雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

昆明の醤油4

2009-05-31 23:45:19 | Weblog
今や、雲南料理にかかせない醤油。おぼろ豆腐の上に直接、醤油をかけたり(写真中央)、雲南春巻の付け汁にも醤油が(写真右下)。
 この付け汁は醤油、唐辛子、セリ科の香菜を刻んだものでつくられている。それにゴマが入ることも。
 この汁をベースに雲南の鍋を食べるときは、スープでのばして付けタレとする。大きな体のおじさんが小さな付け汁の器に鍋からよそったスープを入れ、無心にかき混ぜる様子は火鍋店の一種の風物詩ともいえよう。

【スーパーで世界の醤油が手に入る】
 中国人は日本人ほど醤油を使わないといわれていますが、雲南の大衆食堂には、たいてい好みでかけられるようにと、唐がらしに山椒の粉、そして醤油がテーブルの上に置かれていました。

 スーパーマーケットには醤油専門の棚が必ず設けられており、北京の老舗「王致和」や広東の「海天」など中国各地の有力メーカーを始め、日本の「ワダカン」、「キッコーマン」、そして地元の「拓東」と、数十種類のラベルが華やかです。
 
そして種類も豊富。もっとも日本に近い醤油が「黄豆醤油」と書かれた大豆が主原料のもので、日本と同様、濃口と薄口があります。様々な食材のエキスを混ぜた醤油も多く、「昆布醤油」「椎茸醤油」「魚汁醤油」「麻辣醤油」など様々です。
 ほかに日本同様に大豆より小麦が多い「白醤油」「甘口醤油」、最近では「鉄強化醤油」などもでてきました。ある意味、日本より恵まれた醤油事情といえるでしょう。

 ちなみに市場にいくと、「醤油」とインクで書かれた白いプラスチック桶に入った黒っぽい液が1,2品あるだけ。保存がよくないのか、香りの抜けた、少し焦げた味のする「拓東」醤油のなれの果て、といった哀しいものでした。豆板醤などの紅くこってりと盛り上げられた味噌系に完全に押されていたのです。

 今でこそ、スーパーでは華やかな存在の醤油ですが、中国の計画経済時代には、穀物は地元以外に流通させることが禁じられていたため、小麦と大豆を使う醤油は地元産以外ありえなかったという伝統が、市場に強く残されているのかもしれません。

 それだけに鮮度のよい、おいしい醤油は拓東の直売所、という観念が今なお根強くあるのは、保存のよくない市場の事情と、特殊な経済下での歴史も反映しているのでしょう。

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昆明の醤油3

2009-05-24 21:14:55 | Weblog
写真は昆明の拓東路にある明の永楽17年(1419年)に建てられた元代の風格を残すとされる道教寺院の真慶観。
 寺院内の碑文には清の時代に修復のために寄進した塩商人の名前が丁寧に彫り込まれている。驚くべきことに陝西(省)楡林府、貴州(省)鎮遠府、山東(省)武定府と各地からの寄進者の名前がズラリ。当時、中国の交易道としていかに雲南が重要な位置を占めていたかがわかる。

【塩の集散地で生まれた醤油】
 雲南では古来、茶と塩は重要な物産でした。茶はシーサンパンナ奥地の易武からプーアルをへて昆明へ、塩は大理に近い、山間の地・黒井などの雲南北部から馬の背に揺られて運ばれ、交易の拠点であるやはり昆明へと運ばれました。その塩と茶の集散地となった場所が拓東醤油工場のあった土地周辺だったのです。

 その証拠に醤油の直売所のほど近く、拓東路と白塔路との交差点にある道教寺院の真慶観には、清光緒7(1881)年に雲南の塩商人が修復費を集めたと記された祠が忘れ去られたように安置されています。その寺には、かつて茶をたてるために使われたという井戸も残っていました。名水地として名をはせた時期もあったのでしょう。

