雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

閑話休題・SMAP

2011-09-25 12:52:55 | Weblog
写真は、昆明市内の世博園の日本館ブース(2004年撮影。)左側には床の間があり、観葉植物を剣山で生けた斬新な花盆がある。その横の段違い棚には目が2つ入った高崎のだるまと、小さい金屏風。大きく「祭」とかかれた大うちわも展示されていた。日本館を出ると、日本庭園まであつらえてある。内容は芝生を貼って、少し築山があり、竹が植わっているのだが、これを「中国庭園」と呼んでもなんら差し支えない風景となっていた。

【なぜか 日本を語るときの「おまもり」に】
 日本でテレビをひねると、どこかに必ず現れるSMAP。今回、中国の要人が丁重にお迎えしたことで、日本のマスコミを驚かせていました。

 私も2004年に中国で暮らしていた頃、日本人では小泉総理に続いて日本の皇室の結婚事情、それに続くぐらいの注目度で「木村拓哉」が、ずいぶんと新聞に載っていました。といっても、彼の私生活のはずはなく、当時は香港のウオン・カーワイ監督の映画『2046』で、‘「あの」木村拓哉が謎めいた男役を演じている。彼のあの「瞳力」でどれだけの人を迷わせてくれるのか’などというコメントぐらい。

 中国の一部の人にはあの、ちょっと流した感じの目力が魅力らしい・・。(と新聞評に書いてあった。)当然、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」で木村拓哉がハウルの声を演じたことも話題になっていました。

 その春、昆明市北東郊外の昆明国際園芸博跡地の「世博園」に行ったとき。以前、そこに世界各地のパビリオンとおみやげが並ぶ中で、このブログで日本のあやしいパビリオンがあったことをご紹介しました(2007年6月22日)。
 その日本館に「日本の音楽」として置かれていたDVDが唯一、一枚。それがSMAP。

 なぜ、童謡でも、演歌でも、その時、はやりの日本ポップスでもなく、SMAPだったのか。当時から、かなりな謎でした。
(当時の日本ポップスを中国人が歌ってヒットしていたものに氷川きよしの「きよしのズンドコ節」キロロの「未来へ」(ほーら、足もとをみーてごらん、これがあなたの歩む道~、の歌)がありました。メロディーラインがきれいなものが好まれるようです。ちゃんと版権を取っているのかはわかりません。たぶん上海万博のテーマソングもそういう普段の慣行をしたところ、だったのでしょう。)

 そして今。SMAPのコンサート。谷村新司だって、浜崎あゆみだって、同じジャニーズ事務所の、嵐だって、中国でコンサートを開いているのに、人民大会堂に呼ばれることはありません。また、SMAP全体が人気、というよりは、突出して「木村拓哉」。ちなみに中国のインターネットでどう書き込みがあるかと、検索してみましたが、強力な規制がかかっていて、キムタクの記事にヒットして画像も出るのに数秒後に「探し当たりません。ごめんなさい」と、画面が切り替わる始末。今回のコンサート関連はヒットしますが・・。
 中国の「ダム」問題検索以来の強力なガードに、またまた驚いてしまいました。

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宜良ダックを探して⑪

2011-09-18 16:08:56 | Weblog
                   

写真上は昆明より西北部の楚雄イ族自治州禄豊県にある黒井鎮にある料理屋さんの床。25㎡ほどのさして広くない店一面を、きれいに掃き清められた後、青い松葉を散らしてあった。見た目にも清々しく、香りも立って、ごく普通の大根の味噌煮のおいしさを引き立てていた。
写真下は、黒井の街の風景(2005年撮影。)かつて塩田で栄え、チベット高原をキャラバンで四川、北京、昆明など各地へつないだ茶馬古道の中継地は、その衰退とともに、歴史から取り残され、大きな幹線道路が作りようもない場所だったところから、町並みは偶然にも保存された。(昆明から列車で5時間。「黒井」駅から馬車で20分。)


