青菜、松茸、ズイキ和え、猪、蒟蒻、牛蒡、蓮根などの献立膳があったようだ。
また、山ノ神に供える餅を「犬ノ舌」と称していた。
ちなみに現在の北村町の軒数は24。
座中の軒数といえば大座が10軒、今座は4軒で千座は2軒である。
村を出たりして徐々に減っていったと話す。
(H23.10.10 EOS40D撮影)