雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル21 テージョの貴婦人とキャラベル船

2021-08-22 09:37:57 | Weblog
【大航海時代ゆかりの場所へ】
 ホテルのロビーではポルトガル歴史研究家のKさんとヨーロッパからアフリカを股にかけてフィールドワークをしているSさんが、ポルトガルワインを飲みながら、なにやら楽し気に議論を戦わせていました。これから数日間はKさんの案内でポルトガルを見て回ることになります。
 しかし団体行動をすると、頭に残る風景が一気に少なくなるのはなぜでしょう。やはり苦労しないと印象もうすくなるのかもしれません。

 3日のうちに行った場所をざっとたどりましょう。


写真はテージョ川の岸辺に立つベレンの塔。

【テージョの貴婦人】
まずベレンの塔
10時開館からたった数分だというのに、人、人、人。観光客だけでなく、みやげ物売りも多い。青空にそびえたつ白く優雅な塔は、司馬遼太郎も「テージョ川の貴婦人」とたたえたほど美しさですが、入場料を払って建物内に入ると薄暗く、下のほうには太い鉄の棒が付いていて重たい雰囲気が漂っています。

Kさんが
「ここは地下牢で水ぜめに使ったんですよ」
 と話していましたが、なるほど、という風情です。

 そこから狭い階段を登って塔の上のテラスに出ると、大勢の人が記念写真に夢中です。白と青い空との対比が美しい外観は、やはり撮らずにはいられません。

写真は「発見のモニュメント」。エンリケ航海王子を先頭に32名の大航海時代関連の人物が彫刻されている。(発見のモニュメント - Wikipedia  に全景の写真があります。)

【巨大なモニュメント】
 塔のすぐ近くにはエンリケ航海王子没後500年を記念した「発見のモニュメント」がそびえていました。高校の世界史資料集にも出てくるのですが、まさかこんなに巨大とは思いませんでした。なにしろ人を豆粒にしないと写真には納まりきらないのです。
 
船首を模した白い巨石(コンクリートということですが、日本のねずみ色とは違うようです)の側面にエンリケ航海王子を先頭にバスコダガマ、マゼランなどポルトガルにゆかりの深い人々が彫刻されています。1960年に建てられたものですが、これまた人だかり。

 ランチタイム前に食べないと混んでしまうということで、近くのお店でお昼。Kさんのよどみないポルトガル語で料理が流れるように手配されます。3日後には一行と別れ、娘と2人になるのでいろいろと覚えなくてはなりません。
(つづく)
※次回はポルトガル料理です。次週の更新はお休みします。
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スペインとポルトガル20 ポルトガルに入る

2021-08-14 14:36:12 | Weblog
写真はリスボン空港から乗ったタクシーにて。社内右横のステッカーには「NAO FUMADORES」。ポルトガル語で「禁煙」の文字。夕日は湿気を帯びたやわらかな光だった。

【リスボンへ】
スペインの首都マドリードからポルトガルの首都リスボンへは飛行機で1時間20分。
午後3時45分発リスボン行のイベリア航空は、満席です。出発が一時間近く遅れたものの、無事、着陸。
 地続きのお隣なので、まるで国内移動のような気軽さです。

 飛行機を出ると、湿気が一気に鼻を潤してくれて、息が楽になりました。カピカピに乾燥しきったマドリードの空気から解放されたのです。標高655メートルの内陸の空気は海に囲まれた島に住む日本人には、ちと、きつかったとポルトガルについて気づかされました。

タクシーから海がちらりと見えた、と思ったら、川と海がズーっと並走してくれます。そう、リスボンは海の街でした。

 街も黒、オレンジ、白を基調としたZARA的ブティックは鳴りを潜め、中間色でフェアリーなブティックに様変わり。太陽は柔らかな明るさで、マドリードの大都会風から少しのんびりした空気が流れています。
治安が不安だったマドリードでは乗り物に乗るときには最大限の心の鎧をまとっていたのですが、リスボン空港からは、自分で建付けの悪いドアを開ける(マドリードと違って自動ドアではない)タクシーに躊躇なく乗り込めました。
その運転手はほっそりとした顔立ちの、何か考え込んでいるような表情の若者です。そういえば、マドリードの運転手さんは白髪でがっしりとした顔立ちの方ばかりでした。

