雲南、見たり聞いたり感じたり

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スペインとポルトガル36 エヴォラの見どころ2 エヴォラ大学

2021-12-23 16:56:18 | Weblog
エヴォラ大学のアズレージョの教室の入口にて。人物が等身大でつい、見つめあう写真なども撮りたくなってしまうほど。

【エヴォラ大学】
 この大学は16世紀にイエズス会の神学校としてエヴォラに開かれ、遠くから有名な学識者が学びに訪れ、また先生として招かれていた、この地方の文化の中心でした。ところがイエズス会が18世紀にポルトガルから追放され、閉校に。200年の時を経て1979年にふたたび、エヴォラ大学の校舎の一部として開校され今に至っています。
 観光客は授業中の大学の中を勉学の邪魔にならないように見学することとなります。

 校舎は石造りのため、寒いのですが、広々のした中庭が美しく、光に満ちていて、外は暖かい。

 空き教室に入ってみると、息をのむようなアズレージョ! 白地に青の美しい模様が描かれたポルトガル独特のタイルが様々な世界を見せてくれます。
等身大の勉学する貴族風スタイルの人や、牧歌的な農村風景、航海の風景など、部屋ごとに特色を設けて描かれているのです。
わかりやすいところでは養蜂、

稲刈り、

牛飼い


といったまるで農産の教科書のような部屋や
大陸ごと(絵の中心の上のほうにラテン語で
「AFRICA」

「ASIA」

などと書かれている)

 または大地や水といったものが人の姿のようになって立ち現れた神話のような世界、かと思えば、
航海に漕ぎ出す船を送る人々の様子もあります。

食事の部屋だったのか、やたらと美しい壺の絵が規則的に描かれている部屋など、何に使っていたのかと想像が膨らみます。
 このように室内にはイキイキとした図柄が壁の腰板部分4面すべてに描かれていて、それが25室もあるのです。「狩猟図」「一年各月の図」「アエネーイスの図」(古代ローマ の 詩人 ウェルギリウス ( 前70年 – 前19年 )の 叙事詩 )、「地理学の図」「エジプトの図」など部屋ごとに主題があって、じっくり見ていると、一日かかりそうなほど。
 300年の時を経ているとは思えないほど、タイルに光沢があり、保存も良好です。ただ、電気の配線コードなどが這っていたり、と現役感が漂うのは、日本の古寺がいまでも現役で法要に使われるのと同じ感じでしょうか。

 建物は18世紀前半に建てられたものが多いのですが(1759年のイエズス会のポルトガル追放と同時に閉校しているのでそれ以前の建物となる)、この18世紀初頭はポルトガルと植民地としたブラジルではアズレージョの黄金時代で「巨匠の時代」といわれているとか(ウイキペディア「アズレージョ」より)
乗りに乗ったバラエティーの富む作品を見れば、作者は不明でもその作家性に唸ってしまいます。

 ゆったり見学していると、廊下の奥には教授室と書かれた木札がぶら下がった小部屋があり、パソコンを打っている先生の姿が垣間見えたり、大講堂から学生の話し声が響いてきたり、若い学生とすれ違ったり。
 ふと現在と黄金時代の時間が交差しているようで、映画の中にいるような不思議な気持ちになりました。

 一方、我々はというと、エヴォラ散策で夕方の疲れがピークの時に付いたせいか(ここには紹介しませんでしたが、美術館、天正遣欧使節団も立ち寄ったというカテドラル、カタヴァル公爵亭などを回りました。)我々の一行のなかには教室の一角や教室前の木のベンチに座り込んだきり、動かなくなる人も出てきて、いよいよ限界、といった風情を漂わせる人続出。
 彼らはエヴォラに一泊した後、さらに大航海時代の足跡を追いかけて、ポルトガルを南下するのです。大丈夫でしょうか? 
(つづく)