 また二〇世紀初頭に欧州人が撮影したという雲南写真展では拓東路の大門の下で半円状にがちがちに固められた塩と馬を脇に置き、ぼんやりたたずむ現地の運び人の姿を見つけました。

 このように塩、水の確保に苦労しない場所であることから自然と醤油工場もつくられ、雲南を代表するブランドへと成長する素地となったのでしょう。

(ちなみに問題の道教寺院は裏門から入ると真慶観、表門には三茂茶屋という安っぽい看板がある。一見すると土産物屋にしかみえない不思議なところ。
 勇気をもって奥に入るとようやく寺としての機能に出会える。このような奇妙な場所だからこそ、中国の数々の歴史の荒波に揉まれながらも、貴重な碑文が生き残ったのかもしれない。武定候、つまり三国志演義で有名な雲南に遠征したことでもしられる諸葛亮孔明に関する碑文もあった!)

*5月3日にお知らせしました雲南懇話会に参加ご希望の方は、できれば下記宛メールアドレスまでお知らせください、とのことです。お手数ですが、よろしくお願いします。
当ブログをごらんいただいているだけでも、本当にうれしいです。私の話というより、雲南懇話会の他の方々の話がきっとおもしろいかと思われます。有料ですが、ご興味がありましたら、ご参加ください。主催の前田さんも参加をお待ちしております、とのことでした。
(前田栄三 e3maeda@ab.auone-net.jp )
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昆明の醤油2

2009-05-17 22:09:29 | Weblog
写真は昆明市内の地蔵寺に伝わる大理国時代(938年~1254年)につくられた「経幢」と呼ばれる仏教の経文を刻した6角形の石柱。軽く人の背丈の2倍はある。丸みのある彫刻にはどこか南国風の風情も漂う。
(昆明市博物館にて。地蔵寺で長らく放置されていたものを1919年に外国人が見つけ、地蔵寺を公園として修築。1987年に公園を博物館として修築し、古幢を博物館の目玉としたという。現在、博物館の向かいの「古幢小学」の名にその名残が見られる。)

【醸造の本場・浙江省から】
 『昆明商業志』によると1949年より前に浙江省からきた商人が昆明に醤油の醸造技術を伝えたといわれています。その後、醤油工場は百花繚乱の時代を迎え、1956年には当時、昆明で有名だった大陸醤園、大通醤園、老同興醤園など6つの醤園が合体して拓東醤油の前進にあたる国営工場・大陸醤菜を発足させたとか。

(まるでどこかの国で醤油会社と同じですね。確かアメリカでの家庭用醤油シェア50%、国内30%〈キッコーマンホームページより〉を占める「キッコーマン」も市中の6つの醤油所が合体して、6角形の亀甲マークで象徴させた、という話もあります。)

その後、何度か名称変更を行い、やがて工場が拓東路にあることから拓東醤油の名で親しまれることとなりました。ちなみに2000年に工場は市郊外に移転しました。
【8世紀頃から受け継がれた由緒ある地名】
さて拓東とは、中国の唐代に雲南を支配していた南詔国(738年~902年)の昆明にあった城の名です。

長安を都とする唐からの数度の遠征で城は壊されましたが、何度か修復され、「南詔国」に次いで雲南を支配した「大理国」の時代には大理に次ぐ第2の根城となりました。

モンゴル族の支配する元朝に最終的に城は滅ぼされるのですが、道の名として残ったというわけです。実際、昆明商業の表玄関として数々の寺院や門が建てられ、元以降の遺跡がこの地には今なお、雲南にしては珍しく豊富に残されています。

(昆明市博物館があるのも拓東路です。ちなみに城内を碁盤の目状に整備する中国の都市計画により、道の名がすなわち地名の同義語として中国ではごく普通に使われています。京都でもそうですよね。) つづく

             

古幢の全景。誰でも間近でじっくりと観察できるのが魅力。石は砂岩で削りやすそう。もちろん、中国各地の習慣に基づき、この博物館でも写真撮影は自由。
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昆明の醤油

2009-05-10 21:51:19 | Weblog
拓東路の醤油直売所にて。(午前10時撮影)

