雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

インドネシアでブーム?の雲南③

2014-08-26 17:40:15 | Weblog
写真はニアス島の北部グヌンシトリにある小学校。この小学校でも津波の教訓をこめた謡教育が進んでいる。とにかく子ども達は、どこにいっても弾けんばかり。

【つながる日本】
 2004年の津波災害復興支援をきっかけに高藤さんはじめ、多くの日本の人達がその後も継続してニアス島に有形、無形の支援と信頼関係を丁寧に築いているためでしょうか。島の人はとても友好的。小学校や中学校、あるいは街中でも「アリ・ガトー」という日本語が聞かれたり、モジモジした後に弾けるような笑顔でうれしそうに抱きついてきたり、写真のツーショットをとりたがる人が多いこと。私には、こんなことは、はじめての経験です。

「将来は日本に留学したい」と目をキラキラさせて語る少年や、「JAPAN」Tシャツを着ている人も見ました。メダンでも、料理屋で見かけた青年のTシャツが「I ハートマーク JAPAN」だったことも。
 行動に打算がなく、素直に日本が好きなことが伝わってくるのです。(そうはいってもお年寄りのなかには、戦時中の日本軍のイメージが残り、日本にマイナスイメージを持つ人も当然います。)

中国大陸では、日本人とわかると、壁がすーっとできて、なかなか友好ムードを作れないことが多かったので、これはとても新鮮な体験でした。もしかしたら私自身もいつの間にか壁をつくっていたのかもしれませんが。

 以前も書いたように雲南にも日本軍の進撃があり、雲南のテレビで夏になると「オカアサン(音がおかあさんになる漢字5文字で当てた字幕つき。古老はおかあさんの意味は知らないらしい)」といいながら突撃して死んでいった、などと話す雲南の古老のインタビューを流したり、博物館には日本軍のよくない行いの写真や、日本軍から解放してくれたアメリカの軍隊の英雄伝とその部隊に所属していたアメリカ兵士が雲南訪問、などといったニュースを今で流れています。
 あれだけの放送を見てしまえば、日本人大好き、などと言う人は、よほど日本の誰かや何かだ好きだという、専門家かマニア以外なくなってしまいそう。なかには日本人といっても「それはどこの民族?」と日本という国すら知らない人もいましたが。

 話がそれました。

 ニアスの人々は素敵ですが、残念なことも。世界の支援で立派な道路や橋ができたために、津波や地震でせっかく生き延びた人達がいま、交通事故でなくなっていくこと。高藤さんによるとガソリンスタンドができて、車やバイク保持者が増加するなど、生活も地震後、大きく変化したとのことです。

 食事を食べたあとバナナの葉を捨てれば自然に還っていた生活が抜けないニアスの人にとって、プラスチックでできたいろいろなものがゴミとなって、川や海、下水路を埋め尽くしつつあるのも、じつに心配で、残念な光景です。

 また、日本にくるインドネシアからの研修生は、まじめな人が多いにもかかわらず、日本の人との交流がうまくできず、いわれない悲しみの中にいるケースもあるようです。

 インドネシアに尊敬される日本。メダンでは今年初め漫画の「宇宙兄弟」の大規模な展示館が開かれ、多くの声優さんが日本からやってきて、大盛況だったとか。
 地道に築かれている日本への信頼は大切にしたいですね。
(つづく)

*次週の更新はお休みさせていただきます。なかなか、雲南につながらんぞ、と思わずに次回の更新もごらんいただけたら幸いです。

*雲南では四川に近い北東部の昭通市の魯甸県で8月3日に地震が発生し、617人が死亡。さらに同市永善県では約3400人が被災したとのことです。中国でも大きく報道されていて、日本の日立が100万元(1650万円)義援金を送ったことが新聞に出ています。この災害については、うわさ、というかデマも含めて、後日、触れたいと思います。
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インドネシアでブーム?の雲南② ニアスにて