※今年もお読みくださり、ありがとうございます。来週はお正月に当たりますので、更新はお休みします。よいお年をお迎えください。

※昨年、書いておりましたセブ島とボホール島。こちらが12月16日に巨大台風が上陸して、壊滅的な被害をもたらしているようです。
 そもそも当ブログでも書きましたが、公共の概念の著しい欠落のため、国や行政からの復興は相当、難しい社会でした。
 2013年11月4日に大型台風で壊滅的な被害をこうむったレイテ島について、2018年の留学の時にも、ほとんど復興がみられないと激しい口調でフィリピンの先生方がしょっちゅう嘆いていました。そしてその次には必ず「日本ならすぐに復興するのに。」といって自国の悪さを強調していくのでした。
セブのお掃除のおばさんは「セブ島はサントニーニョ様(黒い肌の幼少時のキリスト像)がお守りくださっているから、ここは台風もよけて通るんだよ」と胸をはっていたのに。
 今のところ、私個人は現地の方とも連絡がとれず心配することしかできないのですが、どうかどうか無事でありますように。
 
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スペインとポルトガル35  エヴォラの見どころ1 メメント・モリ

2021-12-19 14:57:19 | Weblog

写真はサン・フランシスコ教会の入口から見える祭壇。豪華できらびやかで大航海時代に世界の覇権を握った時代のポルトガルが吸収したイスラム風、ルネッサンス様式、東洋的装飾などで彩られたマヌエル様式が特徴。

●サン・フランシスコ教会●
16世紀に建てられた街はずれの教会。となりには現役の市場もあります。肉の解体もすれば、墓地もある、という世界中の中世によくある郊外の風景です。入口を入るとマヌエル様式の立派な造りで美しい教会という以外の何物でもない建物なのですが、その脇の礼拝堂「カペラ・ド・ゾス(CAPELA DOS OSSO」のインパクトがすごかった。

 大聖堂よりはるかに光の差し込む明るい場所だなあと、ふと壁を見るとなんだかおかしい。不思議な凹凸があって、ゴツゴツしています。

「人の骨ですね」

とKさん。モチーフのように一体から数体飾られているのではなく、隙間なくびっちり。これだけあると、人間なのかも分からなくなってきます。柱のように見えたところにはなんと頭骸骨が縦に並んでいました!

写真も撮り放題です。ネットにたくさんでているので「人骨堂(CAPELA DOS OSSO)」で調べれば、すぐにわかるでしょう。私は少し、血の気が引きましたが、おどろおどろしい空気は感じませんでした。

 ここはエヴォラにあった42の修道院墓地に、ちゃんと埋葬されていない、つまり墓石などのない人骨が計5000体分あったので、どうしよう、という発想で作られたのだそうです。17世紀当時までの一般庶民の骨です。お堂の入口には、ポルトガル語で
「私たち骨はあなたのものをお待ちしています」
と書かれていました。

 修道士の瞑想の場所だったそうですが、「メメント・、モリ(死を想え)」を直接的に訴えかけすぎていて、なかなかな場所でした。

写真は人骨堂の入口。ポルトガル語で書かれた内容は本文をご覧ください。
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スペインとポルトガル34 エヴォラの歴史

2021-12-12 12:50:19 | Weblog
写真は旧市街の中心にそびえるローマの遺跡。月の女神・ディアナに捧げられたものの推測されていることからディアナ神殿と呼ばれている。夜になるとライトアップされて、神々しさも倍増する。
 この神殿前に現在、ポサーダ(歴史的建造物を改装した宿泊施設)となっているロイオス修道院やロイオス教会があり、広場をはさんだすぐ横にはカテドラルといったように重要な観光施設が並ぶ。

【中世的な街並みを堪能】
エヴォラ旧市街は歴史的建造物の宝庫です。小さな街なので徒歩で苦も無く回れます。

まず、歴史から。

エヴォラは主要都市をつなぐ街道の交差点としてローマ時代から栄えました。2000年の風雨に耐えたローマの遺跡がいまもあちこちに残されています。ローマが衰退すると西ゴート、さらに715年にイスラム系ムーア人の支配下となり、さらに1166年にはキリスト教系のアフォンソ一世(初代ポルトガル王)の支配下に。
 
 ポルトガルのアヴィス王朝(1385-1580)のもとでリスボンに次ぐ第2の都市として栄えました。この時期はポルトガルが海洋帝国として興隆したときに当たります。1584年9月には、はるばる日本から海を渡ってきた天正遣欧使節団がリスボンからこの地を訪れ、大司教の歓待を受けています。
 この使節団を導いたイエズス会士(1534年結成)の重要拠点の一つがエヴォラでした。1559年にこの地にもイエズス会士を養成する神学校を創設。エヴォラ大学として、ポルトガルではコインブラ大学に次いで2番目の歴史を誇る大学になったのです(※)。

 ところが18世紀にイエズス会のポルトガル追放が行われ、この街の栄華は突如、終わりを迎えます。そのまま時計の針は止まり、貴重な遺産がはからずも保存され続け、1986年に世界遺産に登録されたのでした。
 
※ウィキペディア「エヴォラ」の項に「イエズス会の影響のもと、エヴォラ大学が対宗教改革≪カトリック側の宗教改革:筆者注≫の中心となり」と書かれています。当時、イエズス会の一大拠点がエヴォラだったというわけです。実際、コインブラとここで学び、のちに教える側にもなったルイス・デ・モリナなど宗教的に重要な考えをもたらした重要人物を輩出しているようです。

参考文献:エヴォラ世界遺産 - 機関ポータル (cm-evora.pt)、
ブリタニカ国際大百科事典「モリナ、デ・ルイス」
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スペインとポルトガル33 エヴォラで昼食を2

2021-12-05 11:06:12 | Weblog
前回の続きです。

ソパ・ダ・パネーラ(SOPA DA PANELA)

ポルトガル語でパンスープのこと。ここではパンがミントとスープでくたくたに煮られていました。スープの素となった肉にパンがゆをかけていただきます。
さっぱりとしていて、日本では味わえない軽さと複雑さのある味で、するりと食べられました。

アソルド・アレンテジャーナ(ACORDA ALENTEJANA)

アレンテージョ地方の朝食という意味のポルトガル語の通り、エヴォラの朝のおかゆ。塩漬けして保存されたタラを水で戻してゆがいたものにパンのスープをひたしていただきます。上にコリアンダーとバジルを散らし、レモン汁をたらしてあるのですが、それらがタラ独特の臭みをパンが掬い取って昇華していくような。一度食べたら癖になります。


頼んでいないのに当たり前のように出てくるパン(すでにバスケットの半分を食べてしまった!)とオリーブ。

 食事はどれも胃からしっかりとくれる温めてくれるような、汁気たっぷりのやさしい味。Kさんがメンバーの疲れをいやそうとしているのだと感じ、ありがたくいただきました。
 ちゃんと印刷されたメニュー表もあるにはあるのですが、じつは頼んだ上記のメニューは手書きで値段も書いていないものばかり。Kさんが地元の特産と聞くと、反射的に注文するので、まさに好奇心のなせる業だったのです。
 食べながらふと、
「あれ、おかゆばっかりになっちゃったなあ」という一言から、Kさんにとっては意図せざる結果だったのかも。
 いずれのメニューもすごいのは、パンの形をすでになさないたっぷりのパンがゆの横にさらに普通にパンが一口サイズに切り分けられてバスケットに盛られていること。これでなんと一人前。日本人なら2,3人前はあります。そしてかゆは一口ごとに味が複雑に変化するようで飽きの来ないところにポルトガル料理の奥深さを感じるのでした。

メニューに印刷されたものも頼みました↓(7.5ユーロ=約800円)
カルネ・デ・ポルコ・ア・アレンテジャーナ(CARNE DE PORCO A ALENTEJANA)

アサリと豚肉を赤ピーマンのペーストで炒め、コリアンダーとレモン汁を添えたもの。実際に供されるときにはアサリの上にはフライドポテトがたっぷり!
 どうやらポルトガルではメニューに海鮮や肉類のみで記されていても、必ずパンやポテトなどの炭水化物がともに出てくるのがお約束のようです。
 さっぱりしていて食べやすい。
 (次はエヴォラの街めぐりです)
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