雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

日本式温泉と座布団1

2013-10-26 11:42:31 | Weblog
               
               

写真上は安寧温泉近くにある曹渓寺。宋代の風格を残した建築といわれている。仏像を収めた宝華閣の檐(ひさし)の穴からは差し込む中秋の名月が、中の仏像の鼻からへその部分をまっすぐ照らすように設計されている。写真下は寺内にわく泉。

【明代から有名な湯治場】
 インド大陸がぐぐっとユーラシア大陸を押す力で盛り上がったヒマラヤ山脈。その山脈の先が連なる雲南は、中国でも地震の多い土地柄です。当然、温泉も各地で湧いていて、昔から湯治場として栄えた地域も数多くあります。

 昆明の西40キロ、路線バスで一時間のところにある安寧温泉もその一つです。

 紀元前の漢の時代には知られていたそうですが、実際に温泉地として開発されたのは明の永楽年間(1403~1424年)、つまり雲南出身の鄭和が大艦隊を率いてアフリカ東岸まで到達するプロジェクトが行われるなど、中国全土が開発ブームに沸く頃のことでした。

明代、中央政府を批判して雲南に左遷され、この地で役人の傍ら、沢山の書物や詩を著した楊愼や、雲南の旅を著した地理学者・徐霞客ら文人墨客が安寧温泉を訪れては、文字に記したため、全国に知られるところとなりました。(楊慎は嘉靖22年(1542年)ほか何度も。徐霞客は崇禎11年(1638年)10月に訪れています。)

安寧市東4キロの法華寺には大理国時代に仏像を石に刻んだ石窟が残るなど、明以前の当地に暮らす少数民族が残した、全国的に見ても珍しい石窟芸術もあります。

有名な泉もあります。明代より水が「あまい」と尊ばれた曹渓寺の泉です。どんな時でも涸れることのない泉として知られていたのですが、2004年ごろより乾期になると「曹渓寺の泉が涸れた」と、1面を飾るようになりました。どんな畑が干上がる写真を見るよりも、地元の人にはショッキングな光景となっています。

 自然に湧きでる温泉池も数カ所あるのですが、今年(2013年3月)の乾期も、すっかり干上がったと大騒ぎになりました。これには気象の変化ばかりではなく、流入する蟷螂川の改修工事や付近を通る高速道の建設などの影響もあるようです。
(つづく/次回はその温泉に入ってみましょう!)

参考資料
邱宣充主編『雲南名勝古跡辞典』(雲南科学技術出版社、1999年)
雲南電視台報(2013年3月5日)http://news.yntv.cn/content/15/201303/05/15_702173.shtml

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くしの髪飾り2

2013-10-19 20:51:00 | Weblog

写真上は雲南北部のシャングリラのチベット教寺院・松讃林寺にお参りにきたおばあさん方。髪は三つ編みにしたり、後ろに編み込んだりしている。
写真下は雲南南部のシーサンパンナで見かけた女性の髪を後ろから撮影。見事に結い上げ、いかにも量産されたプラスチックの櫛と、プラスチックの造花を指している。シーサンパンナの女性は服装も鮮やかな衣装が多く、おしゃれだが、髪飾りはプラスチックに見えれば見えるほど美しく感じるようだった(2004年冬撮影)。

【黒髪、三千丈】
 雲南北部のシャングリラでは、独特な髪型に結ったお婆さんをよく見かけました。顔には深い皺が刻まれていますが、髪はツヤツヤ。

 標高4000メートルを越える上、夏でも涼風が吹き抜ける土地柄。シャワーを使いたくても、ホテルですら冷水が混じり込むほど不安定です。おそらくお婆さんたちは髪をほとんど洗っていないはず。やはり作家の五木寛之のいうとおり、髪は洗わない方がきれいなのかもしれません。(五木寛之氏は実践中とのこと。私は日本でする勇気はありません)。

 雲南南部のシーサンパンナでは、メコン川の上流の瀾滄江で、朝早く、女性が一人で髪を洗っていました。洗い終わった髪は絞って、風にある程度晒すと、くるりと後ろで一度、しばってカモジを作り、そこに何かの角を細く削った棒を一本、差し入れて団子状にしていました。