 カリフォルニア音楽風の陽気な英語の音楽が車内に流れる中、パステルカラーの古い建物がうねるような道を行った先が古い建物が残る旧市街。さらに細かに曲がりながら小道をひた走ると、今夜から3泊するテュリム・テレイロ・ド・パソホテルがありました。歴史のありそうな、おしゃれなホテルです。

※いよいよポルトガル編です。やわらかな風が皆様にも届きますように。
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スペインとポルトガル19 日本にゆかりのある修道院3

2021-08-08 12:00:37 | Weblog
写真はマドリードの繁華街・プエルタ・デル・ソル広場にてギターとツィンバロムでロマの哀調の調べを奏でる人々。このほか様々な大道芸が立つにぎやかさだが、この写真の左奥の小道を入ると、デパート「コルタ・イングレス」その裏口を出た広場にデスカルサス・レアレス修道院がある。あらゆる喧噪から解き放たれた不思議と静かな空間だ。

【伊達政宗の野望】
ここは、日本にもゆかりがあります。
 今を去ること400年前の1615年2月17日に日本の武士・支倉(はせくら)常長(つねなが)が洗礼を受けた教会なのです。戦国の世が終わるなかで起死回生の奇策をめぐらす仙台藩の伊達政宗によって派遣された慶長遣欧使節団の長として、今後、ローマ法王に会う必要からも必要な儀式でした。

 一人の日本人のための洗礼式には驚くべきことに国王フェリペ3世や、フランス王妃であるフェリペ3世の娘をはじめ、多数の貴族が参列していました。日本を出発して1年半。苦労してたどり着いたマドリードでメキシコと貿易をするために国王の勅許がほしい支倉と彼が率いる慶長遣欧使節団一行。ひょっとすると伊達政宗はスペインと国交を結んでそれを後ろ盾に日本国王を目指していたともいわれています。
 ところがスペイン議会は、すでにイエズス会宗教者から日本がキリスト教に苛烈な弾圧を行っていることを聞いていました。しかも伊達政宗は国王ではなく、一地方領主にすぎないという報告も受けていたのです。

 そのようなことも知らず、無茶ぶりで派遣された彼をスペインまでいざなったのはフランシスコ会派の宣教師ルイス・ソテロでした。日本に唯一食い込んでいたイエズス会派の牙城を仙台から突き崩したかったともいわれています。そして、まさに洗礼式を行ったこの教会はフランシスコ会派でした。

 結局、支倉は日本をたって7年後に、何の成果も残さず帰国しました。そのころ日本はキリスト教弾圧の真っ最中。彼は謹慎させられ、何も語らず、何も残さず、過酷な旅で心身疲労し、2年後に死去しました。

 にぎやかなマドリードの旧市街でもとりわけ静かな教会周辺。その教会の重く分厚い木製の扉のなかの、しんとした静けさと、当時をしのばせる踊り場階段の荘厳さ、そして外観からは想像できないほどの驚くべき価値の高い美術品の数々は、王女たちと深くかかわった教会と数々の歴史の連なりを感じさせます。

●参考文献
大泉光一『支倉常長』(中公新書、1999年)
同著『支倉常長 慶長遣欧使節の真相』(雄山閣、2005年)
太田尚樹『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』(山川出版社、2013年)
https://www.esmadrid.com/ja/kankoujouhou/monasterio-de-las-descalzas-reales?utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2F

https://www.esjapon.com/ja/cronica-del-viaje-de-los-ciudadanos-de-sendai-a-espana-4830
※上記の本やネットの内容は、いずれも支倉常長遣欧使節についての思いでやけどしそうなほどアツい。一つには今も慶長遣欧使節団からスペインに残った人の末裔が「ハポン」(スペイン語で日本)姓で暮らし、そのことを信じて誇りを感じている人の存在が大きいのでしょう。また、スペインでは苦労しながらも主命を果たせなかった支倉ですが、その立ち居振る舞いは、立派で堂々としたものだったため、当時の文献を調べれば調べるほど、研究者らはうれしく誇らしくなってくるのかもしれません。

※次回、ようやくポルトガルへ参ります。

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