完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

週末の酒 (8) ~血縁のもどかしさと樽酒の思い出~

2007年01月13日 | 
私は中年である。
昔は「成人の日」といえば1月15日だった。
その日は「年賀状のお年玉抽選」の日でもある。

少し前から成人の日は「1月第一週月曜日」となってしまい、
「お年玉抽選日」がいつになった分からず困っている
「中年」である。

さて、正月の今頃になると思い出す「酒」がある。
少々古いがそのことをUpしようと思う。

わたしには不肖の叔父が居る。
10年以上行方不明になっていて、随分死んだ婆さんや親父をやきもき
させた人である。

ひょんなことからそんな叔父の居所が判明した。役所の転入手続きの
手数料「350円」を滞納したから払え、と言う手紙からだった。
(なんとも情け無い話だ)

問題なのは居場所の判明した叔父が20年数年ぶりに帰省する時の
「受け入れる側」の態度だ。

当時私は高校生を卒業したばかりだったと思うが、ある意味興味津々で
その時を待っていた。

家族中で数年に1度くらいその叔父の話が出るのだが、年老いていた婆さんは
困ったような顔をしてそれでも口では「かんまんどけ」(かまわないでおけ)
とぼそぼそとつぶやいていた。

親父は苦々しげに押し黙っていた。私が口を挟む余地は、もちろん無い。

そして、彼は帰ってきた・・・。

いまだに私は信じられないのであるが、その時婆さんは顔をクシャクシャに
して涙を流さんばかりに喜んでいた。テレビドラマのように抱きついて
泣いたりはしなかったが、気持ちは同じだったろう。

私の爺さんは私が生まれる前に亡くなっていてので、婆さんはその時点で
未亡人生活20年近くであった。子どもは息子が3人娘が4人。しかし、
4人の娘のうち2人は早くに失くしていた。

そうした中ではグレた息子であってもかわいくないはずが無い。
その対応は仕方の無いところだったろう。

しかし、問題なのは「親父の対応」である。

・・・親父も婆さんと同じ対応で「うれしそう」に彼を迎えたのだ。

私はまだ「青臭」かった。しかし、青臭いながらも考えていた。
親父には爺さんの代わりに「大声を上げる父親代わりの長兄」を期待して
いたのだ。

いかなる事情があるにせよ10年以上も行方不明である。
当時親父は50代であった筈でとても「丸くなる」様な歳ではない。

叔父の首根っこを掴み仏壇の前に座らせ爺さんの位牌に手を突かせる。
・・・なんてシーンを思い描いていたのだ。

しかし、うれしそうに「よかったよかった」と連発する親父を見て、
拍子抜けしたのを覚えている。


叔父がそんな経緯で家に毎年帰省するようになって数年間、正月には
「樽酒」を送ってくるようになった。

本人は「雪と寒さ」が大嫌いで盆にしか帰省しない。

年末から晩冬まで「両関」の薦被り(こもかぶり)が居間の端におかれる
ことになった。

一合升に木の香の強い冷酒(この時季居間においておけば自然と冷酒に
なっているのが雪国のよいところ・・・なのかなぁ)を溢れるほど注ぎ、
はしっこに「波の華」(何のことは無いただの塩)を盛り上げて舐めながら
飲む。

「両関」はたしか秋田の酒で我が地域の酒によく似た「端麗辛口」だった。
高校卒業したばかりだから、あまり堂々と飲むわけにはいかなかったが、
とても「美味かった」記憶が強い。

今私は「中年」となり、そのとき帰ってきた叔父の歳に近くなっている。
しかし、立場としてはその叔父を迎えた親父のそれに近い。

そして思うのだ。
やはり、親父のあの「うれしそうな態度」は間違いだったと。

「感情」でなく「けじめ」として叔父には仏壇に頭を下げさせる必要が、
家族全員で「けじめをつけた」ことを認識させる必要があったのだ。
けじめのつかないそれからの血縁の者達は、なにか釈然としないものが
いまだ漂っている。

「美味い樽酒」と「けじめのつかない親父と叔父の関係」のことを、
この時季になると思い出す。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが寒い冬に、風邪など召しませぬように。

結局、私は25年経っても「青臭い」ままなのかもしれない。

                                                                may
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