2014-08-23 12:14:59 | Weblog

ニアス島南部のトゥルクダラム(TELUK DALAM )にあるネガリ第一中学校にて。津波の防災知識が語られた謡で踊る中学一年生。地元の民族衣装をアレンジした服を着た太鼓隊の前に立つ犬は、校長室だろうが、どこだろうが、顔パスで移動できる。おおらかな中学校のようだ。(2014年夏撮影)


【日本発 津波の防災教育】
さて、ニアス島は和歌山県くらいの大きさです。熱帯雨林に覆われ、いまだ外部の人間が一人で歩くと戻れないほど深い森も存在しています。かつては首狩りの風習もありましたが、私が行ったときには博物館に痕跡があるのみで、今ではごく普通の暮らしです。
 第2次世界大戦末期に日本軍が築いた弾薬庫跡が、スマトラ島側の海に向けて、崩れることなくコンサートでも開けそうなほど美しい構造物として残っていました。

じつは、この島は2004年12月のスマトラ島沖地震による津波と2005年3月のニアス地震で甚大な被害を受けました。

津波は今までも200年に一度くらいのペースで島を襲っていたのですが、昔のよくない事柄を語るのは不吉との風習が根強かったために、現代には津波という現象はまったく伝えられていませんでした。そこへ大地震。直後に大きく波が引き魚が手づかみでとれ放題だと大勢が浜に出て、そのまま津波にのまれてしまったのでした。

このために世界中から支援の手が入りました。

日本も国レベル、民間レベルでさまざまな支援を行い、2009年3月からはJICAによって主要道路に地震にも強いという6つの橋がかけられました。このコンクリート橋の橋脚には日本とインドネシアの国旗が描かれています。

今回行った目的の一つは日本からいまも様々な支援の手が伸びているなかで、日本の高藤洋子さんの活動を知ることでした。

彼女は現地の人々が津波と地震から立ち直り、日常を取り戻した現在、津波の被害を今後、出さないために地元に伝わる謡のリズムに「津波がきたら、高い山にまず避難するんだよ」という津波から身を守るための内容の歌詞を地元の言葉でつけて、広める、という活動を行っているのです。

その手始めに地元の小学校や中学校で教え広める活動からスタートしました。こうすれば子どもを通じて親も知ることができます。さらに次の200年後に向けて教訓が伝わればという、じつに壮大で息の長い活動を目指しているのです。

まず島の南にある中学校に行きました。建物は午前は小学校、午後は中学校として使われていました。インドネシアは日本と違って子どもの数は学校が不足するほど多いのです。(インドネシアの人口は中国、インド、アメリカ合衆国に次いで第4位。現在2億3700万人を超えている。)

その日は高藤さんが学校にくる、というので中学校は大賑わい。いかにも中学校の体育の先生のような男性教諭が拡声器を使って子ども達を並ばせます。子ども達は大人に従うふりをして、キャーキャーいいながら外国のお客さんをのぞきにきたり、飲み物を飲んでブラブラしたりと、なんとものんびり。私の中学時代よりも、よっぽどのびのびとして幸せそうです。

高藤さん考案の津波の防災踊りのために子ども達は地元の民族衣装を着け、少年、少女が太鼓を叩きながら、ちょっとやらされ感のある雰囲気で謡い、踊っていました。(小学生は、もう、真剣。健全な中学生なのだ!)。単純な踊りだというので、途中から私も加わったのですが、私のあまりにセンスのない動きに子ども達は、笑い転げていました。「これはバツゲーム?」と思うほど、私には苛酷な時間ではありましたが、その後、なんとなく慕われたのは、体を張ったおかげ、と思うことにして自分をなぐさめておりました。
    (つづく)
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インドネシアでブームの雲南 1

2014-08-17 11:13:03 | Weblog

日本軍の弾薬庫跡近くの広場で遊ぶ子ども達。どこに行っても、子どもたちが群れて生き生きとして、かっこいい


写真下は、ドーム状に作られた日本軍の弾薬庫跡。写真上はその前に拡がる海。この先にはスマトラ島がある。


【日本より涼しい】
唐突ですが、この夏、インドネシア北部にあるスマトラ島の、すぐ西にあるニアス島に行ってきました。旅行ガイドブック『地球の歩き方 インドネシア』ではたった1ページで書かれた小島の特集ページに世界的なサーフィンスポットとして紹介されているだけの島です。

 まずシンガポールを経由してスマトラ島の商業都市・メダンへ。そこからプロペラ機に乗り換えるのですが、地図でみるとスマトラ島にへばりついたホクロのように、とても近い島のようです。それなのに飛行機で1時間もかかるとはどういうことなのか? 

