私は中年である。
「稲刈り」が近い。
農家にとっては、一年で最大のイベントである。
昔の大変さから比べれば「遊んでいるような」作業であるが、やはり胸のドキドキ感は
相変わらずである。
農業のことについては、この場でUpしたいことが数多くあるのだが、自分の中で
まだまとまりがついていない。
「怒り」や「焦燥感」「逼塞感」などが入り混じって文章にしても、とても
読めるものにはならないだろう。
本当の「農民」の意識を皆にいつか伝えられればと思っているのだが・・・。
さて、世界柔道連盟の理事選挙に立候補していた山下康裕氏が大差で落選した。
昭和27年に柔道連盟に日本が加入してから、日本人理事が一人もいない状況は
初めてだという。
オリンピック競技で「日本生まれ」の競技種目は「柔道」だけだと思う。
(違った
かしらん?)
◎緊急ブレイク!安倍ゾウリ「投げ出し辞任」
・・・こんな、事をする総理大臣は「開国」以来いなかったでしょうね。
よく、なにかあると「子どもの教育上良くない!」と声高らかに叫ぶ人たちが
いるが、こんな無責任な辞め方は子どもたちに「ああ、責任のある地位にいても
投げ出してやめちゃっていいんだ・・・」って思わせてしまうじゃん!
と言うことで、このことについてはみんなが忘れた頃にUpします。
柔道の話である。
結局、日本の格闘技「柔道」はオリンピック競技になり国際的に広がっていった
ことによってスポーツ「JUDO」に変化していったのではないだろうか。
朝小龍包の時にも話の時にもUpしたが、日本人は格闘技・スポーツに対する
精神的な部分を重視する。
ゆえに単純に「スポーツ」でなく「○○道」的なものに昇華させることで
成長させてきた。
アマチュアスポーツの究極的な発展のさせ方である。
しかし、それも時が流れ時代が変わりスポーツに限らず剣玉やヨーヨーのような
ものでも「プロ」が出現する時代である。
高校野球をはじめ、そうした物に「根性・根性」といって精神的な部分ばかりを
突き詰めて競技にあたる姿が薄れつつある。
「柔道」は格闘技・武道としての「殺気」や「精神的昇華」を国際化する
過程で失くしてしまい、単純に「ポイントを取るスポーツ」に変化させて
しまった。
おりしも世界柔道選手権の開催真っ只中でこのことが証明されるように
日本選手(特に男子)の低迷が次々と伝わってくる。
本当の「柔道」を残したいのであれば鎖国的・「相撲」的な競技として
国際柔道連盟を脱退するくらいの覚悟がなければダメだろう。
空手の世界に様々な流派があり、それぞれ「共存」していることが是か非かは
べつとして、その精神的な「道」を残すことは出来ている気がする。
奇しくも日本の「ヘッドコーチ」斉藤仁氏が「こんなの柔道じゃねぇ」って
発言したらしいが、この言葉が象徴している。
ヘッドコーチ(この呼び方からしてスポーツっぽい)自身が「JUDO」に
なったことを自覚していないのだ。「一本」を狙ってその技の崩れ方によって
「技有」や「有効」になっていくのではない事を。
まず「KOUKA」を取りに行き、そのまま逃げ切りに行く。逆に取られたら「YUKOU」を狙いに行く。そして「死に体」であろうがなんであろうが、
最後に背中を畳につけた方が「勝ち」と言うスポーツである「JUDO」に
なったことを「監督」が気がつき、そうした戦い方をしない限り日本に
本当の「JUDO」は根付かないだろう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、日本古来の「武道」と「スポーツ」の違いをしっかり
見極めますように。
may
・・・でも「柔道」って嘉納治五郎って人が「柔術」(ブラジルで盛んで「武道」
って言うより人を戦闘不能に陥れる本当の「格闘技」なんだろう)を、一般的に
アレンジして「スポーツ」っぽくしたものなんだよねぇ・・・。
「稲刈り」が近い。
農家にとっては、一年で最大のイベントである。
昔の大変さから比べれば「遊んでいるような」作業であるが、やはり胸のドキドキ感は
相変わらずである。
農業のことについては、この場でUpしたいことが数多くあるのだが、自分の中で
まだまとまりがついていない。
「怒り」や「焦燥感」「逼塞感」などが入り混じって文章にしても、とても
読めるものにはならないだろう。
本当の「農民」の意識を皆にいつか伝えられればと思っているのだが・・・。
さて、世界柔道連盟の理事選挙に立候補していた山下康裕氏が大差で落選した。
昭和27年に柔道連盟に日本が加入してから、日本人理事が一人もいない状況は
初めてだという。
オリンピック競技で「日本生まれ」の競技種目は「柔道」だけだと思う。
(違った
かしらん?)