【拓東の醤油】
 昆明百貨大楼などがひしめく中心繁華街より東に伸びる拓東路。いまや近代的なビルがひしめく6車線道路をちょいと曲がった一角に、周囲の雰囲気とは明らかに違うレトロなムード満点の行列があります。

 人々の手に握られているのは、2リットルは入りそうな、もとはサラダ油などが入っていた空のペットボトル。じつは、ここは昔からある醤油工場の直売所。彼らは地元産の拓東醤油を買うために並んでいるのです。朝8時から夕方6時まで連日、その行列が途絶えることはありません。

 今やスーパーにいけば瓶詰でも量り売りでも、同じ内容のものが同じ値段で買えるというのに、間口一間ほどのトタン屋根の小さな直売所に並び続けるというのはどういうことなのか。昆明の七不思議の一つともいわれている怪現象です。地元の新聞でも、そのアナログ的な風景を懐かしむかのようにたびたび、ニュースに取り上げているほどです。

 並ぶ人は、何も近所の人ばかりではありません。バスを乗り継いで来るお年寄りもいれば、オフィス帰りに立ち寄るOLの姿も。お年寄りは「昔からの習慣だから」といい、OLは「安心だから」といいます。

 この小さな店舗だけで毎日1トン前後の売り上げがあるとか。これは拓東醤油の工場生産量の2分の1に相当する量です。街の料理店の看板には誇らしげに
「用拓東醤油」(拓東醤油を使ってます、の意)と書かれていることがありますが、それは街の人の目には「本物を使った旨い店」と映るのです。
 店先でたまり醤油のような黒々とした醤油を、お店の小ビンに移しかえる料理屋の店員さんを何度見たことか。

 値段も、安い。スーパーマーケットで比べてもその差は歴然です。拓東醤油ビン詰め500ミリリットルで2.5元ほど(約40円)。一方、香港産の名ブランド『李錦記』が6元ほど(約90円)、キッコーマン醤油が日本の定価(約300円)そのまま。昆明っ子が誇る名ブランドにして、庶民の味、なのでしょう。

 香りや透明感はないので、冷奴や刺し身などには向きませんが(中国では本来、生食の習慣がないので、その必要ない。)炒めものや煮物には抜群の色あいと風味を発揮します。

 たとえば地元産の山菜とニンニクの炒め物、といったシンプルな料理でも、拓東醤油を使うとアメ色に輝く照りに、ほどよい甘味、ほのかなしょっぱさが醸されて、これぞ中華、といった風情になるのです。  (つづく)

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おまけ・第12回雲南懇話会の御案内

2009-05-03 20:07:53 | Weblog
当ブログも週一回の更新で3年が経ちました。現在、毎週400人以上の方々が見てくださり、ときには600人台の方が見てくださっているようです。本当にありがとうございます。
さてゴールデンウイークということで、雲南に関する会のお知らせです。


 雲南懇話会では、雲南の研究や旅行、登山などを行うさまざまな人々が集まり、2004年12月よりほぼ年に2回、発表しています。カイガラムシの効用など不思議なお話や歴史や地理学的研究の第一人者による最新の研究成果なども聞くことができ、なかなかおもしろい会です。
 そこで誠に僭越ながら私も6月に雲南の食についてすこーしお話させていただくことになりました。主催の方からも「このブログをごらんの方をたくさん連れてきてください」と早々に御案内いただいております。お時間がおありでしたら、どうぞお立ちよりください。
              以下はその案内の転載です。

1.日時;2009年6月27日(土)13時~17時30分、その後「茶話会」
2.場所;JICA研究所・国際会議場  http://www.jica.go.jp/jica-ri/about/access.html
 JR中央線・総武線「市ヶ谷駅」下車、東京メトロ有楽町線・南北線「市ヶ谷駅(6番出口)」下車、徒歩各10分。 住所;東京都新宿区市ヶ谷本村町10-5

