雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

通海の甘酒⑧ 甘酒のお菓子

2014-04-19 11:39:46 | Weblog
写真は糍粑(ツーバ)と呼ばれるもち。雲南の各地でその土地のもの練り込んで作られる。真っ白なのは普通のもちだが、赤米を使ったり、現地でとれる青のり(川で採れる)を混ぜたり、ゴマを入れたりすることで様々なツーバが作られる。日本の草餅のようなもの。
(写真は景洪のシーサンパンナ集貿市場にて2005年2月撮影。)

【多様な甘酒】
 最近、売られているのは、もち米由来の甘酒だけではありません。トウモロコシやアワ、キビなどの雑穀など20種類以上の甘酒が醸造され、北京、上海などの大都市にも販売店を設ける戦略を打ち立てているところもあります(雲曲坊甜白酒食品有限公司)

 もともと『周礼』などの中国古代の書物(成立年は紀元前後は確実。様々な文書を集めて作られたので、かなり古い記述も含まれる)に出てくる酒も、米よりむしろ、アワ、キビから作られる酒の方が神に捧げる酒として主流を占めていますし(しかも絞らずドロドロの状態のまま。まさに甘酒だった)、
 たとえば毛沢東が好んだ酒・マオタイ酒などはコウリャン(高梁)という雑穀から作られる蒸留酒、雲南でも農村で売られる酒はトウモロコシやソバから作られる方が多い事から考えても、ごく自然な成り行きといえるでしょう。

【甘酒のおやつ】
 とはいえ、もっともポピュラーで昔から作られていたのはもち米をコウジで発酵させた甘酒。『雲南小喫』(梁玉虹著、雲南科技出版社、2003年)によると、以前から雲南で伝統的に造られていた甘酒を利用したお菓子も、それぞれの家では造られていたのだそう。栄養価もあって、ほんのり甘くて、おいしいとなれば、放ってはおけませんよね。

 もともと雲南の甘酒は、プリンのように水分をふくんだお米が発酵して甘くよい香りがする、というものなので飲用品としてではなく、雲南の甘酒を丸めて練った「甘酒だんご(甜酒湯丸)」や「甘酒米麺(甜酒餌糸)」、「甘酒かりんとう(甘酒麻花)」など。甘酒を蒸かしたり、ゆがいたり、揚げたりしてできあがるものです。

 考えてみるとパンは、パン種(イースト)を発酵させて膨らませます。大正時代に造られるパンはこのイーストがないので、日本酒で使う麹(コウジ)を使ってお米でつくるパンでした。今でも最近、人気復活の酒種あんぱんや温泉街の酒饅頭がこの系統です。
 小麦粉にイーストでつくるパンよりもはモチっとしていて、イーストも天然酵母のものは少ない中、コウジはいわば天然酵母。発酵時間はドライイーストよりずっとかかりますし、品質にばらつきもでますが、米をコウジで発酵させてできる甘みと香りと旨みをそのままいただく米由来の生地と考えれば、雲南の甘酒お菓子は、じつにまっとうな調理法なのです。

 ちなみに上記の本で作り方が紹介されていたのは
甜白酒煮糍粑
(糍粑:もち米を蒸かしてつぶし、油やゴマなどをいれて丸めたもの。日本のおはぎよりも密度が濃く丸められたり、切り餅のようなタイプになったものもある。広東や雲南、四川で広く作られている)

①糍粑を食べやすい大きさにちぎって蒸して軟らかくし、ゆるめの甘酒の中に入れる
②別の鍋に火をかけ、水、黒砂糖を入れて溶かし、シロップを作る。
③②を①にかけて出来上がり。

簡単だし、身体にもよさそうなおやつですね。日本でもお餅と市販の甘酒で作れば、あんこの代わりに甘酒でできたぜんざいのように繊細なおやつにできそうです。
(つづく)

※次週の更新はお休みします。季節の変わり目。新しい季節です。皆様、お身体を大切に。
※雲南の北、ミンヨン村から日本に留学に来ていた少女が、日本の男性と結婚しました! とてもさわやかなカップル。「大学を終えたら、村に帰って村をよくしたかったのですが、故郷が二つできてしまいました。これから時間配分がたいへんです」どこまでも誠実ですなおなペマさん。お幸せに!
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通海の甘酒⑦ 空も道もふさがれて・・

2014-04-12 16:36:05 | Weblog
写真は通海曲陀関の玉通公路に掲げられた看板。「予防交通 保護生命 平安出行」と白抜きで書かれ、「雲南八大小曲生産企業」と黄色い文字が大きく染められている。(2008年8月撮影)
 その後、看板が200枚以上に増殖するなどこのときは、誰も予想だにしなかった。
 ちなみに雲南の8大酒がどの酒を指すのかは不明だが、日本では三銘柄、「三大○○」と「三」を多用するが、中国では四銘柄、「八大○○」と4の倍数で顕彰する傾向がある。 

【品質保持期限を3日から1年に】
 この業態は雲南の中部から南部への主要道でちょうど、昆明から120キロ走行して休憩したいところに村があり、さらに山が両側から迫っているため、大型高速道が若干、狭くなり、建水方面に道が分岐するという道の立地に支えられたという地理的偶然が運を呼び込んだもの、といえます。

 それだけに玉通公路以外の主要道が出来ると、一気に急下降することが見込まれますが、いまのところ、その心配はなさそうです。そして、同じようなドライブイン的立地の中で、突出して甘酒業が発展した地が、またここのみ、というのはおもしろいものです。

 さらに『通海曲陀関甜白酒』は家族経営主体で、路面販売は、すでに飽和状態。さらに新たな交通網が発展すれば、路辺経済など一気にふっとびます。

そこで趙麗華は甕や瓶だと品質が3日ほどしか保てないところを、ビニールの密閉容器に容れることで、品質保持期限を1年に伸ばし、流通に力を入れだしました。以前、書きましたが私が昆明のスーパーで見かけたものもこの容器のものです。風味を保つ工夫はもう一歩必要かもしれません。
 ともあれ、現在は昆明と通海の隣の大都市・玉渓に集中的に卸しているとのこと。こうして曲陀関甘酒は、昆明人のおやつの一つとなり、また雲南の土産物の一角を占めるようになりました。

 ところが路面販売から脱却しようと努力する人は少数で、多くが300メートルほどの空間だけで勝負しているのが実情。

 その結果は、観光地の土産物通りによくあるパターンで、看板が空と道路脇を覆いつくし、路面店が道路にはみ出し交通の妨げになる事態が深刻になってきました。見えない道路のため、事故も多発。2014年1月、とうとう、看板撤去の通達が出され、200以上あった広告などすべてが撤去され、道路は鋪装しなおされ、樹木を植えて揺り戻しのないように整備されたのでした。(2014年1月24日、玉渓新聞網より)             (つづく)
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通海の甘酒⑥通海のサクセスストーリー

2014-04-05 15:18:50 | Weblog
写真は通海の甘酒店が軒を連ねるドライブインの一角の看板。「雲之南 甜白酒」と大きく書かれた看板の下には、
‘1254年、フビライ・ハンが雲南遠征に赴いた際、元軍が曲陀関の占領したとき、炎天下の下で兵士ともども喉が渇いて耐え難くなった。フビライの愛馬が立ち上がって足もとの土を掻き上げて穴を掘ると、そこから水がわき出してきて泉となり、人々の渇きを癒した。以後、その水は「馬鉋井」と呼ばれた’という、伝承や、この地に甘泉三十六穴がある、という由来が巧みな文字で記され、雰囲気を盛り上げている。

【甘酒に巨額の投資】
 一人の男が甘酒を一埦を飲み、
「あんたの甘酒はどうして、こんなに酸っぱいんだ?」
趙麗華の顔は真っ赤になりました。

またある時は、結婚式用に6甕の甘酒の注文がありました。ところが仕込んでから天候が急変し、2日目に甘酒は全部、変質。500キログラムのもち米がダメになりました。

そんなある日、(昆明市中心部より43㎞東北。昆明城からのアクセスがよい)嵩明県からきたお客から、かの地では甘酒造りに恒温器を使っているという話を聞きました。その話を聞くや、趙麗華はさっそく、夫とともに昆明に行き、恒温器を探し当て、7900元以上で買いました。
(ちなみに2013年の中国全土の銀行や工場、国家公務員などの平均月収は北京、上海などで3000元前後、遼寧省、黒竜江省などの経済開発地域で1800元前後、雲南は賃金が膨張しているとはいえ1200元前後とのこと。〈公務員給与一覧表よりhttp://blog.renren.com/share/222044605/8641148854〉
つまり、7900元は2000年に雲南の農村で農民が得る金額としては破格。ちなみに現在、日本では7~8万円で販売されている)

 買ったからといって、そもそも彼女の腕前の未熟さがうまい甘酒を造れない最大原因なので、たちまち品質が上がる、ということはないものの、一年が過ぎるころには昆明からわざわざ買いに来る客もつくようになりました。

 2001年に店の脇に35㎡の店を建て、100キログラムの甘酒を売るようになり、更に翌年には200キログラムと倍々に売り上げを伸ばしていきました。2004年には17万元を投資して駐車場と店をリニューアルし、「曲陀関趙麗華甜白酒」の看板を立てるほどに。

 近年では面積は2700平米に達し、彼女の商品は昆明だけではなく、雲南各地で販売され、生産量は150トン以上に達しているとのことです。  (つづき)
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