雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南でさかんだった屯牛6

2016-01-23 11:27:38 | Weblog
彝族が暮らす普家黒の牛。雲南本来の農作業用の牛はこのように角がピンと逆八の字にそびえ、背中にコブを持つ、黒々とした水牛タイプだったのではないだろうか。

【もともとの雲南の牛は?】
屯牛によって、雲南の牛が村ごとに違うわけがわかりました。ただ、明代に中国各地から送り込まれた牛は背中にコブのない北方系牛。では、それまで雲南に多くいた牛はどのような牛だったのでしょう。

昆明市付近に限定すると、滇池周辺では紀元前の前漢時代(前206―紀元24年)ごろに最盛期を迎えたといわれる古滇王国と称される青銅器が手がかりになります。これには角が逆八の字にそびえ、背中にコブを持つ水牛のように見える彫像がよく出土します。

たんなる牛という言葉では片付かないほど神聖を帯びた姿は現在の雲南人の心をも捉え、昆明の雲南省博物館や、雲南の象徴的なところに青銅製のモニュメントとして飾られています。
 このピンと延びた形のいい角をもった入れ子状の水牛にヒョウのような猫科の動物が食らいついているかっこいい銅像は滇池のほとり、江川県李家山遺跡で発掘されたものを大きくしたものです。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E8%99%8E%E9%93%9C%E6%A1%88
http://www.ynmuseum.org/2015/0410/27.html

ほかに当時の通貨であるタカラガイを収納した青銅製の貯貝器の上に立体的に描かれたレリーフや銅鼓の蓋にも牛が多数、付けられています。
http://www.chnmuseum.cn/tabid/212/Default.aspx?AntiqueLanguageID=699
http://www.chnmuseum.cn/tabid/212/Default.aspx?AntiqueLanguageID=702

いずれもすらりとした、もしくは、やや肉のだぶついたような背中に一つのコブを持つタイプです。

ちなみにこのあたりの遺跡からは「滇王之印」と彫られた金印も見つかっています。
金印の背に付いた鈕(つまみ)は日本の九州の志賀島で発見された「漢委奴国王」印と同じ蛇形。滇国印は『史記』西南夷列伝の、前漢の武帝が元封2年(紀元前109年)に下賜したという記事のもので、委奴国印は『後漢書』 東夷傳の後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ授けたものといわれています。
 166年の隔たりはあるものの、漢から蛇の鈕を持つ印で冊封された国というつながりがあるわけです。またかつてささやかれていた日本の金印の偽造説が雲南の滇国印の発見でほぼ一掃された因縁もあります。でも印の字が入るか入らないかという文面の違いは文字のバランスによるものか興味深いですね。今後、考えて見たい気もします。
「漢委奴国王」印https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0#/media/File:King_of_Na_gold_seal.jpg
「滇王之印」
http://www.chnmuseum.cn/Default.aspx?TabId=212&AntiqueLanguageID=698&AspxAutoDetectCookieSupport=1

話が逸れました。
これらのことから考えると、少なくとも滇池あたりの民族とともに暮らしていた牛はインド系牛に分類される系統だったのでしょう。どちらかというと、現在では水牛に属する部類のように見えます。そしてそのレリーフのリンとしたたたずまいから牛は神聖を帯びたものと見なされていたと思われます。

いまでも祭りの犠牲に牛を使う雲南の民族として独龍族などがいますが、牛は運搬や農作業の他、祭りの捧げ物にかかせない重要な動物だったのです。
(おわり)
※長らく牛におつきあいいただきまして、ありがとうございます。次週は更新をお休みしまして、新章へと移ります。
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雲南でさかんだった屯牛5

2016-01-16 11:02:39 | Weblog
シーサンパンナ・景洪市、瀾滄江脇でたむろする牛と馬。このあたりの牛も馬も黒い毛並みが多く、体型は鼻が低かった。背中にコブがないので北方系牛の分類となるのだろう。瀾滄江は下るとメコン川となる国際河川である。つまりインドシナ半島とのつながりが強い地域である。

 2004年段階で川の水は澄み、川の水かさは足の膝程度であったが、その後も中国の国策でダムが造られ続け、計画では8カ所、現在、6カ所が完成している。当然、水質は激変し、下流では魚が捕れなくなったり、洪水被害が多発するなどの大問題となっている。

 このダムの目的は水力発電にあり、電力は付近、および広東省などの沿海地区に向かい、またミャンマーに売電している。瀾滄江の水力発電計画は天安門事件後に国際的孤立を招いた際、電力を自力でまかなえるようにする政策にそって、作られたという。(林庭瑶「瀾滄江最大水壩発電 東協国憂」『聯合報』2012年9月7日A21版)


【詔勅だけでも4万頭】
さらに3年後の洪武23年6月にも雲南の各衛屯地にはじめに屯牛が支給され、
それから延安侯唐勝宗らが雲南に訓練された軍士を各衛に送り、
加えて貴州にいる衛の官牛6770頭ほどを屯田の諸軍に送るように詔勅が発せられました。

