写真は文山の苗族がいつからか人里離れて住んでいたと語る村。そこで見かけた家のまん中に竹の簀の子が泥と牛糞に捏ねられ作られていた。聞くとハチミツ用の巣の家だという。修復も容易で手がかからないと言っていた(2004年10月撮影。)
【羅平県の新特産】
さて、「皇蜜」が日本で売られているわけは、前回、書いたように日本人が深く関わり、雲南農業大学が「発見」し、製品化したからでした。
一方、中国で注目されつつある「皇蜜」は大学以外に仕掛け人がいたのでした。
(以下、『雲南信息港』2013年11月12日よりhttp://yn.yninfo.com/message/mes/201311/t20131112_2176727.htmlなどを参考とします)
2007年、羅平県出身の朱洪坤が雲南農業大学を訪れます。彼は出身地で一旗揚げたい、そのために羅平の特産品のハチミツで何かできないか、と考えていたのです。軍に7年勤務し、除隊後、昆明で様々な職業を経験し、苦心の末、ようやく創業した広告業を軌道に乗せたところでした。
そこで研究者の話を聞く中で、世界規模のハチミツ業を起こす目玉として「ヤハシの蜂蜜」に着目。雲南土着のミツバチよりもミツの採取に効率のよいアメリカから取り寄せたイタリア蜂を雲南農業大学からもらい受け、羅平県で菜の花ハチミツを手始めに養蜂に取り組みはじめます。
そのころ羅平県には中国文化大革命期の1969年に「知識青年」として雲南に下放され、ハチミツ業を起こした雲嶺蜂業工貿有限公司のリーダー曽林章など50家ほどの中小や家内制の養蜂業者がすでにありました。彼らが使うミツバチは雲南にもともといた小型のハチ。牛糞と泥を捏ねた箱に巣を作らせ、花の時期が終わった頃、年に一回、かち割ってハチミツを取り出す方法が主でした。
地元のハチは病虫害に強く、飛距離はあるものの、ミツの採取量は少ないため、どうしても厳密に一種類の花限定とはならず、様々なハチミツが合わさった「百花蜜」になってしまうこと、大量採取は難しいなどの欠点がありました。ちなみにこのタイプの養蜂は雲南各地で見られ、雲南中東部の文山の農村でも見かけました。
それを朱洪坤は変えたのです。ただし、病虫害に弱く、寿命が短いため、しばしば路上に大量死する光景が見られ、地元や環境を心配する識者からの反発を浴びました(『雲南経済報』2011年6月30日)。
やがてヤハシ蜜の農場を羅平県に5カ所もうけて満を持して採取を開始。
また、本業の広告業の嗅覚を最大限生かしてヤハシ蜜を、より贈答品としての価値を見た目にもわかりやすく工夫していきます。
まずヤハシの蜜がかちかちに固まる性質を生かして、中国人が喜ぶ円盤状に固め、包装も金の布地にいかにも大切そうにおさめ、効能書きを添付。「皇蜜」の名で声望を高め、この章の初回にも書いた通り、2011年11月に羅平県の朱氏の率いる蜜語蜂業科技開発有限公司が国際農業博覧会で金賞を受賞、一気に雲南の新たな特産品の地位を獲得したのでした。
以後、マスコミの朱氏へのバッシングもぱたりと止みます。 (つづく)
【羅平県の新特産】
さて、「皇蜜」が日本で売られているわけは、前回、書いたように日本人が深く関わり、雲南農業大学が「発見」し、製品化したからでした。
一方、中国で注目されつつある「皇蜜」は大学以外に仕掛け人がいたのでした。
(以下、『雲南信息港』2013年11月12日よりhttp://yn.yninfo.com/message/mes/201311/t20131112_2176727.htmlなどを参考とします)
2007年、羅平県出身の朱洪坤が雲南農業大学を訪れます。彼は出身地で一旗揚げたい、そのために羅平の特産品のハチミツで何かできないか、と考えていたのです。軍に7年勤務し、除隊後、昆明で様々な職業を経験し、苦心の末、ようやく創業した広告業を軌道に乗せたところでした。
そこで研究者の話を聞く中で、世界規模のハチミツ業を起こす目玉として「ヤハシの蜂蜜」に着目。雲南土着のミツバチよりもミツの採取に効率のよいアメリカから取り寄せたイタリア蜂を雲南農業大学からもらい受け、羅平県で菜の花ハチミツを手始めに養蜂に取り組みはじめます。
そのころ羅平県には中国文化大革命期の1969年に「知識青年」として雲南に下放され、ハチミツ業を起こした雲嶺蜂業工貿有限公司のリーダー曽林章など50家ほどの中小や家内制の養蜂業者がすでにありました。彼らが使うミツバチは雲南にもともといた小型のハチ。牛糞と泥を捏ねた箱に巣を作らせ、花の時期が終わった頃、年に一回、かち割ってハチミツを取り出す方法が主でした。
地元のハチは病虫害に強く、飛距離はあるものの、ミツの採取量は少ないため、どうしても厳密に一種類の花限定とはならず、様々なハチミツが合わさった「百花蜜」になってしまうこと、大量採取は難しいなどの欠点がありました。ちなみにこのタイプの養蜂は雲南各地で見られ、雲南中東部の文山の農村でも見かけました。
それを朱洪坤は変えたのです。ただし、病虫害に弱く、寿命が短いため、しばしば路上に大量死する光景が見られ、地元や環境を心配する識者からの反発を浴びました(『雲南経済報』2011年6月30日)。
やがてヤハシ蜜の農場を羅平県に5カ所もうけて満を持して採取を開始。
また、本業の広告業の嗅覚を最大限生かしてヤハシ蜜を、より贈答品としての価値を見た目にもわかりやすく工夫していきます。
まずヤハシの蜜がかちかちに固まる性質を生かして、中国人が喜ぶ円盤状に固め、包装も金の布地にいかにも大切そうにおさめ、効能書きを添付。「皇蜜」の名で声望を高め、この章の初回にも書いた通り、2011年11月に羅平県の朱氏の率いる蜜語蜂業科技開発有限公司が国際農業博覧会で金賞を受賞、一気に雲南の新たな特産品の地位を獲得したのでした。
以後、マスコミの朱氏へのバッシングもぱたりと止みます。 (つづく)