◎緊急ブレイク!安倍ゾウリ「投げ出し辞任」
・・・こんな、事をする総理大臣は「開国」以来いなかったでしょうね。
よく、なにかあると「子どもの教育上良くない!」と声高らかに叫ぶ人たちが
いるが、こんな無責任な辞め方は子どもたちに「ああ、責任のある地位にいても
投げ出してやめちゃっていいんだ・・・」って思わせてしまうじゃん!
と言うことで、このことについてはみんなが忘れた頃にUpします。
柔道の話である。
結局、日本の格闘技「柔道」はオリンピック競技になり国際的に広がっていった
ことによってスポーツ「JUDO」に変化していったのではないだろうか。
朝小龍包の時にも話の時にもUpしたが、日本人は格闘技・スポーツに対する
精神的な部分を重視する。
ゆえに単純に「スポーツ」でなく「○○道」的なものに昇華させることで
成長させてきた。
アマチュアスポーツの究極的な発展のさせ方である。
しかし、それも時が流れ時代が変わりスポーツに限らず剣玉やヨーヨーのような
ものでも「プロ」が出現する時代である。
高校野球をはじめ、そうした物に「根性・根性」といって精神的な部分ばかりを
突き詰めて競技にあたる姿が薄れつつある。
「柔道」は格闘技・武道としての「殺気」や「精神的昇華」を国際化する
過程で失くしてしまい、単純に「ポイントを取るスポーツ」に変化させて
しまった。
おりしも世界柔道選手権の開催真っ只中でこのことが証明されるように
日本選手(特に男子)の低迷が次々と伝わってくる。
本当の「柔道」を残したいのであれば鎖国的・「相撲」的な競技として
国際柔道連盟を脱退するくらいの覚悟がなければダメだろう。
空手の世界に様々な流派があり、それぞれ「共存」していることが是か非かは
べつとして、その精神的な「道」を残すことは出来ている気がする。
奇しくも日本の「ヘッドコーチ」斉藤仁氏が「こんなの柔道じゃねぇ」って
発言したらしいが、この言葉が象徴している。
ヘッドコーチ(この呼び方からしてスポーツっぽい)自身が「JUDO」に
なったことを自覚していないのだ。「一本」を狙ってその技の崩れ方によって
「技有」や「有効」になっていくのではない事を。
まず「KOUKA」を取りに行き、そのまま逃げ切りに行く。逆に取られたら「YUKOU」を狙いに行く。そして「死に体」であろうがなんであろうが、
最後に背中を畳につけた方が「勝ち」と言うスポーツである「JUDO」に
なったことを「監督」が気がつき、そうした戦い方をしない限り日本に
本当の「JUDO」は根付かないだろう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、日本古来の「武道」と「スポーツ」の違いをしっかり
見極めますように。
may
・・・でも「柔道」って嘉納治五郎って人が「柔術」(ブラジルで盛んで「武道」
って言うより人を戦闘不能に陥れる本当の「格闘技」なんだろう)を、一般的に
アレンジして「スポーツ」っぽくしたものなんだよねぇ・・・。