雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南のこんにゃく⑧

2012-04-22 17:50:07 | Weblog

写真は、雲南の北西部・麗江市よりさらに北西に100キロ移動した山間の街・維西市ロパ村にて。個人宅での蘭栽培もさかんで、街の名士の元校長先生のお宅には蘭の鉢がずらり(写真上)。また同村の宿泊施設の壁には蘭販売業者の看板がかかっていた(写真下)。蘭の栽培とこんにゃくの栽培は温度を暖かめに保つなどの管理さえ間違えなければ、きわめて似た環境で育てることができる。

【こんにゃく芋・ブランド化プロジェクト】
 さて、雲南の北東に位置する富源研究所も加わった調査によると、雲南と東南アジアにはコンニャク属の植物は70種以上あるそうだ。世界全体で163あるコンニャク属のうち約43%がこの地域に生えていることになる。

雲南では20種が自生し、その半数の11種は南部にあり、うち5種が原始の形を留めていることから雲南省南部も起源地の一つ、と目されている。

ちなみに日本こんにゃく協会によると、東南アジアのものは、こんにゃくマンナンという食物繊維が入っていないため、石灰などを入れても固まらない。現在、東南アジアで生産されているこんにゃくは日本向けに純粋に生産されたもの、とのことだ。 
         
話を雲南に戻そう。

こんにゃく研究所まで設置されている富源県。ここで2008年には、地名を入れた「富源魔芋」を商標登録し、全国でも有数のこんにゃく生産量を誇る県としてアピールに懸命だ。
 ただ、努力ほどには、雲南省でも知られていないのは、いくら雲南でも食べられているとはいえ、日本が世界の消費量の95%以上占めている実績から考えると、日本ほどには食べられてはいないことと、たとえ食べたとしても、それが料理の主役にも、味の決め手にもならない陰の薄い脇役だからだろう。

 そこで、このコンニャクに少しでも注目してもらおうと雲南に先立つこと3年前の1997年に四川省の四川大学、西南農業大学園芸園林学院が中心となって中国園芸学会魔芋協会が設立された。まさに、中国西南地域が一丸となって、まさに「コンニャク注目プロジェクト」を展開しているのだ。

 その成果も出始めて、少しずつ中国でも知られるようになってきた。

プロジェクトの内容は、
「コンニャクを植物学的に研究し、活用する。」
「生活習慣病の予防効果を持つ食品として、宣伝し、食品として活用する。」こと。

 最初の植物学的な研究は、雲南の園芸博覧会でも紹介したように鑑賞植物として育むなど、日本とは異なる方向で動いている。

次の「食品として活用する」の第一歩は、伝統食としても人気の日本のメニューを研究し、料理法を日本から輸入しようと様々な研究会を立ち上げている。さらに中国料理に取りこもうと、四川料理の名コックに依頼して作り上げた新たなこんにゃく料理本まで登場した。
(この不思議なこんにゃくレシピについては次回に。)

*来週は、更新をお休みされていただくかもしれません。それでは、よいゴールデンウイーク(黄金週を。)

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雲南のこんにゃく⑦

2012-04-15 13:53:33 | Weblog

写真は雲南省中南部の広南奥地の村にて。村で現役で活躍する石臼。この村でもこんにゃくと野菜の炒め物が供された。この石臼でひいて作ったこんにゃくだったかもしれない。(2004年撮影) 

【中国も注目するこんにゃくと日本の政治】
 雲南省は原産地とはいえ、2000年まで中国では地元の人以外は食用としてほとんど食べられることのなかったこんにゃく。

 それにはわけがあった。

 こんにゃく芋はそのままではすぐに腐ってしまい、保存が効かないのだ。

 つまり、本来ならば収穫の時期しか食べられない食品な上に、
①芋を育てるのに3年もかかるは(その間、その畑で他の作物は作れない)、
②今は品種改良が進んだとはいえ、かつては葉が傷つくだけでも腐るほどデリケートで育てにくいは、
③たとえ無事に収穫できても、今度はこんにゃくを作る手間もけっこうかかるは(それをしないとえぐみが強くて食べにくすぎる)、
④さらにほとんどが水分という重さなので運搬にも手間がかかるは、
 という、生産してもお金にならない作物だったのだ。

