雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の回族・サイード・シャムスッディーン7

2013-05-31 14:17:19 | Weblog
写真は、雲南省中南部の文山州の山奥で見かけた平船。(2004年撮影。)水に潜り込みそうなほど、平たい。雲南では働き者は女性なせいか、地元の女性たちがこれらの船を長い竿で漕いでよく荷物を運んでいた。また近くの急峻な川にはこれらの船を真横に並べて上に板を渡した浮き橋も見かけた。本文に出てくる28漕の船というのは、もしかすると橋げたになっていた船だったのかもしれない。

【四川での一戦でも】
 このような知恵者でしたが、クビライが見込んで雲南に派遣しただけあって、それ以前でも、芝居にでもしたくなるような見事な治め方をしているのでご紹介しましょう。

 雲南に来る4年前の1270年(至元7年)、陝西・四川等行中書省平章政事として南宋(北宋を女真族に奪われたあと、いわゆる漢人が現在の杭州を首都に再興した政権。)と交えた四川での一戦でのこと。
(1271年に元王朝がクビライによって打ち立てられる、その直前の戦い。ちなみにモンゴル軍が南宋を事実上、倒すのは1276年。)

 宋側は強兵で守りを固めましたが、サイジャチ(=サイード・シャムスッディーンの名称)は塁を築いてむやみに戦闘を仕掛けず、誠意を持って宋の将軍が投降するのを待ちました。けっして侵略しない様子に宋の将軍・万寿はすっかり心服します。やがてサイジャチは召還されることになり、戦場を離れることになりました。

 そこで万寿将軍はサイジャチに会ってよしみを通じたいと酒席に招待しました。サイジャチ軍下のものは罠ではないかと難色をしめしましたが、サイジャチは疑うことなく出かけていきます。

 さて酒が出されますと、また配下のものは「お飲みになってはいけません」と必死で止めました。

 サイジャチは笑って
「おまえ達はなんと小者なのだ。将軍が私に毒を盛られるというなら、飲み干せばよいではないか!」
 と言い放ったので、万寿はすっかり嘆服したのでした。

 翌年、大軍が襄陽(長江の支流の漢水のほとり。三国時代より交通の要衝地として重要な戦場となった)を囲んだ時にはサイジャチは兵を率いて水陸両方で進軍し、宋将2人を捕らえると、筏で激流を下り、浮き橋を断ち、28艘の船を獲得するという戦果を挙げました。

 さらに(サイジャチが長となっている役所の)行省事に命じて、彼らに食糧を独自の判断で振る舞ったのでした。(『元史』巻125列伝12サイジャチ伝より)

 このように人心掌握術ばかりでなく、いざというときの戦術にも長け、胆力もなみなみならぬものがあったのです。                    (つづく)
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雲南の回族・サイード・シャムスッディーン6

2013-05-26 10:07:26 | Weblog
写真は紅河ハニ族イ族自治州を流れる甸渓河付近。このあたりを流れる河は、文字通り「紅い」。中国の名物煙草「紅河」もこの州で作られる。また、民族を「デン」「バン」と呼んでいたせいか、多くの地名が長い年月の間に、居住してきた漢族好みに改変される中、河の名前にその名残がある。(2004年10月撮影)

【自軍の兵を処罰する】
また雲南の羅盤甸
(現在の元江付近に住むイ族の人々、の説が有力。元江は昆明より南に120㎞ほど南下した紅河州にある。)
 が叛乱をおこしたため、鎮圧に元軍が向かったときのこと。サイジャチの憂い顔に使者が問うと
「私は出征を否定しているのでない。おまえ達がむやみに乱暴を働いて、無辜の民まで殺すのを憂うのだ。平民のものを強奪したり、捕虜にしたり、慰みものにしたりしてはいけない。民が叛乱を起こしたら、ただ征圧のみ行えばよいのだ。」といいました。

 羅盤城に着いてから3日、膠着状態が続きました。しびれを切らした諸将が攻城の許可を願い出ましたが、サイジャチは許可せず、使者を送って理で諭すことにしました。

 羅盤城主は「謹んで命を奉じましょう」と、使者に投降の意志を伝えたものの、その後3日経っても、まったく降参する様子がありませんでした。そのためモンゴルの諸将は、今度こそ進軍しようとしましたが、サイジャチはまたも許可しません。がまんできなくなった将軍と兵達が城攻めをはじめたところ、サイジャチは大いに怒り、進軍を鐘の音を止めさせ、叱責しました。

「天子は私に雲南を鎮めよ、と命じたのであって殺戮を命じられたのではない。私は好きなように攻めよとは命じていない。よって軍法に照らして処罰する」
 といって、左右のものに命じて将軍らを捕縛しました。将軍らは首を切られ、またサイジャチは城下で開城するのをひたすら待ったのでした。