 北京で北京ダックを学び、雲南へ戻った劉文が地元により見合った形へと改革を成し遂げた。一つは尻の穴をふさぐものを高梁(コウリャン)の茎から地元のヨシ・アシの茎へ換えたこと。一つは温度を職人の勘ではなく、きっちり正確に計るようにしたこと。そして、さらに味を決定的に変える改革が次の点だった。
【劉文の改革②】
③アヒルの表皮に、北京では麦芽糖を溶いた水を塗り込んでいたが、それを雲南産の蜂蜜に変えた。

 蜂蜜なら、一度、塗った後に、又塗って、もみこすると、アヒルの表皮にさらに吸収される効用も。(かさかさ肌の方は自身で体験済みの方もいるでしょう? ハンドクリームがオリーブオイルなどの植物系だと、冬場に皮膚の表面を白くするだけで浸透しない場合でも、馬油などの動物系だとすっと皮膚に浸透して、さらに水分を加えて油を塗り重ねると皮膚の水分と油分が簡単に補えるのと同じ要領ですね。)

 こうして焼き上がりがより一層、金黄赤銅色となり、旨みも増した。
ちなみに麦芽糖水だと皮膚の表面に糖分が残ってしまい、黒くこげる原因となる。

(蜂蜜を何度も揉みこする方法に気づいたのも、劉文が冬にアカギレの手に蜂蜜を塗ってもみこすると、皮膚が吸収する様子から啓示を受けて、取り入れたのだという。こういうことに気づくということは、やはり劉文は水仕事もいとわず働いた農民出身だったのか。)

④燃料に、北京では柴や薪を使っていたが、それを青松葉に変更した。

 松葉は燃焼時間の持ちは悪いが、炉の温度が急速に上がる上、煙が少なく、さわやかな香りも付き、火が消えた後の熱にも持久力があるのだという。

(雲南の北東部・大理に近い「黒井」を旅した時、やはり、気の利いた料理店では、摘んだばかりの青い松葉を床に敷いていました。緑が美しく、よい香りがし、さらに清潔感をアピールできる演出法です。この町は、清の時代に塩がよくとれ、栄えた後、突然、歴史から取り残され、密閉空間のように時代から取り残された町なのですが、往事の料理店のもてなしに普通に使われるものだったのかもしれません。)

ちなみにアヒルを焼く時間は、さばいたアヒルを炉に入れてフタをしてから40分。途中は絶対にフタを開けてはいけないのだそう。
               
写真は黒井鎮全景の暁。
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宜良ダックを探して⑩

2011-09-11 10:09:10 | Weblog
写真は現在の宜良ダックの釜の中。周りを熱が反射しやすいように分厚くコーティングし、その底には真っ赤に燃える炭火が熱を発する。近づくと、ムアン、として熱が立ち上る。

【劉文の改革】
 北京で本場の「北京ダック」に食べ慣れた人達がことのほか愛したという「宜良ダック」。それは、ただ懐かしさから、ではなく、雲南ならでは、の特徴も織り込んでいました。

 まず、原料のアヒル。人工的に太らせたものではなく、自然に放し飼いされたもののうまみは、やはり一段上でした。種類は地元の品種「滇麻鴨」。決して北京鴨のように短期間では大きくはならないので、原料とするには効率は悪いのですが、骨離れがよく、無駄な肉がないので、味わい深さは格別です。

 私もタイの農村で鶏よりも小さなサイズで、まったく無駄な肉のないアヒルの炭火焼を食べたことがあります。おばさんが売りに来て、何気なく買ったのですが、肉質は固いのですが、味の深さにすっかりノックアウトされました。

