私は初老男である。
12月の下旬である。
雪が降ってきたのである。
例年に比べれば、遅いし量も少ない。しかも、雪が湿っている。
とりあえず「今年は暖冬」という予想は当たっているのかもしれない。
しかし、この冬の長期天気予報ほど「当たらないモノもない」のである。
まあ、観光収益とかも考えて「豪雪」にならないことだけを願う。
どれくらい前だろう?
教育テレビ(今はEテレか?)の日曜日の夜に奇妙な舞踊を見た。
舞台の中央に丸く大きな赤いテーブルが置いてあり、その上でに上半身裸で黒いタイツをはいた女性がゆったりと踊っている。
曲は「ボレロ」
彫像でもこれほどシャープにならないだろう、というその身体が「舞踏を極めた者だけが持つ」ということに気が付いたのはずいぶん後になってからだ。
やはり、人類には共通する精神的文化というものは存在するのだ。
初めて見たというのに、その踊りに鳥肌が立ってしまって眼が離せない。
それが彼女だった。
そうシルヴィ・ギエムその人。
ということで、見てきたのである。
彼女が今世界ツアーで引退するという。
そもそも、この「ボレロ」という曲に強烈な興味を持っている。
それはまだクラシック音楽に興味を持っていない頃、アイスダンスの名ペア、トービル・ディーン組の演技を見て感動してからだ。
今のところ「ボレロ」のCDは、20数枚ほどあるだろうか・・・。
作曲者のラベルのことも、かなり勉強したのだが・・・・それはまた別の話。
私がひねくれ者であることは、自他ともに認めるところであるが、そのひねくれ者の意識の「源」は・・・・。
「心で感じる」
ことだ。
どうしても、どこかに作為を感じる「流行」というものに安易に乗せられるのは、どうにも口惜しい。
ゆえに、ついつい人のあまり見ないようなものの中に「それ」を見つけようとする。
というほど変なものを探しているわけではないけれど・・・。(そこら辺は、過去のブログを読んでもらうとわかるだろう)
人間は生きているうちに、幸運にも巡り会う「人」や「芸術品」がある。
特にそのとき「同時代を生きた人」のことは、それを知っているということだけでは絶対に伝わらない部分があるものだ。
私は長嶋茂雄・王貞治をリアルタイムで知っている。金田正一・張本勲のプレーも見た。
しかし、残念ながら「映像」であって「ライブ」ではない。
でも、今の張本さんからの「想像」ではない。
この差は大きいのだ。
それは今の私くらいの初老男になると、その意味を強く感じるようになる。
シルヴィギエムという女性は「映像」として、残っているものを見ることはこれからもできる。
しかし「生の彼女の踊るボレロ」を見ることは、もうできないのである。
これから私は「シルヴィギエムのファイナルを生で見たことがある」と言うことができるのだ。
それだけで、自分の人生が豊かになったと確実に自覚できるようになった体験であった。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分の人生の豊かさを深めることにためらいを持ちませんように。
May
あの舞台の「凄さ」は、やはり私のような者では伝えることはできないなぁ。
12月の下旬である。
雪が降ってきたのである。
例年に比べれば、遅いし量も少ない。しかも、雪が湿っている。
とりあえず「今年は暖冬」という予想は当たっているのかもしれない。
しかし、この冬の長期天気予報ほど「当たらないモノもない」のである。
まあ、観光収益とかも考えて「豪雪」にならないことだけを願う。
どれくらい前だろう?
教育テレビ(今はEテレか?)の日曜日の夜に奇妙な舞踊を見た。
舞台の中央に丸く大きな赤いテーブルが置いてあり、その上でに上半身裸で黒いタイツをはいた女性がゆったりと踊っている。
曲は「ボレロ」
彫像でもこれほどシャープにならないだろう、というその身体が「舞踏を極めた者だけが持つ」ということに気が付いたのはずいぶん後になってからだ。
やはり、人類には共通する精神的文化というものは存在するのだ。
初めて見たというのに、その踊りに鳥肌が立ってしまって眼が離せない。
それが彼女だった。
そうシルヴィ・ギエムその人。
ということで、見てきたのである。
彼女が今世界ツアーで引退するという。
そもそも、この「ボレロ」という曲に強烈な興味を持っている。
それはまだクラシック音楽に興味を持っていない頃、アイスダンスの名ペア、トービル・ディーン組の演技を見て感動してからだ。
今のところ「ボレロ」のCDは、20数枚ほどあるだろうか・・・。
作曲者のラベルのことも、かなり勉強したのだが・・・・それはまた別の話。
私がひねくれ者であることは、自他ともに認めるところであるが、そのひねくれ者の意識の「源」は・・・・。
「心で感じる」
ことだ。
どうしても、どこかに作為を感じる「流行」というものに安易に乗せられるのは、どうにも口惜しい。
ゆえに、ついつい人のあまり見ないようなものの中に「それ」を見つけようとする。
というほど変なものを探しているわけではないけれど・・・。(そこら辺は、過去のブログを読んでもらうとわかるだろう)
人間は生きているうちに、幸運にも巡り会う「人」や「芸術品」がある。
特にそのとき「同時代を生きた人」のことは、それを知っているということだけでは絶対に伝わらない部分があるものだ。
私は長嶋茂雄・王貞治をリアルタイムで知っている。金田正一・張本勲のプレーも見た。
しかし、残念ながら「映像」であって「ライブ」ではない。
でも、今の張本さんからの「想像」ではない。
この差は大きいのだ。
それは今の私くらいの初老男になると、その意味を強く感じるようになる。
シルヴィギエムという女性は「映像」として、残っているものを見ることはこれからもできる。
しかし「生の彼女の踊るボレロ」を見ることは、もうできないのである。
これから私は「シルヴィギエムのファイナルを生で見たことがある」と言うことができるのだ。
それだけで、自分の人生が豊かになったと確実に自覚できるようになった体験であった。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分の人生の豊かさを深めることにためらいを持ちませんように。
May
あの舞台の「凄さ」は、やはり私のような者では伝えることはできないなぁ。