祭りのメインはお渡りにあると言っても過言ではないだろう。
装束に身をかためた当家一行を一目見たさに道中に出向く町の人たちの姿はいずこも同じようである。
大和郡山市額田部に鎮座する推古神社のお渡りは4軒の当家が行列をするだけに見ごたえもある。
かつては派手やかな和服姿の女性たちもお渡りについていた。
昨今はその姿が少なくなったとこぼす老婦人たちの声が聞こえる。
昭和63年の祭礼写真を拝見したがそのころも既に少なくなっていたようだ。
お渡りは一番当家と三番当家が合流する東池から出発する。
池は埋められ車が通過できる道路もできて半分以下になったそうだ。
そこへ一番当家が加わってお渡りが出発する。
行列は額田部北と南の自治委員長、宮司、二人の巫女、一番当家、二番、三番の順である。
大御幣を持つ当家の息子を先頭にシャクを持つ当家、根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ孫男児に親族が続くとされていたが、この年は当家当主、大御幣の息子、ヤナギ担ぎの孫であった。
後日に聞いた一番当家の話では到着したときには既にそうなっていた。
トラブルを避けてやむなくそのままの順でお渡りをしたという。
東池から500mほどお渡りしてきた一行に四番当家が加わる場所は春日神社辺り。
つまり一番から三番当家は北町の人たちで四番は南町になる。
この辺りは北と南の境目となるようで、ここで参列に加わるものと思われる。
かつて北町を北方、南町を南方と呼んでいた。
それを示す絵馬が推古神社拝殿に残されている。
その春日神社北には額安寺五輪塔群が。
そこは窯倉墓とも呼ばれている。
さらに西側25m先にあるのが額田部窯跡。
昭和4年に国重要文化財に指定された史蹟(昭和3年に発見)である。
鎌倉時代に瓦を焼いていたとされる窯跡は叡尊、忍性によって再興された額安寺の所用瓦を焼いていたという。
お渡り行列が一体化した付近の旧街道筋は急な坂道。
地元の人たちはそこをカマクラ坂と呼んでいる。
それは時代名の鎌倉なのか、瓦を焼いていた窯倉だったのか・・・。
そこを下ってきたお渡り行列は推古神社への道を通り抜けて南へ向かう。
先ほど合流した春日神社からは400mのところだ。
額安寺前にある小さくなったという池周りの畑道を歩いていけば五社明神があった。
五社さんと呼ばれるだけに五柱の神さんが立ち並ぶ。
右から白山神社、八幡神社、天照皇太神宮、春日神社、住吉神社とある。
中央の三社の並びといえば伊勢の天照太神宮、右が石清水八幡大菩薩で左が春日大明神。
お日待ちの行事に掲げられる三社託宣の三神と同じ並びだ。
かつては額安寺領地内だと推定される五社明神。
刻銘から大正年間に建立されたものには違いないが当時を知る人はいない。
一柱ごとに御幣を奉ったその五社明神の右前に整然と並んだ当家の人たち。
当家、孫、息子の三列。
左側には巫女が立つ。
宮司は中央で祝詞奏上に祓えの儀式。
それを終えて二人の巫女は当家の神遷しと同様に祝詞を奏上し鈴と扇を持って右へ左へと舞う。
これを神子神楽と称している。
当家の家族はその様子を見守っている。
五社明神参拝を終えると一行は再び北上して春日神社に向かう。
この段階でも推古神社には辿りつかない。
旧道を入って春日神社の鳥居を潜る。
そこでも五社明神と同じように祝詞奏上、祓え、神楽を奉納する。
樹木に囲まれた神社は木々からの光がさし込む。
そこは神域であるかのような景観だ。
こうして五社明神、春日神社への巡拝を終えてようやく推古神社に向かった一行。
そのころには地区を練り歩いてきた蒲団太鼓と神楽提灯も合流した。
鳥居を潜りお渡り一行に続いて宮入りする。
こうして親子三代揃った額田部の当家は拝殿で祭りの神事を営まれる。
この日の夜には10月からミナライとなって神社祭礼に尽くしてきた新当家に引き継がれる。
一年間も神社祭礼を担ってきた四人の当家はようやく役目を終えた。
年末には慰労を兼ねてお伊勢さん参りをするらしい。
蒲団太鼓台は法被姿になった大人の男たちが、神楽提灯はトレパン姿の子供たちが担いでいた。
昭和63年当時の蒲団太鼓は白色に挟まれた赤色の蒲団。
三段になっている。
それを16人ほどで担いでいる。
お渡り直後に撮られたものだろうか、境内でお練りをしている様子がわかる。
ご厚意でその写真を提供していただいたのでここに掲載しておく。
(H23.10.13 スキャン)