 さらに劉文が店を出してから3代目の楊徳春が、北京ダックとは一線を画する改良を加え、焼き上がりも鮮やかで、より香り高い烤鴨に仕上げました。改良点は以下の通り。

①アヒルの内蔵を取った後、アヒルを空洞のまま、形よくふくらまし、最後に尻などの穴の部分に詰め物をする作業がある。尻には必ず、節の部分を使うそうだ。この作業は烤鴨の内部を蒸し煮状態にし、外側をパリッとさせるようにする最重要の下ごしらえである。
 じつはこの尻筒は豚の丸焼きで使う方法。こうすると、骨と肉がスッとほぐれやすくなる効用もあった。
 この重要な部品を、北京で行われている高梁の茎から、雲南の南盤江にいくらでも生えているアシやヨシの茎に変更した。

②火は正確に400度に達するように、きっちりと計る。
 炉の中に毛を剥いて白いままの下ごしらえのすんだアヒルをつるし、それから炉の温度を上昇させるのだが、外皮は直接、高温にふれさせることで、温度上昇中に外にしみ出た皮下脂肪が、皮を一層せんべいのようにパリッとさせ、香ばしい香りを放つ。
 一方、内側はアヒルの水分をあふれさせつつも体内にとどめ、沸騰させ、内側を水煮状態にし、さらに、内側にとどまった皮下脂肪自信も脂分の層を作り出し、旨みを一層、引き立たせた。
 その際には新鮮なアシも、さわやかな香りに一役買っていた。   (つづく)

*前回の写真で豚の丸焼きと宜良ダックが焼き上げられる様子の写真をアップしたところ、あまりに豚の形そのままなのに、ショックを受けて、「中国は肉食文化なのですね」との感想をいただきました。そういえば、私も最初に丸焼き、そのままの形を見たときはぎょっとしたものでした。なのに、そんな気持ちも「おいしそう」の内なる声に打ち消されてしまいました。馴れ、とはおそろしい。でも、日本の魚の躍り食いや、あわびの地獄焼き、など、外国のかたが見たら、ぎょっとする食べ方がけっこうありますよね。じつは私もそっちの方は怖くて、食べられません。すっかり、動かないものは、おいしくいただけるのに、これも、身勝手な話です・・。
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宜良ダックを探して⑨

2011-09-03 16:17:43 | Weblog
               
上は雲南の街角でも見かける暗炉型のダック焼き器。内装は熱をよく反射するタイプのセラミック系の石で分厚くコーティングされており、炉の中心には加熱のための炭火入れとダックから出た脂を受ける皿が置かれている。下は内部の炉につり下げられて焼き上げられたダック。(宜良の市場にて。2010年撮影。)


【劉文、雲南へ帰る】
 さて、劉文が習い覚えた北京ダックを地元・雲南で作ろうとしたところ、一つ問題が出きました。あのタンドールの釜が雲南にはなかったのです。そこで、自ら土で炉を作ることに。

 次にそこいらで放し飼いされている湖や田んぼで勝手にエサを食べて大きくなったアヒルが、肉付きのよくなった秋に捕まえて、「烤鴨」を焼き上げたところ大好評。やがて(1910年)には昆明とベトナムを結ぶ滇越鉄道も開通し、その鉄道駅も狗街に設置されたことから、売り上げが急拡大。ついに駅のターミナル内に「質彬園」という烤鴨専門店を開くまでになりました。

 「過橋米線」の回でも書いたように、清末から民国期の昆明には、東南アジアへの重要な通商路としてベトナムから機会をうかがうフランス人がベトナムー昆明間の鉄路を開通。一攫千金目当ての外国人や、中国各地の人々が行き交っていました。

 彼らへの評判も短期間のうちに高まり、省政府主席の龍雲が「京都烤鴨」と書いた扁額を送り、接待に活用。軍関係者なども、とくに味がよくなる秋になると、わざわざ汽車に乗って食べにくるようになり、名声は頂点へと達したのです。(その扁額は1960年代からの文化大革命で破壊され、今はありません。)                  (つづく)
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