完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

そんな昔のことじゃなかった気がするけど。(その一)     ~「結婚観」はこれほどに・・・~

2013年09月16日 | テレビ
私は初老男である。


秋が来たと思ったら、いきなりまた「猛暑日」である。


さらに「台風」が近づいている。


秋は好きだが「台風」は大嫌いな初老男である。


・・・ああ、憂鬱だ。




さて、50を過ぎても「テレビっ子」のわたしは、過日パソコンとテレビを両方見ていた。


そして、その時々の意識の強い方に引っ張られシーソーのように、ギッタンバッコンして時間を過ごしていた。


チャンネルを回していると、某国営放送がドラマをやっていた。



      「夫婦善哉」

                である。


主演は尾野真千子と森山未来。


原作は織田作之助。


ずいぶん昔の小説だ。



やっぱり尾野真千子に「大阪の女」をやらせるといいねぇ・・・。


朝の連続テレビ小説「カーネーション」の時の、あまりのハマり具合が忘れられない。「ちゃうんけ!ワレ!」のタンカは素ではないだろうか・・・。(「夫婦善哉」は14日が最終話ですのでお見逃しなく)



私が見たのは「第3話」


主人公の柳吉(森山)と蝶子(尾野)がカフェーを流行らせているが、柳吉は勘当された実家の病気の父と実家に残した娘のことが気になって悶々としている。


蝶子は、そんな柳吉をヤキモキする思いで見ているが「ベタ惚れ」なのは変わらない。


そんなドラマの中で一番印象に残ったのは、蝶子がどうしても柳吉と「夫婦(めおと)」になりたがっていること。


それはそれは「強い願い」として夫婦になりたがっていた。


もちろん大正から昭和にかけての話だから「結婚観」と言うものは、今からは考えられないほど「強烈」なものだったろう。(そんな中でも結構「妾」になるなんてのも、ステータスのように描かれているけど・・・)


「これを逃したら、わてら『夫婦』になれへんのやで!」


蝶子が柳吉に迫るシーンは、鬼気迫っている。


逆に言えば、この当時に「恋愛結婚」というのはかなり珍しいことだったのであろう。


本人同士がよくても、当然「親の許し」が必要(まあ、今もそうか)どころかそれが「絶対」だったのであろう。


だから「見合い」とか「親が見つけた人」と一緒になるのが常識と考えられる。



そうした中では「夫婦善哉」は、画期的な小説だったのではないだろうか。


「柳吉の放蕩ぶり」は、まるで上方落語のようだし、蝶子の「ど根性ぶり」は花登筺の小説のようだ。


昭和大正ロマンの大阪版として、近代日本の小説としての位置は低くない。


この当時の「結婚観」は、私のような初老男にはまだ実感できる。


自分と言うより、自分の親たちがこうした結婚観に近かったからだ。



だが、その結婚観が「激変」したのは私たちの世代だといえる。


今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも幸せな結婚ができますように。



             May



今現在の結婚観の話を続けようと思ったが文字数が多くなりすぎた。次回(その2)に続きます。




蛇足・・・・・「夫婦善哉」の柳吉は森山未来じゃなくて、綾野剛にしたかったんだろうね。ただ、放蕩のイメージにはちょっとまじめすぎるイメージだし、完全に「カーネーション」とかぶっちゃうかなぁ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする