雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)8

2018-01-27 10:59:18 | Weblog
写真は雲南省北部・黒井の清朝時代のお屋敷で遊んでいた鶏。顔の黒いのが日本でも高値で取引されているウコッケイ。もう一羽も地鶏だ。街には様々な種類の鶏が歩き回り、それらを使ったスープや煮物があたりまえに食べられている。スープは黄金色で滋味あふれる。当然、宴会にもかかせない料理となっていたことだろう。

【「題詠」文学の隆盛】
その後も徐釚は「楓江漁父圖絵」を見せては有名な文人に詩を寄せてもらい続けます。その数なんと、20年かけて70名以上。家で宴会を開いては、その主が訪問日記に名前と一言メッセージを寄せてもらう、というノートが日本でも売られていますが、同じような正確なのかもしれません。

 記された人数がこれほどまでに詳しくわかる理由は、徐釚が60歳の時に本を出版したためです。『楓江漁父図伝』と『楓江漁父図題詞』というタイトルでした。

 この詞を集め続けた20年の間に、徐釚は念願の科挙に合格して官途に就き、やがて年をとって病気になり、その後左遷され、本を作る生活に入るという変転の人生を送っていました。

 この徐釚の本からは陳維崧のほか数名の詞が選ばれて『瑶華集』に編み込まれています。当然、文人による現政権批判となってしまうのは、世間の空気からもやむをえません。

 文人の宴会と一体となった「題詠」文学には、清朝も疎ましく思う文がこうしてあふれるように生まれていったのでした。

 ところで『瑶華集』の編纂者である蔣景祁は出身地の大先輩・陳維崧の詩を2編、載せました。

 一首がさきに詠まれた背景をご紹介した「題徐電發楓江漁父圖」。
 その次に《咏窩絲糖》が収録されていました。

 江蘇省太湖に浮かぶ西山の窩絲糖は、新しい食品が次々と生まれる商業地とは違って、島のなかになるので、過去の料理法がかろうじて残された、という観点だけではなく、明末清初の激動期に、明朝で漢人として禄を食んでいた人々の過去の栄光の象徴であったことがわかります。

 そして窩絲糖を礼賛することは、今の時代、政権を取る清朝を批判することに直結したのでした。
                        (つづく)

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雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)7

2018-01-21 11:40:31 | Weblog
大理の洱海で串焼きを炭火する女性。
透明な丸い玉は手に持つ機械は炭火に空気を送る手巻き式ふいご。日本ならうちわであおぐところだが、
一定の風力が保てるため火の粉が飛ばないところが便利。

【「題詠」文学サロンにて】
陳維崧の詞を寄せた絵画の持ち主・徐電發について。電發は字(あざな)つまり普段の呼び名。本名は徐釚。1636年、江蘇省蘇州の生まれの文人、蔵書家です。

歴史の転換期に幼少期を過ごしました。

1644年にやや富裕な農民の家に生まれた李自成が北京に入城して明が滅び、明を助ける名目で満州族の清が中国に入り、助けるどころかあっという間に北京を首都と定め、翌年には南京も陥落した頃。徐釚は科挙の試験を受けるべく、勉学にいそしみます。

康煕14年(1675年)、彼が40歳の時に官途につくべく、都入り。その際、徐釚の地元で有名な銭塘出身の画家謝彬の描いた山水画「楓江漁父図」を携えて上京しました。

4年後に当時、流行していた酒の席などで絵を見て、詩詞の応酬をし、その詩詞に「題」を付ける「題詠」の会を催します。これは

「晩明以降、「題詠」によって一つの書画に自伝、詩、詞、曲、文など様々な往復対話をする文化、ときにはけんかがあった。それは文人の交流、インターネットのない時代の人々の真情をあらわす隠れ蓑になった」というもの。
(毛文芳「一則文化扮裝之謎:清初〈楓江漁父圖〉題詠研究」『清華学報』 新 第36卷 卷 第 2 期 2006年12月十二月 p465~521)

時代の憂さをはらす酒席です。さまざまな詞が集まったことでしょう。
(つづく)

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雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)6

2018-01-13 14:50:57 | Weblog
雲南のシルクキャンディー4の写真の食べ物を作っている様子。(おそらく)小麦粉を平たい台に打って、台にへばりつかないようにして、よくねばる皮(おそらくもち米を蒸したもの)に、自家製の味噌やネギなどを練り込んだ「醤(ジャン)と挽き肉を詰め、平たい餅に仕上げていく。
似たような餅は昆明でもたくさん見たが、粘った餅を見るのははじめてだった。

【ともに載る詞】

「詠窩絲糖」は「摸魚兒」(『瑶華集』19-1)に収められた詩です。

「摸魚兒」は、一つの詞、韻などの規則の形式の一つ。いわばメロディーです。
「摸魚兒」の章には40首が収められています。
その中に陳維崧が詠んだ「題徐電發楓江漁父圖」と題する詩に寄り添うように「詠窩絲糖」が載っています。

まず、「題徐電發楓江漁父圖」の詩を見てみましょう。

題徐電發楓江漁父圖 陳維崧

問何人、生綃滑笏,皴來寂歷如許。
孤篷幾扇西風底,滴盡五湖疏雨。
垂弱縷。儘水蔓江葓、信意牽他住。
寄聲魴〓。總來固欣然,去還可喜,知我者鷗鷺。
行藏事,不是如今纔悟。浮名休再相誤。
人間多少金貂客,輸卻綠簑漁父。
誰喚渡。早萬木酣霜、紅到消魂處。
湛湛楓樹。又遙襯蘆花,搖晴織暝,鬧了半汀絮。

漁父が釣り糸を垂れている様子、寂しい風情が浮かんできます。

徐電発の楓江漁父図を題する、とは不思議な詞の題名です。これには当時の風習が深く絡んでいるのです。
(つづく)

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雲南のシルクキャンディ-・絲窩糖(スーウオータン)5

2018-01-08 12:04:39 | Weblog
写真は菜の花畑がどこまでも広がる黒井のハチ箱。ここのハチミツは特産品となっている。寒いと固まり、味は濃厚。草花の種類によっては、独特の芳香がある。

【禁書の詩】

 窩絲糖のもととなる食べ物を読み込んだ『楚辞』の性格が後に続く詩に大きく影響を与えているので、少し詳しく紹介しましょう。

 まず『楚辞』を作った屈原について。彼は、紀元前の春秋戦国時代の政治家、詩人です。国の滅亡を防ごうと政治に異を唱えた政治家で、それが受け入れられず、ついには入水自殺をした反骨の生き様は詩とともに非常に愛され、今でも各地で屈原関連のお祭りが執り行われています。

 日本でいうとさしずめ、天満神となった平安時代の政治家で文人の菅原道真のような存在です(今週末は大学センター試験です。受験生頑張って!)

 屈原がどのような食べ物を指して書いたか実際のところはわかりません。でも、後漢の宜城(湖北省)の出身の王逸が生きていた頃には、このようなお菓子が存在したことは確かといえます。

 しかも王逸は『楚辞』の基本的な解釈を行った最初の人といわれています。ですから、その後の文人は、「窩絲糖」というお菓子に『楚辞』を重ね、なんらかの思いを込めていたことは想像にかたくないでしょう。その思いはずばり、現政権への絶望感、となるはずですね。


 次に、「窩絲糖」の詞が掲載されている『瑶華集』について。江蘇(こうそ)省宜興出身の蔣景祁が、康煕25(1687)年に当時の優れた詩を集め、編纂したものです。ただ、乾隆6(1741)年、清の乾隆帝の勅命で作られた『四庫全書』(36000冊、230万ページ、10億字の大編纂事業でした。)には収められず、それどころか禁燬本とされ、世に出回ることを制限されてしまいました。

 というのも清朝は満州族の国なので、今まで支配層にいた漢族による満州族への批判の書を徹底的に弾圧したのです。つまり『瑶華集』はまさに清朝を批判する書、と見なされたわけです。

 つまり現政治を批判する詩『楚辞』と立場が同じ詩集ということになります。

(つづく)

※新しい年となりました。今年もよろしくお願いします。
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