雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

語学留学でセブに行く26 アイランドホッピング2

2020-01-31 20:17:50 | Weblog
写真は語学学校前の海(いわゆるホテルのプライベートビーチ)の中の様子。ビニールゴミもあるが、そこを縫うようにたくさんの小魚が泳いでいる。干潟になるとムツゴロウによく似た、水があれば泳ぎ、ちょっとの陸地ではホッピングして進む生き物もいた。とてもかわいい。英語でmudskipper(泥を跳ねるもの)というのを調べた上で、フィリピンの先生に話したが「見たことない」「知らない」「そもそも海は見ないわ」と言われてしまい、まったく話がかみ合わなかった。

【極意は人集め】
ところでなぜ、そんなに遊びの誘いがあるのかというと、別に私が人気者、というわけではなく、遊ぶ側に深いわけがあるのです。セブ島は公共の交通機関がほとんど発達していません。そこでどこかに遊びに行こう、とくに海に出ようとすれば、声をかけてくる地元の人を信じるか、インターネットで検索することになるのです。

そうしてみつけたツアー会社に申し込む際、船の貸し切りやバン貸し切り程度の人数を集めて申し込んだほうがだんぜんお得になります。ツアー会社もめどがたつので腕のいいガイドを配してくれるなどプラスアルファのサービスが加わります。

さらにもう一段、安さと安心感を追求する人がたどり着くのが、語学学校の先生にツテを紹介してもらうか、先生から声をかけられること。こうして地元民ならではの値段でツアーを組むことでできるというわけです。

となると、なによりあそぶために必要なのが、先生とのつながりと人集めということになるのでした。

そこで、私にも声がかかったというわけです。よく考えると日焼けしそうだし、船にも乗らなければならないし、泳がなくてはならない、いつもの私の思考回路からすると三重苦です。しかもさらに人を集めて欲しい、との要請すらありました。

 そこで知り合いになったばかりの韓国の女性と台湾の女性に声をかけ、そこから芋づる式に5人集まり、最終的に8人でアイランドホッピングに参加することになりました。こうしてアイランドホッピングが翌週末に実行されることになりました。
(つづく)

※来週は更新はお休みです。寒暖の差が激しい日々が続いております。みなさま、お身体、ご自愛ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語学留学でセブに行く25 アイランドホッピング1

2020-01-26 10:56:33 | Weblog
写真は、学校兼宿泊ホテルの前の海。左の赤い屋根から左の線の内側がホテルのビーチ(ビーチの手入れがされていないので、泳ぐ人は皆無)。その右側が公共の港。アメンボみたいな船がいっぱいあるなあ、と思っていたが、これらはすべてアイランドホッピング用の観光客船だった。

【週末の楽しみ】
 セブの語学学校の生徒の多くは、なんとか英語をものにしたいと必死でした。そのため通常授業を最大の8時半から18時まで取り続け、さらに追加料金のいらない朝夕のオプションクラスまで希望して、朝7時から21時まで詰め込む人もけっこういました
(私はライトコースなので一日、4,5時間。留学後半はプラスしてオプションクラスを取っていました)。
その上、宿題や予習、復習をしていると一週間はあっという間に過ぎていきます。

最初はこんな調子で身体が持つだろうかと心配していました。

 ところがそれはまったくの杞憂におわりました。金曜は短縮授業で2時半には授業終了、土日は完全にお休み。家事も育児も仕事もないと、案外、自由時間があります。かくして留学生の週末へのモチベーションは凄まじいものとなっていくのです。

 もちろん、週末も英語の予習、復習に捧げる人はいますが、それは少数派(当然ながら、そういう人のほうが英語テストで上位に入ります。)かくして平日の昼休みに食堂に向かうと、聞こえてくるのはシュノーケリングやジンベイザメと泳ぐツアーなどの話。セブにいる間にダイビングライセンスの上級者の資格を取ろうと週末に別の海の学校に通う人もいました。

 私自身は泳ぐことになんの興味関心もなかったので、近くの名所・旧跡を歩こう、と日本にいるときから考えていたのですが、数週間が経つ頃には、そうも言ってはいられなくなりました。

 どこからともなく、国籍も関係なく、「このツアーに興味があれば、入れてあげるよ」と声がかかり始めるのです。週が明けるごとに生徒の顔に日焼けの色が濃くなり、楽しげに語らう姿にちょっぴりうらやましくもなってもきた頃でもありました。気づくと「yes!」と返事する自分がいたのでした。なんの準備ないのに。

 ツアーの行き先は「アイランドホッピング」だといいます。小さいころに遊んだスプリングがついて足をのせてひたすらぴょんぴょん飛ぶ一本足のスポーツおもちゃのことかと思ったら船で小島巡りをしていろいろなところで泳ぐレジャーなのだとか。日焼け止めクリームやらなにやら、いろいろと準備しなくてはならなさそう。日焼けも泳ぎも大嫌いな普段の私なら苦痛でしかないというのに、今日はうれしい。

 というのも毎週繰り返される
「ハッピーフライデー! ヒュー(といって先生、踊る)! 週末はどこ行くの?」週明けには「週末はどこ行った?」
と一時間ごとに繰り返される先生方とのフリートークタイム。おそらく先生方のマニュアルにあるのでしょうが、それへの返答も普通にホテルにいた、だとあきらかにつまらなそうな顔をされ、苦痛になってきていたのです。ですから、その問いかけへのネタができた、と本末転倒的な喜びも感じる、へんな精神状況になっていたのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語学留学でセブに行く24 ほしい歩道と下水道の整備