 羅盤城主はそのことを聞いて、
「平章(サイジャチの肩書き)は、じつに立派な心の持ち主のようだ。命を拒み続けることは、かえって不吉なことのようだな。」といい、国を挙げて投降したのでした。その時もサイジャチは羅盤の将卒もわけもなく誅殺することはありませんでした。

 このことを聞いた西南の諸民族は、いろいろと納得するところがありました。酋長らがサイジャチのところにやってくると、献納するものがあれば、官を授け、貧民には給付を出し、私するところがまったくありませんでした。酒食で酋長をねぎらい、服から靴まで授け、粗末な服や草履を履き替えさせますので、酋長たちは皆感激いたしました。(24史『元史』巻125/サイジャチ伝より)


 侵略の時代にあって、サイジャチはこのように、兵力を重視するのではなく、あくまで理で諭すことに重きを置いたのでした。

(つづく)

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雲南の回族・サイード・シャムスディーン5

2013-05-19 10:50:48 | Weblog
写真は、馬の背に載せる背負子。左右均等の重さになるように割られた塩が付けられている。雲南の北部の山奥では塩水がわき出る泉があり、それを中華鍋のような形の釜で煮詰め、乾かして、馬の背で遠路まで搬送した。最盛期は明・清期だったという。(2004年、黒井にて)

【フビライからの厚き信頼】
 サイジャチは前回のようにモンゴル帝国姻戚の雲南王の心を溶かしたばかりでなく、元の最高権力者・フビライからも厚く信頼を寄せられていました。

 ご存じのように難局の雲南に彼はフビライ直々の命で派遣されたわけですが、なにせ中央との距離の遠さから、
「サイジャチが雲南でよからぬことをしている」
 との讒言をフビライに言いつのって、サイジャチを失脚させようとする動きがずいぶんありました。

 そのときフビライはきっぱりと
「サイジャチがもっとも国のために働いているのだ。そのことを私が一番よく、知っている。彼を誣告するおまえたちこそ何者ぞ!」
 と言い切ってしまうほど信頼していたのでした。

【周辺諸国の王からの信頼も勝ち取る】
 次に雲南から東南アジア諸国との外交をみてみましょう。(同じく『元史』サイジャチ伝より)

 コーチシナ(ベトナム北部。余談だがフランス統治下ではベトナム南部を指す用語に転用された。)で叛乱が起こり、湖広省(元の時代に湖北・湖南から広東・広西までの一帯をさした)のモンゴル兵が、しばしば派兵されましたが反乱を鎮めることができませんでした。そこで雲南を治めていたサイジャチがコーチシナに使者を派遣し、ものの道理を諭し、さらに義兄弟の盟約を交わすことにしました。

 コーチシナ王は大いに喜んで、自ら雲南にやってきますと、サイジャチは(城の外の)郊外まで迎えに行き、待ち受けて賓礼を行うという最高の礼の形を示したのです。ついにコーチシナ王が願い出て永遠に属国となったのでした。
                     (つづく)
*中国では「礼」の形については、それこそ5000年の歴史があります。細かい等級に分かれ、動作のあり方、食べ物の種類、配置など全部、決まっているのです。城の外まで最高権力者みずからが出迎える、というのは本当に異例中の異例。
 いま、小泉政権から北朝鮮問題に取り組んでいた飯島氏への出迎えについて、ニュースに流れていますが、どの時にだれが応対して、座る位置はどうだったか、食事はどうだったかなど、詳細に検討する必要が、北朝鮮の外交についてはあるようですが、これも中国の伝統「礼」のあり方の踏襲なのです。


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雲南の回族・サイード・シャムスッディーン4

2013-05-11 20:58:59 | Weblog
耳にエサの入った大袋をひっかけ、エサをはむ馬たち。四川に近い雲南の黒井にて。観光用の馬たちは小刻みな休憩時間になると、馬主に耳にずだ袋を引っかけてもらい、おとなしく食べていた。木炭を運ぶ馬たちも、同じ方法で食べていた。日本にない風習ではないだろうか?(2004年撮影。)

【メンツを立てる外交法】
翌日、サイジャチが昨夜の感謝の礼に訪れ、次のように話しました。

『お二方は宗王の臣下とおっしゃいましても、いまだに名爵はなく、国事を審議する立場でもございますまい。私はあなたがたに行省断事官(事務次官なみの職)を授けたいと思いますが、まだ宗王にお目にかかってもいないのですから、勝手に授けるわけにもまいりません。』

 そこで使者のうちの一人が還って宗王に相談したところ、宗王は大いによろこびました。これより政令をひとたび聞けば、サイジャチはただちに行うことができるようになりました。」(元史より)