 このどうにもならない「はずの」作物を経済作物へと変えたのが、日本だった。

 『まんが日本の歴史』(大月書店)を見ると、江戸時代に水戸藩(茨城県)の中島藤右衛門が、こんにゃく芋を乾燥して粉にさせる製法を編み出したことから、軽量化(全国展開が可能になる)と保存の長期化ができるようになったという。
 こうして季節ものから、一般庶民の食べ物へと変貌したことで、こんにゃくは、世界の中でも特異な進化を遂げることができたのだ。

 なんと江戸時代が崩壊する引き金となった大老・井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」も「こんにゃく」が重要な役割を果たしたという。常陸国久慈郡袋田村(ひたちのくにくじぐんふくろだむら)のこんにゃく農家・桜岡家ほかこんにゃく会所の人々はこんにゃく芋をスライスして干して、これを豊富な川の水を使って何台もの水車でひいて粉にしたものを江戸や大阪に売って豪商となっていた。そのお金が、水戸浪士の運動資金に寄付されていたのだ。

 そして現在。日本のこんにゃく芋の9割を生産する群馬県。この県から総理が5人誕生しているのだが(鈴木貫太郎、福田赳夫、中曽根康弘、福田康夫)、その中の一人・小渕恵三氏の出身地の中之条町を通ったことがある。

 ともかく見渡す限りのこんにゃく畑。地元の人によると、かつて桑畑だったところを、このようにしていったのだとか。
 このこんにゃくを守るべく、小渕氏はみずから自民党こんにゃく対策議員連盟会長をつとめ(現在はその娘の小渕優子が後継懇談会の事務局長を務めている。)、
 結果、農産物価格の自由化でももめにもめたウルグアイラウンドでは、こんにゃくは関税によって守られる側にすべりこんだ。
 関税が始まった1995年には、輸入品(おもに中国)価格が圧倒的に安かったため、関税率は結果的に1706%に相当し、現在は輸入ものも値段が上がってきたため350%相当の関税で国内保護されているそうである。(関税割当制度の計算は少し面倒なので割愛します。)

 こんにゃくは今でも政治のにおいがするらしい。それだけ、米と同じぐらい日本的な食品の証拠なのかもしれない。
(つづく)
*こんにゃく問答。もうしばらくお付き合いください。
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雲南のこんにゃく⑥

2012-04-08 17:09:21 | Weblog
 

写真はモンルンの中国科学院シーサンパンナ熱帯植物園にて。見事な蘭の花は園芸用のものだが(写真上)、野生の蘭が生えるところの下には水脈があるなど、じめっとしている(写真下)。コケのように樹木に寄生して、栄養を吸い取って生えるので、木が弱るのだと、研究員は話していた。

【雲南の東端にこんにゃく研究所】
 さて、中国では、各省や大学単位でそれぞれに有用作物の研究所が設けられているが
(天津の南開大学ではきゅうり研究所、黒竜江省ではお米、といったように)
 雲南では昆明植物研究所や雲南農業大学など数カ所に魔芋研究所が2000年に設けられ、こんにゃくに関する論文を発表し続けている。

 なかでも注目株なのが雲南省農業科学院系列の富源県魔芋研究所だ。

 曲靖市の東方に位置する富源県は、元、明の時代以来、貴州省から雲南へ入る際に必ず通る道の雲南側の第1の関所があった交通の要所だ。雲南と中原を結ぶ西部ルートの主要道上にあり、日本の人類学者・鳥居龍蔵も1902年に貴州省、雲南省の調査に入った際に通っている。
 雲南ハムの産地として知られる宣威市よりつらなる山脈により雲南省と貴州省の境をなす雲貴高原の東端にある。

 この小さな県には国家以下が保護する森林区が18カ所あり、雲南の名花といわれるサザンカ、ツツジ、蘭の花が自生する。深い渓谷があるので、標高の低いところでは亜熱帯気候になるなど、複雑な気象条件となっているだめだ。このような環境なので、当然、こんにゃくも自生し、昔から地元の少数民族が作物として利用していたようだ。