 調べるとスマトラ島は日本の国土の1.25倍ある巨大な島だと分かりました。そこを事実上横断するのですから時間がかかるのです。

壁に貼られた四角い世界地図ではスマトラ島は日本の本州ぐらいの大きさにしか見えません。でも地球は丸いので、メルカトル図法の平面的な地図では緯度が高いほど、面積が大きく見えてしまう。つまり、日本は赤道直下のインドネシアより膨張して描かれているのです。この地図のマジック、中学校で習ったはずなのに実感で分かっていませんでした。

 ニアス島はスマトラ島から125㎞沖合。ちょうど東京-沼津(静岡)ぐらいの距離です。

 そして、赤道に近いにもかかわらず、シンガポールもメダンもニアス島も日本よりも湿度が低く、気温も30度いけば高温で、夜はクーラーがいらないほどの快適さ。低緯度の方が暑いに違いないと、日本で暑さに耐えるときのモチベーションにしていた私はショックをうけたのでした。

 インドネシアでも日本の暑さは大きなニュースになっていたらしく地元の方に「日本は暑さで人が死ぬって本当ですか?」と聞かれ、暑さで死ぬ今の日本はやはりただごとではない、と、今更ながら愕然としたのでした。

【築かれた日本への絆】
さて島の面積は和歌山県くらいの大きさ。熱帯雨林に覆われ、いまだ外部の人間が一人で歩くと戻れないほど深い森が存在しています。かつては首狩りの風習もありましたが、今はなく、人々はごく普通に洋服で暮らしています。

また第2次世界大戦末期に日本軍が築いた弾薬庫跡が、スマトラ島側の海に向けて、崩れることなくコンサートでも開けそうなほど美しい構造物として残っていました。

 2004年12月のスマトラ島沖地震による津波と2005年3月のニアス地震で甚大な被害を受け、世界中から支援の手が入りました。
日本からもさまざまな支援を行い、2009年3月からはJICAによって主要道路に地震にも強いという6つの橋がかけられました。日本の支援は、往々にして地元の人にほとんど知られず、ために感謝されることもなく終わりますが、このニアスでは、このコンクリートの橋の橋脚に日本とインドネシアの国旗が描かれ、日本が支援したことが誰の目にもはっきりと分かるようになっていました。

 また、日本の様々な人達がいまも継続してニアス島に有形、無形の支援と信頼関係を丁寧に築いているため、小学校や中学校に行くと「アリ・ガトー」という日本語が聞かれたり、モジモジした後で弾けるような笑顔でうれしそうに抱きついてきたり、写真のツーショットをとりたがる人が多いこと。こんなことははじめての経験でした。

「将来は日本に留学したい」と目をキラキラさせて語る少年や、「JAPAN」Tシャツを着ている人も見ました。メダンでも、料理屋で見かけた青年のTシャツが「I ハートマーク JAPAN」だったことも。行動に打算がなく、素直に日本が好きなことが伝わってくるのです。(そうはいってもお年寄りのなかには、戦時中の日本軍のイメージが残り、日本にマイナスイメージを持つ人も当然います。)

 ただ、世界の支援で立派な道路や橋ができたために、津波や地震でせっかく生き延びた人達がいま、交通事故でなくなっていくのが、残念です、と、いまもニアスで支援活動を行う日本の女性・高藤さんは語ってくれました。ガソリンスタンドができて、車やバイク保持者が増加するなど、生活も地震後、大きく変化したとのことです。

 ともあれ、この日本への信頼は大切にしたいと感じました。
(つづく)
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