雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

沐英9

2013-08-31 15:30:38 | Weblog
写真は大理の市場にて(2004年2月撮影)。海抜2052メートルの強い日差しと、標高4122メートルを誇る蒼山から吹き下ろす冷たい風から身を守るため、足先まで隙のない、重ね着服と頭を守る帽子はかかせない。大理の中心民族の白(ぺー)族は頭に藍染めの布をタオルを頭に巻くようにかぶる。中には本当にタオルを3、4折りにたたんで頭に巻いている人も。若者はポリエステルでできた観光用の華やかなピンクの花の刺繍のかぶりものか、野球帽のようなもの、麦わら帽の人が多かった。

【沐英の安定した統治】
 さて、前回にも少し触れたように沐英軍のみの駐屯となってから重要なことは、明の防衛と所有地、食糧の獲得のために屯田に取り組んだことです。このインパクトが現在にまで及ぶ大事業となり、「沐英」の章の冒頭で紹介した「沐英と辺境開発」会議で「沐英に見習え」風のスローガンへと結びついているわけです。

 洪武20年には、5年前に帰順させた大理の60里(36㎞)ごとに1つ、屯田の基地を造るなど屯田開墾は100万畝(580万平方㎞)に及び、また滇池から排水用の水路を引いて、浚渫をし、水害を治めました。さらに塩田の商売を促進し、税や力役を人々に課し、財政を安定させました。政治はおおらかで民衆はたちまち安心した生活を送れるようになったと『明史』では彼の治績をたたえています。上記の治績はすべて雲南掃討戦を継続している中で行われたことが沐英のすごさです。

 沐英の人となりは読書好きでも、文は書かず、知識のある人を呼んで話を聞くのが好きだったとのこと。議論には参加しなかったそうです。若い頃から戦乱に明け暮れていたのですから、勉強に興味があっても知識は実践で身につけるしかなかったことと、養子という身分から謙虚な性格が形成されたのでしょう。それは統治者としての重要な資質だったのです。開拓事業も労働者に混じって、みずから鍬を篩い、語る姿も見られたそうですから。

 沐英が雲南に来て11年目の洪武25年(1392年)、朱元璋の息子で皇太子の朱標が若死にしたため、沐英は大声で嘆き(その10年前に沐英が養子になったときに母親として面倒を見てくれた朱元璋の妻の高皇后が亡くなったときも血を吐くほど嘆いた)、それが元で病気になり、雲南で病死しました。享年48才。後は息子の沐春が引き継ぎました。彼の治世も非常に評判がいい。沐英に従軍して父を支えていた苦労人の一人だったのですから2代目もしっかり者に育ったわけです。

 沐英は長生きとはいえませんが、後の歴史から考えると、このタイミングでの死は幸運でした。なにしろ功臣として南京の太祖廟に祀られたのですから(今でも南京に祀られています)。

 じつは明の朱元璋は、皇太子の朱標が亡くなったために、次の皇太子にまだ頼りない年令の孫を指名せざるを得ず、心理的に追い詰められ大粛正を敢行してしまったのです。世にいう藍玉の獄。自分の一族の安泰を考え、力のある功臣をとにかく難癖をつけて潰しまくるのです。

 沐英と同じ副将の身分で雲南をともに攻めた藍玉の粛正に始まって彼に関係のある人々、当然、雲南攻めで将軍を務めた傅友徳も粛正されます。結果、1万5000とも3万人がこの世から消されました。もし、沐英がその時に生きていたら、粛正は免れなかったのではないでしょうか。そして沐英の子孫が雲南支配を続けることもできなくなったことでしょう。         (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沐英8 ・恐怖の斬首数

2013-08-24 16:53:58 | Weblog
大理の博物館にて。大理国時代の土人形らしいが、詳しい検討はされていない。馬の装飾がゴージャスで、馬を操る人の顔立ちはどことなく日本の相撲界で活躍するモンゴル人力士に似ているような。雲南からチベット高原を経てモンゴル高原に至る道は中原に住む中国人には知られていないが、草原の民には常識的なルートだったので、もとより雲南に草原の民の顔立ちがあっても不思議ではないが。
 しかし、中国の博物館は撮影自由の場所が多くてうれしい。逆に日本の博物館では撮影禁止が多いので中国からの観光客が写真を撮っていたら、常識の違いと心得て、助言をするとよいのでは?