 この、へりくだって相手を立てる礼法は、猜疑心の塊だった宗王の心を溶かしましたが、じつはその後も同様の方法で雲南の異民族を懐柔していくのです。

 ちなみに中国の政治では、ご存じのようにこのように相手のメンツを立てて物事を円滑に進める方法は、今でも、とても有効です。日本では、今まであまり重視されていませんが、周りとの交流が希薄になった今こそ、また外交が難しい局面を迎えている今こそ、日本でももっと日常に取り入れるべきかもしれません。    (つづく)
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閑話休題・道路の渡り方

2013-05-06 10:55:24 | Weblog

写真上は雲南の小都市。石屏郊外の道路。これだけ車が少なければ、信号機なしのロータリーがぴったり。(2007年撮影)
写真下は昆明中心部の道路工事の様子。道行く人はどのような道路になるのか、できあがるまでわからない。作業をする人もほとんどどうなるかわからぬまま、その日の作業をもくもくとこなしているよう。

【赤信号無視の歩行者の実態】
 先日、北京で赤信号を無視して道路を渡る人に10元(約160円)の罰金を科す、とのニュースを報道していました。そして赤信号を堂々と渡る人々が映されていました。
 この映像に日本のキャスターはたいへん驚いていましたが、中国に行ったことがある人なら、当たり前の光景すぎて、むしろ驚くキャスターに驚いたのではないでしょうか?

 そもそも赤信号は人にとって危険、青信号なら安全、などという単純なくくりでは行動できないのが中国の道路です。私の経験では信号の色に関係なく誰かがタイミングを見計らって動き出したら、一緒にその集団と渡る方が安全なのです。

 中国の6車線などの大道路を青信号で渡ってみればすぐに分かるのですが、
①青信号になってすぐに渡り始めたとしても、道路の途中ですぐに赤になる。
②むしろ青信号の方が危険な道路がある。なんと青になったとたんに横断歩道に車がつっこみはじめる。
 ということはざらにあります。
なぜ、そのような問題が起きるのでしょう。

 まず①については、道路が拡張したにもかかわらず、信号機が従来通りで大道路向けになっていないため、普通の歩き方では青信号のうちに道路を渡ることができない。そのため、普通の方法では人は途中で道路に取り残されてしまう。

 ②は、どんな道路なのか、と首をかしげる人もいるでしょう。場所は普通の交差点なのですが、大道路の場合、車は赤信号の時に全車ストップするのではなく、場所によっては右折なら可とされる交差点もあるのです(中国では車は右側通行)。そのため人が歩いていようと車は横断歩道につっこんでくるのです。人は、その間をすり抜けざるをえません。日本ならこの場合、人だけが通行可の時間、次に車線によっては通行可、次に全面的に車が可の時間と3パターンに分けるはずですが、それがごちゃごちゃなのです。

 大道路はここ20年ほどの間に建造されたものが多く、さまざまな方式の道路が一つの街に共存していることがあります。それぞれに規則が違い、旅行者どころか地元の人も多いに混乱することが多いようです。
 たとえば以前は信号機方式だったところが、工事が終わってみたら、人は地下道、道路は立体交差で、道を渡るだけでも遠くなってしまったことも。

 またたとえば、十字路や五差路などの交差点が巨大なロータリーで、車は信号機なしでぐるりと一方向に回って曲がりたい道路に出る方式になっているところが結構あります。日本でも大震災後に停電のために道路が混乱したことから、信号機を使わないこの方式を都市計画に取り入れようという動きが出ています。この方式だと、人が通る時間や空間を別に確保する必要があるのですが(たとえば陸橋をかける、地下道をつくるなど)、ただロータリーの先に普通に信号機を付けるだけで人への配慮がまったくないのが問題なのです。そのため人が青信号で渡っているというのに、車がロータリーをぐるぐる回ってつっこんできてしまうのです。

 要は、信号機の意味を設置者が理解して、誰もが歩行者優先を徹底すればいいのですが、どうもそれができていないのです。そこで罰金で規制しよう、というわけなのですが、歩行者にのみペナルティーを科しても、どうにもならない問題なのは、上記から明らかでしょう。

 ちなみに北京に先立つこと2月前の3月1日より、浙江省全土で同様の交通法規が実施され、20日間の間に8千人以上の罰金者を摘発したそうです。最初に赤信号を渡ろうとした人に限定して罰金を徴収したとのことですが、当然ながら、歩行者からは「理不尽、不公平だ」と不平たらたら。それなのに北京にも広まるということですから、なにかしらの成果を上層部が感じ取ったに違いありません。上層部は車しか乗らない人なのかしら、と悩んでしまいます。
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