 さて、シーサンパンナの中心地の景洪から4㎞ほど離れた瀾滄江と流砂河が交差する中洲に「シーサンパンナ勐泐文化園」といううら寂れた公園があります。

 タイ族の王国のあった故地に観光活性化のためにつくられました(1999年の開園当初は「サル山」、2003年に「文化園」に改称。)見所は1987年にシーサンパンナ仏教教会によって再建された千年以上前のタイ風仏塔と、ホテル(閉鎖中だった)、吊り橋、珍しい南方のサルや孔雀など。中洲にあるのでロープウェーで行くのが、大きな目玉です。ただ、出来たばかりのはずなのに2005年には、閑古鳥。南方系のサルたちの「クルルルルッ」「ホーウ」という声や鳥の鳴き声だけが響いていました。(注1)

 そこにひときわ華やいだ雰囲気のグループがうれしそうに歩いてきました。ピンクや金色のタイ族の服装の仲良しグループのお婆さんがピクニックにきたようです。頭には、髪留めの代わりにプラスチックのお箸と櫛が刺さっていました。お揃いできめたのかもしれません。

 華やいだ雰囲気とプラスチックのお箸の髪飾りのアンバランスさが、ちょっとおかしくて、かわいらしかったです。       (この編、おわり)

注1 2012年6月に、仏塔を手入れし、博物館を増設して、「文化」の方向を歴史方面に転換した「文化園」として再リニューアルされた。つぶれてはいない。
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櫛の髪飾り1

2013-10-13 16:05:05 | Weblog
                  
写真はシーサンパンナの中心都市・景洪で見かけた理髪店「印第安」。花嫁の髪も整えていた。
店名は「インディアン」と読む。中国の辞書にも乗る一般的なことば。だが、とくにインディアン風の髪型にしてくれるわけではない。
本店は昆明にあり、パークソン百貨店近くの目抜き通りほか、何店舗か店を構える。2013年現在、創業20年のヘアカット店の有名店だ。北京と変わらないパーマ、カットの腕を持つと、わりと評判が良い。
 メニューは、店頭のガラスに表示されている。
上の写真では読みにくいが「洗頭按摩」
「最新髪芸洗剪吹」(訳:最新の髪型・洗ってカットしてドライヤー)
「健康精油発膜」(オイルマッサージで頭皮と髪をマッサージ。本当に白いヘアクリームをべったりと付けてくれる:筆者注)
などが書かれている。カット代30元(約500円)から。腕利きにかかると100元以上。かなりお高い。(ホームページも持っている。)(写真は2005年撮影)


【頭を洗ってくれる店】
 温かいお湯が簡単にたっぷりとは使えず、使いやすいシャンプーもないと、髪を洗うのは大仕事です。また、髪を見栄えよくカットしてくれる技術者の歴史も、そんなに長いものではありません。そのため古来、とくに女性は細かい櫛でよくくしけずるだけの、長い髪が一般的でした。
となると、いかに髪をまとめれば、よりきれいに見えるかに感心が集まります。日本なら江戸時代に完成された文金高島田が最高峰でしょうか。いまでも結婚式でよく使われるカツラですが、地毛ならながーい髪にびん油をたっぷり塗って、結い上げるのにたくさんのこよりで仮止めまでして、数時間もかかります。
 昆明ではシャワーも普及してきたものの、商店街や、閑散とした遊園地のキップもぎり場など、様々な場所で長い黒髪の女性がたらいに湯を張って、人目を気にせず頭にシャンプーをふりかけて洗う姿をよく見かけました。
頭をマッサージしながら洗う「洗頭店」という店まで存在します。一度、私も洗ってもらいましたが、冬だというのに洗うお湯は時折、冷たくなるわ、耳の穴にまで冷たい水をたらし込まれるわ、しまいには冷風のドライヤーでゴワゴワに乾かされるわとエライ目に遭いました。
 髪切り屋の看板に「日本○○」「資生堂○○」と書かれている場合は丁寧な洗髪と技術の高さを醸したい店の景気づけとなっているようです。実際の技術とはなんの関連もないところがつらいところです。(つづく)
                  
洗頭店。こういう店は昆明のあちこちにある。ここはタイ族の女性3人で経営していた。もとはタイ式マッサージ店なのを改装して出来た店。壁には民族衣装やタイ族の神の使い、孔雀の羽でできた扇型の羽根飾りが飾られている。清潔な店。タイ族はとても清潔好きが多い。ちなみに頭を洗う台に横たわると、理科実験室の机に登っているような気分になる。
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沐英14 移民政策