3.内容; 演題が1題追加されること等、変更の可能性があります。

(1)「雲南の食の世界」-過橋米線のふるさとを訪ねて-
               私の発表

(2)「西北ヴェトナムの盆地世界」-黒タイ族の村落生活
               国立民族学博物館  樫永 真佐夫

(3)「雪氷圏の変動を追う」-妙高・ヒマラヤ・南極-
      農業・食品産業技術総合研究機構、AACK 横山 宏太郎

(4)「河西回廊(シルクロード)の今」-ゴビ砂漠の湖・居延沢-
             人間文化研究機構、AACK 中尾 正義

4.懇話会参加費用; @2000円(学生院生は無料)
  茶話会参加費用; @1500円(学生院生は500円)

1. 懇話会等参加申込;前田栄三 e3maeda@ab.auone-net.jp or 小林尚礼 bakoyasi@nifty.com まで。
 当日参加も構いませんが、予め参加者名簿にお名前を記載出来ませんので、ご了承ください。


ご参考 ; 懇話会では自然科学・社会科学を問わず、様々な分野で交流を進めたいと思っています。
この為、対象地域は雲南・チベット地域を中心にラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナム、タイ、ブータン、インド、ネパール、パキスタン、四川省、青海省、新疆ウイグル自治区、モンゴル等などに及びます。



参考資料
第12回雲南懇話会講演要旨など

1.「雲南の食の世界」-過橋米線のふるさとを訪ねて-          
 ガイドブックなどで雲南料理のトップにあげられる過橋米線(客の目の前で、熱々のスープに米製の麺とさまざまな具を入れて食べるもの)。 その発祥の地とされる雲南省南東部の蒙自、個旧、建水の地を訪ね、その伝承を検証するとともに、その地に伝えられる米線の製法を紹介する。(私 記)

2.「西北ベトナムの盆地世界」-黒タイ族の村落生活-         樫永 真佐夫
 ラオス北部や中国雲南省と国境を接する西北ベトナムは、他民族・多言語混交地域として知られている。その複雑な民族分布は、盆地、山腹、高地という地勢に応じて理解できることが知られている。この発表では、各盆地で水稲耕作を営み、首領を頂点とする階層的な盆地小国家(ムアン)を築いてきた黒タイ族の村落生活の現状を報告する。(樫永 記)
抗仏戦勝利の激戦地「ディエンビエンフーの今」の話を聞けるかもしれません。(前田 記)
 
3.「雪氷圏の変動を追う」-妙高・ヒマラヤ・南極-          横山 宏太郎
横山氏はネパールヒマラヤでの氷河調査や、国内での積雪の分布・変動研究に従事。
日本山岳会チョモランマ登山隊、京都大学ブータンヒマラヤ登山隊(マサ・コン峰初登頂)、日中合同梅里雪山登山隊(登頂断念)などに参加。 第14次(出発1972年)と第35次(出発1993年)の南極観測隊に参加、第35次では越冬隊長を務めた。2008年には「大日岳巨大雪庇の形成機構に関する研究」で第10回秩父宮記念山岳賞を他の2人と共に受賞。受賞の内容についても少し触れていただけることと思います。新潟県上越市在住。 (前田 記)

4.「河西回廊(シルクロード)の今」-ゴビ砂漠の湖・居延沢-       中尾正義
タクラマカン沙漠の東にある祁連山脈(祁連山は匈奴語で「天の山」の意)の北麓に沿ってシルクロードが通っている。河西回廊と呼ばれる地域で、その北側に居延と呼ばれていた地がある。居延の地には900年余り昔にカラ・ホト(黒水城)と呼ばれる都があった。豊かな水に恵まれた居延沢(居延海ともいう)という湖の湖畔である。
時が流れ、居延沢の水も次第に涸れていき、700年ほど前には居延沢に流れ込んでいた黒河という河の水が湖に来なくなった。居延沢はもう一つの彷徨える湖なのです。
今回は、最近の研究による居延沢の歴史を紐解き、水問題にも言及する。 (中尾 記)
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