【雲南独立紛争だった?】
 それにしても、明の雲南討伐戦での雲南諸部族の死者数は、どう考えても恐ろしい人数です。
最初は斬首3000、その後は3万、6万、1万3000と、あっという間に一回の戦闘での死者数が5桁に突入することからは、雲南諸部族の抵抗の強さと明軍の、雲南の抵抗闘争への恐怖が感じられます。当初、沐英が雲南城を落としたとき、王の印の品だけを確保して、あとは人心の安定に力を入れたとのことですが、その後は沐英自身も斬首を続けていることから、恐怖心がふくらんでいったことが予想されます。

 たとえば、沐英が、後に雲南に残り、昆明近くの宜良を開墾し、屯田基地を設けてる最中に、、沐英自身は、叛乱が起きた東川を押さえるためにやむなく出陣していると、今度は南の方角から別の叛乱部族が宜良目指してまっしぐら。そのときの防衛は相当に困難な局面を迎えてしまい、東川から急遽、戻った沐英が宜良基地を死守、そのときの恐怖から、宜良城の防衛に相当の力をさいた、ということです。(『宜良県志』より)

 また、元と大理の政権崩壊は、今なら東西冷戦の崩壊さながらのインパクトが雲南にはあったのでしょう。確たる史料はないのですが、その後の各民族の動きは、各酋長らの独立紛争だったのかもしれません。

殺戮などの人数は、『南詔野史』には書かれていますが、官営歴史書の『明史』にはありません。つまり、雲南側の史料しかないのです。そのため伝承のうちに数が水増しされていったことは十分考えられます。

 さて、『南詔野史』は、段氏政権の代々の記録書なので、ここで記述は終了。以降は『明史』のみの記述によります。ちなみに『明史』は元の梁王が自殺後の掃討戦には触れず、ただ「雲南城が明け渡された翌年に傅友徳の部隊は帰還し、沐英の部隊が雲南に駐屯した」と書いた後、あっさりと沐英の業績にうつっていくのでした。          (つづく)

*なかなか回族の話にたどり着かなくて、じりじりされている方、もうしばらくお待ちください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沐英7

2013-08-18 10:50:33 | Weblog
 写真は雲南・大理の花鳥市場にて。周辺の山から、白族、苗族、納西族など様々な少数民族の人々が野草や鉢を売りに来る。服地は、若者の民族衣装にみられるポリエステル製ではなく、手縫いの綿や木綿のもの。刺繍がとにかく美しい。年々、手縫いの少数民族の衣装を探すのが困難になっているが、ぜひとも受け継いでほしい。
野生の蘭から、栽培蘭まで手広く売られていて、愛好家が熱心に品定めをしていた。(2005年2月撮影。)

【雲南全土を支配したはずが】
 明が詔勅を発して雲南全土を支配下に入れたはずなのですが、季節の変わる間もなく雲南各地でさまざまな離反の動きが出てきます。

 洪武15年(1382年)4月、早くも帰順したはずの鳥撒、東川、芒部で叛乱を興ります。ただちに傅友徳、沐英が進軍して3万以上の首を上げると、またもや雲南の各部族は(震え上がって)帰順。
 そこから5ヶ月もたたない9月には雲南の土官(中国王朝が地方の独立した統治者・酋長らの権限を認めた身分のこと)・楊苴らが大反乱をおこし、20万人が雲南城に押し寄せる事態となりましたが、都督の謝熊が、雲南城を死守することに成功しました。

そのころ沐英は四川-雲南ルートの要として傅友徳らが激戦を戦った鳥撒に3たび、兵を移して斬首6万余級、4000人の捕虜を捉えました。

 翌洪武16年2月には麗江前後での叛乱では1万3000の首を上げ、40万戸の民が投降しました。

 この戦いの後、詔勅が降り、主将の以下、多くの明軍が1年半の戦闘のすえ、雲南を引き上げましたが、沐英は防衛を任されて留まることになりました。

 これがその後、明朝終焉までの約300年間、15代(『明史』では12代までを政権についた人と認定している。)にも及ぶ沐英の子孫による雲南支配の始まりだったとは、当時の雲南の人も、沐英自身も知るよしもなかったことでしょう。そして、沐英の子孫に生まれた者は気の毒なほど最後の最後まで、叛乱鎮圧に悩まされる運命が待っていたのでした。    (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沐英6 元の梁王、死す

2013-08-09 20:45:23 | Weblog
大理で出土した大理国時代の石像。この馬はずんぐりむっくり系で馬力がありそうだ。
大理国は古くは中国の唐と交流し、インド、チベットなどの交易をさかんに行っていた白族の国だった。