2013-10-06 17:28:55 | Weblog
写真は雲南中西部の世界遺産の都市・麗江の屋根にたたずむ瓦猫(ワーマオ)。沖縄のシーサーのようにユーモラス。当地の少数民族・ナシ族の家の上で青空をユーモラスに見つめている。沖縄や雲南で見られる習俗はかつて江南の地にあったものが結構ある。ちなみに江南では今では見られない。

【一〇万人規模の大移民】
明末になるにつれ、ムチャクチャになる沐英の末裔たち。それでも雲南統治が出来ていたのは、やはり初期の沐英・春父子が作り上げた統治機構が揺るがなかったことが大きいでしょう。その柱が屯田制でした。

洪武14年(1381年)から始まった明朝の雲南攻略で30万人もの明の主力軍(奥山憲夫氏の研究によると、南京防衛の精鋭部隊である12の衛のうち、6衛が雲南に赴いたという)が雲南へ攻め込み、洪武17年には一応の決着を見て、多くの主力軍が南京へ帰るなか、沐英とともに計9万人ともいわれる軍隊が残りました。

洪武19年(1386年)には兵の食糧確保を目的に彼らが自給自足し、必要な時に防衛して明の領地を守る屯田を沐英が朝廷に上奏し、朱元璋が裁可する形でその後の雲南経営の柱が認可されます。(『明実録』巻179)

こうして明軍の屯田兵と元軍の投降兵、さらに雲南に送られた流刑者も含め10数万人の中原の民が移住しました。屯田兵は一族郎党を連れてくるので、相当数が中国全土から移住してきたのです。衛の中でも最大の昆明城内では、住民の半分が官軍だったそうです。

沐春は彼らとともに灌漑工事に加わり、談笑することもあったといいます。こうして雲南の防衛の地に14の衛所(1つの衛所に屯田兵が計算上では5600人所属できる)がつくられました。これらの地には、さらに内地から移民させられる民が大勢いました。

たとえば洪武23年までの10年ほどの間に各民族の反乱の鎮圧のための動員数は確認されるだけでも156万798人に及んだそうです。(奥山憲夫「洪武朝の雲南平定戦1」『東方学会創立50周年記念東方学論集』1997年、同「洪武朝の雲南平定戦2」『史朋』28、1996年)

何度か書いていますが、雲南では、いまでも多くの人に出身地を訪ねると「明の時代に南京の柳樹湾の高石坎からきた」と異口同音に答えます。私も実際に何度かきいて驚きました。この地名は、現在、存在しないのですが、明代に中国各地から雲南行きの屯田兵として集められ、編成されたところでした。南京城の近くです。

また、元末明初の富裕層・沈万三の伝説というのが蘇州近郊にあります。彼は入れたものが倍になるお盆を拾って大金持ちになるのですが、朱元璋ににらまれて、盆を奪われた上、最終的に雲南へ従軍させられました。一説によると「通番」、つまりムスリム商人との取引によって財をなしたともいわれていますが、このような伝承からは江南と雲南とのつながりを感じます。
また雲南征圧から60年余り後の正統7年(1443年)の報告書によると、その大半は逃亡して漢軍は2万人以上いたはずのところが3000人あまり、その他の民族軍も1000人以上だったのが600人ほどになっていたそうですが(『明実録』より)、逃亡兵は衛所から雲南各地に散らばって逆に漢文化は雲南に広まったのでした。

このように雲南の地には、中国全土からたくさんの人々が集まり、それにともなって明代の多様な食が雲南にもたらされました。やがて時代が移って多くの食文化が中国各地では消えてしまい、新たな食文化のモードへとうつっていく中で、雲南では少数民族の食文化とブレンドされて明のころの食文化が現代にもしぶとく生き残るという、雲南料理の特殊な環境が出来上がっていったのです。
(豌豆粉、鴨のさまざまな加工品、石敢当など、これまで調べたもののなかでも雲南独自の文化と思っていたものが、じつは明以前の江南文化で、しかも、江南では消えてしまった文化だったことが結構ありましたね)

参考文献
・鄭一省・王国平著『西南地区海外移民史研究-広西、雲南為例』社会科学技術出版社、2013年
・楊徳華著『雲南民族関係簡史』雲南大学出版社、2011年
・上田信『中国の歴史9 海と帝国』講談社、2005年

(この章、おわり)



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