 だが、中国の大多数を占める漢族にこんにゃくを食べる習慣はほとんどなかった。

 風向きが変わったのが2000年。中国や日本のダイエットブームに乗ろうと産業化を開始し、
2004年には3.6万畝(2400ヘクタール=24平方キロメートル)、
2007年には8万5000畝(約5700ヘクタール)
と急カーブに作付面積を増やし、
2008年には10万畝(約6700ヘクタール)、20万トンの収量と2.8億元の収入をもたらすほどの主要経済作物へと成長を遂げた。

 その多くはこんにゃく玉消費・世界一を誇る日本への輸出向けとなっている。(世界の消費量の95%を日本が占めている。そもそもこんにゃくを食べる国は日本、中国、ミャンマー、韓国などアジアの数カ国のみなのだそうだ。1988年度には輸入の大半は韓国からだったが、その後22年間のうちに、輸入こんにゃくの90%以上が中国産となっている。〈財務省「貿易統計」、日本こんにゃく協会〉)         (つづく)

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雲南のこんにゃく⑤

2012-04-01 15:29:45 | Weblog

写真は展覧会に出品されていた結婚式場の飾り花と花嫁衣装に使う花の展示。バイオテクノロジーを駆使した最新の花より、人気が高く、まじまじと見入る人が多かった。この頃、中国では結婚式も派手になっていき、飾り花の需要が見込まれるようになっていた。
 現在では、大卒の若者も就職難で、お金にゆとりもないため、誰もが派手な結婚式をあげる、という風潮ではなくなっている。
 派手なサービスとしては大きな黒塗りの車にハートであしらった花を車の中央や周辺に飾り、結婚式前に花嫁花婿は、景色のよい公園で熱々のポーズの写真をプロのカメラマンに撮ってもらう、当日、盛大に爆竹を鳴らす、飴を配るなどがあった。
 ただし、昆明より離れ、雲南の中規模以下の都市に行くと、花嫁と花婿だけ衣装を身に着け、あとの参列者は拍子抜けするほど、ごく普通の(ちょっとこぎれい程度)の服装。爆竹、飴はあるが、それほど飾りののない食堂で披露宴を挙げる風景がよく見られていた。

【日本企業の昔日】
 じつはこの展覧会のもう一つの目玉は日本だった。国内企業90社、外国企業20社の中で日本の企業が最多で、なかには日本から家族全員で移住して花の苗を雲南で生産して日本に輸出しようとする企業もあった。
(現在、マザーズ上場の株式会社ビューティ花壇。当時、山東半島の青島にも生産拠点を設けて、中国での事業展開を模索していた。ただし、質を一定に保てない現地事情と虫の燻蒸の管理が完璧でない状況などもあり、採算があがらず、現在は撤退。台湾に拠点を移している。すてきなご家族でした!)

 参加企業の中で、もっとも名の通った会社はキリンビール。当時は本業のビール事業の他に、キリンアグリバイオという子会社を設立し、バイオテクノロジーで次々と美しい花の苗を生みだしていた。

 1999年の昆明で開かれた世界園芸博覧会ではサントリーとともに最高賞を受賞。2004年3月には上海を拠点に中国進出を果たし、やがては雲南支社も開設ももくろんで、現地の花の苗を生産して日本に輸出および知的財産保護(品種権)を軸に本格的に活動していたのだ。

 そのキリンが展示していた花は、色の変わったカーネーションだった。「青い色を出すのは難しいのですよ。」と日本語と中国語が堪能なキリンの関係者が丁寧に解説してくれるほどの華やかさだった。

キリンの会社も600種ほどの花の苗を開発し、いきおいもあったのだが、残念ながら2010年3月にはオランダの投資会社に権利を譲渡して種苗事業から完全撤退してしまった。当時の中核技術者は定年退職の時期となり、また本業以外を残す余力はないのだろう。日本の今を感じさせる話である。
(つづく)

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