写真はコオロギかごを売り。(2008年秋、昆明市中心街で撮影。)かつて映画「ラストエンペラー」の冒頭で3歳弱で即位した清朝最後の皇帝・宣統帝が即位式でコオロギ籠を大事に持ち、ラストシーンで一般人となった時にもコオロギが出てくる象徴的なシーンがあるが、中国の人にとってコオロギは戦わせたり、鳴き声を楽しんだりと特別に愛される虫となっている。
コオロギ籠は中秋の名月の前より売り出される初秋の風物詩。農村部からいろいろな農作物や竹籠、竹ほうきなど携え、現金稼ぎに昆明市中心部まで農民が売りにくる。農民と都市民との格差が社会保障なども含めて歴然としているため、戸籍の改定など、中国共産党指導部は格差解消を試みるが、まったく追いついていない。
【日傘と石綿瓦の小屋がけ】
このように雲南ではずいぶん前から甘酒が造られていましたが、通海で名産品となった理由を見てみましょう。
1940、50年代は雲南の多くの地域で甘酒は造られ、市場で商品としても売られていました。米と水、それに腐敗しない程度に冷涼な気候があればできるのですから、雲南なら米さえ手に入れば作れる、というわけです。通海の曲陀関でも毎日10キログラムほどの甘酒を市場に出し、曲陀関のある河西県城から周辺の峨山、玉渓など周辺地域のみで細々と販売されていました。
そこには「曲陀関甜白酒」という木札がかかっていたそうです。
その後、60年代、70年代と激動の時代を経て、中国全土で経済が壊滅的になった後、疲弊した農村経済を立て直すため、1980年代初めより生産請負制が始まります。これは国に上納した残りは市場で販売してよいというもの。
通海県河西鎮では甘酒の生産販売で大成功を収めます。この地の住民の多くが甘酒造りに参加し、毎晩遅くまで仕込んでは市場に出すと、一日で甕は空っぽになったとか。値段の安さも評判を呼んだそうです。
さらにこの地の甘酒が一気に市場経済の波に乗った第3の波は1999年のこと。昆明と通海、建水へと通過する主要道路の玉通公路が開通したことにあります。
以前より甘酒を造っていた人々が道路脇に小さな石綿瓦(アスベストの瓦。滇池周辺や建設ラッシュに湧く建水等各地にアスベスト工場がたくさんあった。)の小屋を建て、その前に人が日傘を差して立ち(日差しが強烈なのと、目立つため)、通る車に甘酒を売るようになったのでした。
開通から1年後の西暦2000年、曲陀関の人・趙麗華(当時28才)も道ばたで休んでいたときにその現象に気づき、この商売を始めたいと思いつきました。夫は同意しませんでしたが、その後も数日、道ばたの様子を観察した後に1000元以上をつぎ込んで(当時の大金。家一軒建つお金)玉通公路に12㎡のアスベストの建物を建てて、その年の2月16日に開店しました。
でも経験のない彼女の甘酒はいかにもおいしくなく、毎回、2㎏ほどのもち米で醸造しても、甘かったり、酸っぱかったり、辛かったりと失敗続きでした。
(『昆明信息報』より)
※家人がインフルエンザを発症したり、季節の変わり目は何かと忙しい日々が続きます。更新が断続的で読みづらいかと思いますが、お付き合いくださり、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
コオロギ籠は中秋の名月の前より売り出される初秋の風物詩。農村部からいろいろな農作物や竹籠、竹ほうきなど携え、現金稼ぎに昆明市中心部まで農民が売りにくる。農民と都市民との格差が社会保障なども含めて歴然としているため、戸籍の改定など、中国共産党指導部は格差解消を試みるが、まったく追いついていない。
【日傘と石綿瓦の小屋がけ】
このように雲南ではずいぶん前から甘酒が造られていましたが、通海で名産品となった理由を見てみましょう。
1940、50年代は雲南の多くの地域で甘酒は造られ、市場で商品としても売られていました。米と水、それに腐敗しない程度に冷涼な気候があればできるのですから、雲南なら米さえ手に入れば作れる、というわけです。通海の曲陀関でも毎日10キログラムほどの甘酒を市場に出し、曲陀関のある河西県城から周辺の峨山、玉渓など周辺地域のみで細々と販売されていました。
そこには「曲陀関甜白酒」という木札がかかっていたそうです。
その後、60年代、70年代と激動の時代を経て、中国全土で経済が壊滅的になった後、疲弊した農村経済を立て直すため、1980年代初めより生産請負制が始まります。これは国に上納した残りは市場で販売してよいというもの。
通海県河西鎮では甘酒の生産販売で大成功を収めます。この地の住民の多くが甘酒造りに参加し、毎晩遅くまで仕込んでは市場に出すと、一日で甕は空っぽになったとか。値段の安さも評判を呼んだそうです。
さらにこの地の甘酒が一気に市場経済の波に乗った第3の波は1999年のこと。昆明と通海、建水へと通過する主要道路の玉通公路が開通したことにあります。
以前より甘酒を造っていた人々が道路脇に小さな石綿瓦(アスベストの瓦。滇池周辺や建設ラッシュに湧く建水等各地にアスベスト工場がたくさんあった。)の小屋を建て、その前に人が日傘を差して立ち(日差しが強烈なのと、目立つため)、通る車に甘酒を売るようになったのでした。
開通から1年後の西暦2000年、曲陀関の人・趙麗華(当時28才)も道ばたで休んでいたときにその現象に気づき、この商売を始めたいと思いつきました。夫は同意しませんでしたが、その後も数日、道ばたの様子を観察した後に1000元以上をつぎ込んで(当時の大金。家一軒建つお金)玉通公路に12㎡のアスベストの建物を建てて、その年の2月16日に開店しました。
でも経験のない彼女の甘酒はいかにもおいしくなく、毎回、2㎏ほどのもち米で醸造しても、甘かったり、酸っぱかったり、辛かったりと失敗続きでした。
(『昆明信息報』より)
※家人がインフルエンザを発症したり、季節の変わり目は何かと忙しい日々が続きます。更新が断続的で読みづらいかと思いますが、お付き合いくださり、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。