(H23.10. 9 EOS40D撮影)
装束に身をかためた当家一行を一目見たさに道中に出向く町の人たちの姿はいずこも同じようである。
大和郡山市額田部に鎮座する推古神社のお渡りは4軒の当家が行列をするだけに見ごたえもある。
かつては派手やかな和服姿の女性たちもお渡りについていた。
昨今はその姿が少なくなったとこぼす老婦人たちの声が聞こえる。
昭和63年の祭礼写真を拝見したがそのころも既に少なくなっていたようだ。
お渡りは一番当家と三番当家が合流する東池から出発する。
池は埋められ車が通過できる道路もできて半分以下になったそうだ。
そこへ一番当家が加わってお渡りが出発する。
行列は額田部北と南の自治委員長、宮司、二人の巫女、一番当家、二番、三番の順である。
大御幣を持つ当家の息子を先頭にシャクを持つ当家、根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ孫男児に親族が続くとされていたが、この年は当家当主、大御幣の息子、ヤナギ担ぎの孫であった。
後日に聞いた一番当家の話では到着したときには既にそうなっていた。
トラブルを避けてやむなくそのままの順でお渡りをしたという。
東池から500mほどお渡りしてきた一行に四番当家が加わる場所は春日神社辺り。
つまり一番から三番当家は北町の人たちで四番は南町になる。
この辺りは北と南の境目となるようで、ここで参列に加わるものと思われる。
かつて北町を北方、南町を南方と呼んでいた。
それを示す絵馬が推古神社拝殿に残されている。
その春日神社北には額安寺五輪塔群が。
そこは窯倉墓とも呼ばれている。
さらに西側25m先にあるのが額田部窯跡。
昭和4年に国重要文化財に指定された史蹟(昭和3年に発見)である。
鎌倉時代に瓦を焼いていたとされる窯跡は叡尊、忍性によって再興された額安寺の所用瓦を焼いていたという。
お渡り行列が一体化した付近の旧街道筋は急な坂道。
地元の人たちはそこをカマクラ坂と呼んでいる。
それは時代名の鎌倉なのか、瓦を焼いていた窯倉だったのか・・・。
そこを下ってきたお渡り行列は推古神社への道を通り抜けて南へ向かう。
先ほど合流した春日神社からは400mのところだ。
額安寺前にある小さくなったという池周りの畑道を歩いていけば五社明神があった。
五社さんと呼ばれるだけに五柱の神さんが立ち並ぶ。
右から白山神社、八幡神社、天照皇太神宮、春日神社、住吉神社とある。
中央の三社の並びといえば伊勢の天照太神宮、右が石清水八幡大菩薩で左が春日大明神。
お日待ちの行事に掲げられる三社託宣の三神と同じ並びだ。
かつては額安寺領地内だと推定される五社明神。
刻銘から大正年間に建立されたものには違いないが当時を知る人はいない。
一柱ごとに御幣を奉ったその五社明神の右前に整然と並んだ当家の人たち。
当家、孫、息子の三列。
左側には巫女が立つ。
宮司は中央で祝詞奏上に祓えの儀式。
それを終えて二人の巫女は当家の神遷しと同様に祝詞を奏上し鈴と扇を持って右へ左へと舞う。
これを神子神楽と称している。
当家の家族はその様子を見守っている。
五社明神参拝を終えると一行は再び北上して春日神社に向かう。
この段階でも推古神社には辿りつかない。
旧道を入って春日神社の鳥居を潜る。
そこでも五社明神と同じように祝詞奏上、祓え、神楽を奉納する。
樹木に囲まれた神社は木々からの光がさし込む。
そこは神域であるかのような景観だ。
こうして五社明神、春日神社への巡拝を終えてようやく推古神社に向かった一行。
そのころには地区を練り歩いてきた蒲団太鼓と神楽提灯も合流した。
鳥居を潜りお渡り一行に続いて宮入りする。
こうして親子三代揃った額田部の当家は拝殿で祭りの神事を営まれる。
この日の夜には10月からミナライとなって神社祭礼に尽くしてきた新当家に引き継がれる。
一年間も神社祭礼を担ってきた四人の当家はようやく役目を終えた。
年末には慰労を兼ねてお伊勢さん参りをするらしい。
蒲団太鼓台は法被姿になった大人の男たちが、神楽提灯はトレパン姿の子供たちが担いでいた。
昭和63年当時の蒲団太鼓は白色に挟まれた赤色の蒲団。
三段になっている。
それを16人ほどで担いでいる。
お渡り直後に撮られたものだろうか、境内でお練りをしている様子がわかる。
ご厚意でその写真を提供していただいたのでここに掲載しておく。
(H23.10.13 スキャン)
(H23.10. 9 EOS40D撮影)