2020-01-17 11:48:04 | Weblog
写真はセブ本島の旧市街地でスペイン植民地時代に都市計画されて、ある程度完成していたパリアン広場周辺。もと中国人街として栄え、福建省からセブに移住し、商人していて成功したヤップの家など歴史的な見どころの多い地区となっている。
1997年に整備されたという地区のため、歩道があり、その下に水の流れ出る管がついている。私の住んでいたマクタン島の語学学校周辺ではこのような整備も見られなかった。
 猫は野性味あふれているが、エサは周辺の人々からもらっているようだ。野良猫、野良犬、野良ヤギをみた。牛はさすがに野良ではなさそうだった。

【容積率がない!】
 次に街づくりに関してセブの法律から考えてみました。

 すると現在のセブの都市計画には容積率などの概念がまったくないことがわかりました。容積率とはこの土地にはこのサイズの建物を建てることができますよ、という都市計画の大事な指標です。これがないと各々が好き勝手な建物を建てて、街並みがめちゃくちゃになってしまいます。

 たとえば日本なら、建物や個人の土地に対して何らかの事情があれば法律や都市計画などでセットバック、つまり後退させることができます。これがフィリピンではできないのです。道路をつくる、もしくは拡幅する際には、用地買収以外に手段がないのです。建物の高層化も制限はありません。

 そのためこんなことが起こっています。たとえば、日本のODAでセブ本島と語学学校のあるマクタン島をつなぐ4車線の橋。この橋はとっても立派ですが、その橋に接続する道路が細かったり未整備のため、残念ながらその前後で渋滞が発生しやすくなります。雨の日はとくにひどくなっていました。

 また道路と一体で排水設備を付ける発想も及んでいないので、道路はスコールのたびに水没し、歩くのも困難になるのでした。

日本では、国会議員に道路族と呼ばれるほど、やたら立派な道路整備をするための法律のほうが一般住民の居住性より優先されるほど道路に行き過ぎた世界となっていますが、それがない世界、というのも不便だなあとで知りました。

 街づくりも法整備から手掛けないといけないのでしょう。
※「メトロセブ地域から公共交通と一体的な都市開発の視察へ ~ 海と山に挟まれたメトロセブの都市開発に神戸の経験と技術を~」神戸すまいまちづくり公社、2018年6月4日https://www.kobe-sumai-machi.or.jp/wp/wp-content/uploads/2019/07/20180604_philippine.pdf
(次回はアイランドホッピング。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

語学留学でセブに行く23 植民地化されては放棄され

2020-01-11 14:51:21 | Weblog


写真上はセブ島本島にあるサンカルロス大学博物館で見かけた展示物。ミンダナオ島の骨壺の蓋、と書かれていた。なんだかかわいらしい。

写真下は1000年から1450年までのセブ島人の墓から出土したもの。中国製もしくは東南アジア系の陶磁器などが多数見つかったらしい。1967年のセブ島の下町に電話線を通すために掘削していたところに発見された、と書かれていた。
展示物には頭頂部が平べったい人骨や、木製の爬虫類の飾り物、日本が一時、占領していたころのものなのか、甲冑や黒塗りの漆器、雛飾りなども展示されていた。
 博物館は大学構内にあるので、入口で警備員のセキュリティチェックを受け、パスポートを見せないと入場できない。
 セブの優秀な学生たちが菓子パン片手に勉強したり、談笑したりする姿を見ることもできる、セブ島のリゾートとは違う一面をのぞくことができる。 

【街づくりの歴史1】
 まずセブ島は島が一つあるわけではなく、周辺の小島を含めた総称です。リゾート地として知られ、私の通った語学学校があるのはセブ島を囲う島々の一つのマクタン島です。この二つの島は大きな橋でつながっていて車で自由に行き来しています。

さて、マクタン島は16世紀にマザランが世界一周を成し遂げる航海のなかで1521年に西洋人として歴史上はじめて上陸した場所。
 セブ本島はその44年後にフィリピンを植民地化するにあたって最初に拠点を置いたところです。

 そこでこれらの町に西洋人による都市計画が立案されるのですが、たったの6年でスペイン人の拠点がマニラに移動してしまい、セブ島の都市が出来上がる前に放置されてしまいました。

 その後、セブ島が世界史に載るのはメキシコからスペインへ物産を運ぶガレオン貿易の中継都市として。これも1590年から1604年のみで役割を停止。その後は中国と東南アジアとの伝統的な交易拠点として港街は存在していました。

 それから300年後。米西戦争(1899年~1902年)によってフィリピンはスペインから米国に服属することに。あとは時系列で羅列します。

1936年にセブは信託統治市の地位を確立し、フィリピン人によって独立的に運営。
第2次世界大戦時、日本軍に占領される。
1946年に独立。
※参考文献:J.R.ヒメネスホス他「セブ市(フィリピン)の都市形成とその都市核の空間構成に関する考察」『日本建築学会計画系論文集 第76巻 第608号』2011年10月

 このような歴史の流れの中で西欧モデルの植民都市が作られかけては放棄されることを繰り返されています。それはセブに住む人たちが必要とした街ではなく、外から征服にきた人たちが住みよい街。
 なんとも中途半端な街づくりが何百年もの間、断続的に行われてきたわけです。

 もともとセブは農業、漁業を基盤とする中国、東南アジア各地と交易をおこなう港市でした。在来の首長が率いるいくつかの集団で成り立っていました。街という大きなものはなかったようです。

 こうして放棄が何度か続いていくなかで、自分の土地の感覚が薄らぎ、町全体で住み心地を追求するのではなく、自分の所有する土地の中だけで考えるようになったのでしょうか。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする