私は初老男である。
昨日の天気は「冬型」だった。
・・・・・我が地域の冬は雪が多くて寒い。
タイヤを変えねば。。。。
落語について書かれた本は多い。
それは最近とくに多い。
そうした中で「古典」とも言える本を読んだ。
桂米朝著「落語と私」
である。
読んだといっても何度目かである。
実は失くしてしまっていたのが、見つかったのでの再読だ。
文庫本の発行月日は1986年となっている。
多分もっと前にハードカバーで発行されているはずだ。
本人は50代だったという。
落語をむずかしく考える必要はない。
聴いて面白ければそれでいい。
しかし、演じている人間である限り、そこに「ヒトとなり」が現れる。
それ自体に面白みを感じたり、興味を感じたならばこうした本を読んで欲しい。
私の感覚で申し訳ないが、古典落語において東京芸人に「江戸っ子」の気質を感じる人がほとんどいない。
まあ、大して聴いてもいないクセにと言われればグウの音も出ないが。
私のにとって、それは「古今亭志ん朝」で終わっている。
彼の江戸気質やキップのいいタンカの切り方を伝えている人は見当たらない。
残念だ。
上方落語においては、やっぱり「桂米朝」だろう。
大坂の商家の旦那・番頭・丁稚の雰囲気を、あれほど自然に感じさせてくれる人はいない。
ただ、上方においては重鎮たちがまだその香りを残している気がする。
上方落語の盛衰と江戸落語へのかかわりをこの本で知っておくことは、落語をこれから楽しむためには大変有効なのでお勧めしておきます。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「単純な面白さ」を「楽しむ」まで昇華させますように。
May
米朝が亡くなって3年。弟子の枝雀はそれより16年も前に亡くなった。師匠と全く違ったタイプの落語家であったがそれはまた別の機会に。