【中原からの雲南ルート確保に腐心】
さて、貴州中央部より雲南入りした沐英らが征南将軍の傅友徳の命令で昆明へ侵攻し、元の梁王を自殺に追い込んだ頃。

雲南攻略トップの地位にある将軍の傅友徳自らは北上して、雲南入りの際に2軍に分けたうち、四川から雲南入りするルートの要である鳥撒(現在の貴州省威寧)を攻略していた軍と合流してイ族軍を挟み撃ちにし、斬首3000余を上げ、もう一つの雲南ルートを確保しました。

 この戦いのすさまじさに諸部族は震え上がり、雲南を治める上での要地とにらんでいた東川、鳥蒙、芒部の各部族が一気に帰順。

 ところが元の梁王とともに雲南支配を代々行っていた大理の段氏政権は帰順しなかったので、沐英と藍玉軍が上関と下関から挟み撃ちにし、段世を生け捕りにしました。
 その際、沐英はまたも得意の奇襲戦法を使いました。

 夜闇に乗じて大理のアル海を渡り、蒼山の後ろに出て、崖の縁にそって旗を並べ、明け方、沐英が先駆けして、渡河し、伏兵していた海と山から挟み撃ちして大理の人々を驚かせて、城をすばやく落としたのです。時に洪武15年(1382年)2月23日のことでした。

 さらに沐英らは北上して鶴慶、麗江などの関所を破り、そこから西に向かって車里などミャンマーに至るルートを攻略。ついには閏2月、雲南の各諸部族に詔勅を発して、明より各官を授け、雲南全土を明の支配下に入れたのでした。
 それはさらなる殺戮線への序章でした。       (つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沐英5

2013-08-03 13:55:14 | Weblog
写真は、水質が中国最高に劣悪レベルの劣5類に認定された2004年撮影の滇池。アオコが浮き、風向きによっては臭いも発する状況だった。いまは少し改善されたと昆明市政府は宣伝するが、2010年に見ても状況は変わらずであった。2012年にはヒ素濃度が上がるなどの新たな問題も起きている。
 ただ、1980年代までは文人墨客が船で詞を作ったり、人々が泳ぐきれいな湖で飲用水にも指定されていた。明初期も清澄な湖だったことは間違いない。


【沐英の奇襲作戦】
(『増訂南詔野史』下・段明を主として翻訳。中央政府によって編まれた『明史』と雲南で編まれた『南詔野史』の違いをお楽しみください。)

「 洪武14年(1381年)(旧暦)9月に沐英ら明の大軍30万が雲南に攻め込み、12月は四川・貴州に近い交通の要衝地・曲靖(昆明より北東約120㎞ほど)まで到達しました。そこには元の防衛軍が平章・ダリマ(達里麻)以下、精兵10万を率いて迎撃準備を万端に整えていました。

 副将沐英は征南将軍の傅友徳に
「わが軍は深く分け入り疲れてはいますが、まだ心に恐れはありません。いまなら突破できます。」(『明史』では「わが軍は疲れており、おそらく撃退されてしまいます」)
 と進言し、(ある策をもって)沐英は別道隊を率いて下流に向かいました。

 さて、濃霧に覆われていた白石江の霧が晴れてくると、両軍が両岸に相まみえる構図となっていました。対岸に明の大軍が望まれたのを見て驚いたダリマが軍を率いて南岸に行くと、流れを渡った沐英軍が突如現れ、銅の角笛を吹き鳴らし、多くの旗を立て、多くの伏兵があるかのように細工してありました。

 ダリマ率いる元軍が驚いてちりぢりに撤兵を始めたところ、傅友徳率いる主力軍が川を湧き上がったように渡って整然と進軍。敵兵を蹴散らし、将軍ダリマを生け捕り、屍は10余里にわたり、捕虜2万人を討ち取りました。傅友徳はさらに散った残兵にも進撃し、沐英らに雲南深くに分け入らせました。

 元の梁王は、ダリマが破れたことを聞くと、城を棄て、最後に滇池の中島にたどり着きました。まず、后の首を絞めて殺し、自分は毒を煽ったものの死ねず、入水して果てました(『明史』では梁王は井戸に飛び込んで自殺します。)
 地元の長老たちは雲南城の西30里にある浄耳山に遺体を納め、村人たちは妙音寺のそばに廟を立てました。(いまは、小さな祠が残るのみ。)

 雲南右丞の観音保が城を明け渡して投降しました。
沐英らが入城しても規律を犯すことは全くなく、梁王の金印ほかいくつかの王の印を治めると、民を安んずることを行いました。」

*昆明からよほど離れた敗戦にもかかわらず、王家が自殺するほど最終決戦だった曲靖での戦い。そこで大活躍を見せたのが沐英だったというわけです。しかも、征服者だったにもかかわらず沐英に好意的な文章が残されていたことは、注目されてもいいでしょう。           

(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする