雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

シーサンパンナ景・はねつるべ③

2014-07-26 11:39:30 | Weblog
写真のはねつるべ状牛綱木装置は、水路脇に設置されている。よくよく観察すると、水路脇の設置が多いような気がする。見学した時期が乾期の2月なので、土がゴツゴツと思えるほど乾燥しているが、雨期の時期には水田の光景となる。そしてマラリアの発生地としても有名な場所にもなる。

【『荘子』のはねつるべ】
さて、中国で紀元前からあったと書きました。じつは中国では跳ねつるべといえば、この小話、というぐらい有名な話が『荘子』天地編第12の7番目に出てきます。ちょっと長いですが、紹介しましょう。


《孔子の弟子の子貢が漢水の南を通りかかったとき、ひとりの老人を見た。その老人は畑作りをするため、坂道を掘って井戸に入り、甕に水をくみ、抱えて出ては畑に水をそそいでいる。

 そこで子貢は老人に声をかけた。
「水をくむよい機械がありますよ。はねつるべといって、軽々と多くの水をくみ出すことができます」

すると老人は笑っていった。
「わしはこういうことを聞いた。機械をもつものには、必ず機械にたよる仕事がふえる。機械にたよる仕事がふえると、機械にたよる心が生まれる。機械にたよる心が生まれると、心の純白さが失われ、霊妙な生命のはたらきも失われ、道から見放されてしまう、とさ。
わしもその機械のことを知らないではないが、けがらわしいから使わないのだよ」

これを聞いた子貢は恥じ入って顔を赤くし、そのまま孔子のもとに帰った。

この話を孔子にすると、孔子はいった。
「その老人は渾沌の術をちょっとばかり生かじりした程度の人間だよ。その一を知って、その二を知っていない。心の内を治める道だけはしているようだが、外の世界に処する道はまったくわかっていないよ。
 もし真に渾沌の術を学びとり、人為をすてた素朴の状態にかえり、自然のままの性をいだきながら、しかも世俗の世界に遊ぶものがあったとしたら、おまえはもっとびっくりしたに違いない」》
(森三樹三郎著『老子・荘子』講談社学術文庫より引用。)


 このエピソードは1932年に物理学でノーベル賞をとったハイゼンベルグほか、多くの哲学者が機械文明の危険を説いたものとして引用しています。ある意味、『荘子』の中で、現代に影響を与え続けるという意味で、もっとも知られている一節といえるでしょう。
といっても、最後の孔子のコメントは除かれた形で引用されることが多いのですが。

 さて、荘子は戦国時代の紀元前360年から紀元前310年頃に宋の国の蒙という場所で漆園の管理人をしながら、独特の寓話を用いて儒教の対極にあるような思想を説いた人です。後に老荘思想として中国の大きな思想の一つとなってきますが、やや利己主義ともとられるほどの運命に逆らわない感じが、がんばりすぎる現代人には響くところがあるようです。歴史的には禅や浄土宗などを通して日本人にも多大な影響を与えました。

『荘子』の中でも天地編が組み込まれた外編は、荘子が亡くなった後、荘子学派の後継者たちが書き継いだ部分なので、書かれた年代は紀元前4世紀よりは、もう少し今に近くなるものの、紀元前にかかれた書です。

 つまり、そのころ、跳ねつるべはわりと新しくできた便利な機械で、しかも多くの人が知っているものだったというわけです。今でいうところのたとえば「スマホ」の位置付けでしょうか。

便利な機械に自分が支配されないようにという恐れと戒めは、昔からあったのですね。

それに対する孔子のコメントの深いこと。新技術をただ批判するのではなく(それでは物語の老人レベル)、「外の世界に処する道」ができることがさらなる段階だという提示。いろいろな事柄について、いまこそ考える時機と深く感じ入りました。  (この章おわり)

*夏休みプレゼントともいえる、深いい話のご紹介させていただきました。
来週からアジア調査旅行のため、2週間更新はお休みさせていただきます。お盆の時期に更新再開の予定。もうちょっと書く話がありますので、もうしばらくおつきあいください。
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シーサンパンナ景・はねつるべ②

2014-07-19 16:22:53 | Weblog
写真は跳ねつるべに結わえられながらも、ゆったりとくつろぐ水牛。立つも座るも思いのまま。牛の後ろに見える林の木々の下側が白く塗られているが、これは石灰。シーサンパンナの木々の、とくに沿道の大木は白く塗られている。地元の人に聞くと「虫除け」というのだが、北方の陝西省大同でも同様にポプラの木の下側が同様に白かったので聞くと、「虫除け」という理由もあれば、「道路から外れないように目印になる」「反射を期待して明かりとり」など様々な回答を得た。どうやら
木々の下側を白く塗るのは習慣化していて、ナンのためか、はっきりとした理由はもはやあやふやになっているようだ。

【効率的な飼育法】
よく考えてみると、じつに効率的な方法です。本来、放牧には見張りが必要だし、たんに綱につなぐだけだと、(犬をつないだ経験からですが)意外と動物の足や綱をつなぎ止める留め金に引っかかって、気づくと身動きがとれないようになってしまいます。

また、犬を自由に動けるようにとカーテンレールのように高めの場所に針金をわたし、一直線に行ったり来たりできるようにしたこともありますが、やはり、途中でからまったりして、意外とうまくいきませんでした。犬ならば簡単に足を上げさせて絡(から)まった綱をほどけますが、大きな牛ではそうもいきません。

 その点、跳ねつるべ方式ならなるほど、結構な広さを移動出来るし、跳ねつるべの先につける綱を長めにとれば、円の中心から遠くまで、からまることなく自由に動けそうです。

 ただ、ちょっとひと休みするときにもテコの原理の先の重しがあるので、首を下げるのにも苦労しそうに見えますが、牛たちはお腹を地面につけてゆったりと休憩しています。そもそも装置のすべてが竹でできているので、軽く、柔軟性もあって、意外と快適なのかもしれません。

 この跳ねつるべ、起源はどこで、いつごろからあり、分布域はどうなっているのか調べてみました。すると、エジプトでは5000年前からあり、中国でも紀元前から確実に存在することがわかりました。日本の農村でも、かつてはよく使われていました。

また、世界の幅広い地域で今も現役で活躍しています。アフリカでは灌漑設備として、ハンガリー、エストニアなどでは家畜の水飲み場で使用されているのです。けれども、牛をつないでいるという文や画像は、どう探しても、どうも見あたりません。

 シーサンパンナの人にとっては当たり前と思われる、この跳ねつるべの使い方は世界的に見ても斬新な使い方なのかも。

 雨期に水田のために水路からくみ上げるのに使われるため、常時設置されているものを有効活用した、とも考えられますが、水路から遠く離れた場所にも、牛用跳ねつるべ綱木があるところをみると、牛専用という気がします。いつか、雨期に行って、確かめてみたいです。
                             (つづく)

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シーサンパンナ景・はねつるべ①

2014-07-11 13:59:31 | Weblog
雲南・シーサンパンナ勐海勐遮郷景真でみたはねつるべ状の牛飼育装置。柱も横木も二本の棒を交差させて自由に動かせる関節部分もすべて竹で出来ている。

【跳ねつるべ】
跳ねつるべをご存じですか? 柱にヤジロベエのように横木を渡し、一端に石などの重しをつけ、もう一端に桶に縄をつけたようなつるべ(釣瓶)を取り付けたものです。石の重しを使ってテコの原理で井戸の水をくみ上げるので、井戸の底から人力で持ち上げなくても、楽に水をくみ上げられます。

 先月、TOKIOが無人島を開拓する日本の番組『鉄腕ダッシュ』でも、井戸に自作の跳ねつるべを取り付けていました。このときは重しが重すぎて、逆に釣瓶を井戸の底に下げるのに力が必要な上、せっかく井戸から汲み上げた水が跳ね上がって、遠くに飛んでいってしまっていましたが・・。

この装置、雲南でも現役です。
シーサンパンナの中心都市・景洪より西へ約50キロメートルにある茶の産地モンハイ(勐海)からさらに西へ16キロメートル行ったところにあるタイ族仏教寺院の景真八角亭付近で見かけました。もうちょっと行くとミャンマー国境というところです。

その使い方がユニークでした。

その日は2月で、ちょうど乾期のまっただ中だったためか、一面の水田地帯であろう土地はすっかり乾いていました。そこには、稲の代わりに雑草除去と日々のエサヤリと一挙両得をもくろんでか、たくさんの黒牛が点々といました。はるか遠くまでいました。

うわあ、放牧だあ、とのどかな気持ちでよく見ると、皆、一様に跳ねつるべの一端に結わえ付けられていたのでした。             (つづく)

*不穏な気候が続き、台風一過の暑さがやってきました。こんなときは、不思議な写真で少しなごんでいただければ、と思います。
 久々の新章です。
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通海の民族⑨ 回・蒙民族が集うわけ

2014-07-05 16:01:01 | Weblog
写真は昆明で6月の雨期の始まりを告げるぐずりがちな天候の続く一時期のみに、市場や道路脇で出回っていた枇杷(びわ)の実(2004年6月撮影)。たった一本のひもで、傷つきやすい枇杷を紡ぎ上げて、ブドウの房のようにつり下げて売る器用さに感嘆。
 けっこう、重い。日本のように4個や6個といった少ない単位の売り方は、この形なので、まず不可能だ。
 漢字は日本・中国共通で発音は「ピーパー」とほぼ同じ。味も日本と同じだった。

【野菜製造基地にも】
 話は甘酒からだいぶ逸れましたが、通海は元、明時代の雲南開拓の要請にそって、回族、モンゴル族の屯田地を統括する地として長く存在感を放っていました。やがて水上交通と陸上交通の要から杞麓湖の縮小などで交通の重要地ではなくなり、寒村に。

 注目されなくなった土地だからこそ、中国の激動の政治の荒れ狂うなかでも回族村、雲南で唯一のモンゴル族村がおだやかに生き残れる地となることができたといえます。

 1990年代になり、また通海を通過する昆明から建水をつなぐ道路が建設され、重要な経由地となり、漢族を中心とした甘酒主体のドライブインが大盛況に。

 さらに雲南各地から海外への幅広い商業ルートを持つ回族が中小製造工場や輸出向け野菜を通海で作るようになりました。大根やキャベツなどの野菜は、日本へも漬け物などの加工品としてきていますし、政府指定の有機野菜「緑色野菜」の認定を受けた畑もこの地に多くあります。

 このように輸出する事業が軌道に乗ったため、雲南各地から大量の肉体労働者がバスに乗って集まるようになりました。
 歴史的に様々な民族が暮らしていたことから、よそ者への懐が比較的深い場所として雲南でも認知され、いまも多くの人が気兼ねなく集える場所となったのでした。

【刀製品に秀でた地】
 また甘酒業に精を出すのは、おもに漢族で、回族、モンゴル族は別の暮らし方をしています。

 回族が多く暮らす納古鎮では中小企業が400社以上あるといわれているなかで、刀製品や手工業製品を製作する工房が多くあります。これは、かつて大量の軍用品を工場請負していたところが多かったため。これも遡れば土木事業の知識に優れていた回族が700年前にサイード・シャムスッディーンに請われて雲南にやってきたことが淵源となっているのです。
伝承ですが、明初期、雲南統治の中心となった沐英が、南方の反乱鎮圧に赴いた時、迷い込んだ村で一振りの立派な短刀を手に入れたことがあったとか。つまり、この回族の村では当時、刀身づくりなどの特殊技術集団が存在していた、というわけです。
その後、中華人民共和国成立後は軍用品を、改革開放期になると、いち早く民間向け工業品へと転換できたのも、長い歴史を生き抜いたネットワークと技の蓄積、といえましょう。

近年、多くの作業労働員が通海へ仕事を求めてやってきても、トラブルもなく、住む場所がすんなり提供され、通海をとっかかりに農作業から、工場作業、土木工事へとすんなりと移行できるのも、苦労の末に生きのびた多民族の英知に支えられた、ともいえるでしょう。              (この章おわり)

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