(給雲南諸衛屯牛先是延安侯唐勝宗等往雲南訓練軍士、置平溪、清浪、鎮遠、偏橋興龍清、平新、添隆、里威、清平、壩安、莊安、南平夷十三衛屯守、而耕牛不給勝宗、請以沅州及思州宣慰司、鎮遠、平越等衛官牛六千八百七十餘頭分給屯田諸軍、至是詔給與之)
【明の太祖高皇帝実録・巻202より】

つまり中国全土から人と牛が雲南に集中していたのです。

まとめると洪武20年から雲南に送り込まれた屯牛は詔勅に現れているだけで3万6770頭。人もやはりこの時期だけで洪武20年から数字化された人数だけで精兵7万人、その家族も国のお金で送り込まれたので、一人あたり3人として21万人となります。

すでに雲南攻略の時の居残り組もいるので大幅な人口増となっています。屯牛は詔勅令に書かれている以外でも調達されていたことでしょう。そうでなければ食べ物からして全然足りなくなってしまうでしょう。環境も大激変が予想されます。

こうして雲南の牛は各年度ごとに優れた農耕牛が地域の区別なく送り込まれて重層化していきました。

また、当時の最も進んだ長江下流域の農耕技術も伝播して、農耕用の鋤も大改良されました。2頭の牛に3人の人で一つの形をなした牛耕も1人1牛へと労働効率も飛躍的に進展をとげたのでした。                   (つづく)

※牛の話はあとちょっとで終わります。すっかり、長くなりました。牛って奥が深かったんですね。
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雲南でさかんだった屯牛4

2016-01-10 14:05:56 | Weblog
シャングリラよりさらに北方の徳欽の農村の牛。貧しい農村で若者はすべて外地に出稼ぎに出ているため、老人と小さい子供だけの村となっていた。牛は大型だがひどくやせているのが目に付く。
牛の栄養および世話の手が足りないのだろうか?

白黒ブチだがホルスタインではない。やや背骨にコブがあり、角は外側に湾曲している。様々な系譜を引いた牛のように思われる。

【牛と人の大移動】
孫茂に屯牛を買う命令がだされた数日後、以下の命令も下されました。

「景川侯曹震及び四川都指揮使司に精兵2万5000人を選び、軍器農具を支給し、雲南とさらに奥の品甸の地に屯田して征討を待つことを詔する」
(詔景川侯曹震及四川都指揮使司選精兵二萬五千人給軍器農具即雲南品甸之地屯種以俟征討
【明の太祖実録・巻184より】洪武20年(1387年)8月)

つまり雲南攻略で同地に居残った精兵にプラスして、牛、さらに武具と農具を持たせた精兵が加わることになりました。

さらにその数日後に雲南には単身赴任している軍士の家族にも一定の金額を支給した上で雲南に兵士の護送つきで送りこむ詔勅が出されました。
(詔在京軍士戍守雲南者其家屬俱遣詣戍所戶賜白金十兩鈔十錠令所過軍衛相繼護送 
【明の太祖実録・巻184より】洪武20年(1387年)8月乙亥)

今までにも何度か取り上げましたが雲南はいったん、明軍が制圧した後も他民族の反乱が相次ぎ、兵士らは引くに引けない状況でした。
 また屯田にはさらなる労働力が欠かせず、安定的に土地に人を張り付かせることで防衛の役割も果たさせる必要がありました。屯田は家族単位こそが重要なのです。

ところで雲南に移住する家族に支給される銀10両はどれほどの価値があったのでしょう。

目安ですが洪武28年以前に南京および沿海地区でおもに納められた税金で換算すると、銀1両は米2石、1石が明代は約70キロ強なので2石だと約140キロ強、つまり銀10両は米1400キロ相当分となります。(※1)

当然ながら一般家庭にとっては滅多に手に入らぬ大金です。お金欲しさに雲南に向かった家は、この時期、多かったことでしょう。

さて翌月9月乙巳には湖広からも精鋭4万5000人が雲南へ向かう命令が出されました。人が動けば、当然のごとく、牛も動かされます。

「今、家畜牛2万頭をかの屯田の地に行かせ、諸軍に分領させ、雑多な労役を免れた民に送って牛を従わせる」
(今又令市牛二萬往彼屯種、請令諸軍分領、以往、庶免勞民送發、從之【明の太祖高皇帝実録・巻185より】)

詔勅の通りに牛が集まったのかどうかはわかりませんが、ともかく、急ぎ労働用の牛を数万頭単位で雲南に送る光景が目に浮かびます。まるでかつてドキュメンタリー番組で見たアフリカのヌーの群れの大移動のようです。

参考文献
※1
郁維明撰『明代周忱對江南地區經濟社會的改革』臺灣商務印書館, 1990、56頁
【明太祖実録・巻255】洪武30年9月癸未より)

*本年もよろしくお願いします。雲南の牛が重層的な理由が長くなっております。
お忙しい方は、最後の段落をお読みください。まとめの段落にだいたいなります。
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