雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル29  乗り遅れても大丈夫

2021-10-31 10:50:57 | Weblog
写真はカシュカイシュ駅から見える景色。ロカ岬の大西洋をずーっとわたってくる強風が建物や丘で少しなだめられているせいか、空気が気持ちいい。

【あざやかな判断】
ロカ岬からの帰りは、1時間おきにやってくる路線バスに乗りました。動き始めてすぐにKさんが点呼を取ると、一人足りません。

「そういえばふみさん(仮名)が寒くてトイレに行っていました」
 と、別の研究者から絶望の声。全員でバス乗り場で待っていたはずだったのですが、あまりの寒さにバスが来るとみな、隣すらみずに乗り込んでいたのです。あわててロータリーを出る直前に責任感の強いKさんがすばやくバスの車掌に声をかけて降り、気が付くと窓の外で手を振っていました。

 大声で
「終点で降りて待っていてくださあい」
 という言葉を残して。

 バスの車内は静かで、乗り込む客も少なく、窓外にはにびいろの海が見え隠れしていました。あとは林と畑がなだらかに続いています。なにより、寒風に悩まされる心配からは遠ざかったので、みんな若干の心配はありつつも、一様にホッとした顔をしていました。Kさんの素早い対応には感謝しかありません。その後、ふみさんを連れたKさんとは無事に終点のカシュカイシュ駅で合流することができました。

 ともかく、あの岬は30分が限界でした。

【シルバーに光る髪飾り】
 さてロカ岬から遅れてくる二人を待つ間、カシュカイシュ駅に併設された2階建てのショッピングモールをブラブラ散策。

 夕方5時ごろ。地元の人が9割がたのモール内は、なめし皮のジャンバーのにおい。低温よりも風よけを重視した外套なのか? 

 地階の食料品店は、タラの干し魚だけで1コーナーが設けられています。日本ではみない巨大な魚の開きに興味津々でいると、「バカリャウだあ」と研究者グループの一人がじっくりと品定めを始めました。

 「ここで買ってはかさばってしまう」と我慢している様子からなにかただならぬ食品のようです。この後、ポルトガル旅行では日に一度はなんらかの形で口にするバカリャウとの初コンタクトでした。

 1000円以下の飾りものが並ぶショップで、かわいい髪かざりを見つけました。娘に薦めると「こんな安っぽい店のものは・・」と言っていたのですが、日本に帰ってからすっかりお気に入りに。デザインが上品でかわいらしく、留め金もいまだ壊れることのないほど、しっかりとした作りをしています。日本で買えば数千円は確実にしそうです。

 リスボンなどの有名観光地より値段も安いので、ロカ岬の帰りに立ち寄ってかいかがでしょう。(じつはカシュカイシュもビーチリゾートで有名な観光地ですが、このショッピングモールは地元仕様のようです。)
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スペインとポルトガル28  大陸の端 ロカ岬へ

2021-10-23 14:39:50 | Weblog
写真はロカ岬と大西洋。ロカ岬はヨーロッパ大陸最西端にして、さえぎるものなく、この先にアメリカ大陸へと通じるだけに、風がおそろしく強い。そして寒かった。
 写真左に強風に負けずに立つ人や写真中央に風に吹き飛ばされないように体を九の字に曲げて踏ん張る人などが見える。
 風の凪いでいる日もあるそうだが、ここにきた人の感想を読むと、どうやら強風の日が多いようだ。
 この風の中、ヨーロッパの大航海時代は幕を開けたのだ。

【地おわり、海はじまる】
「どわっ、飛ばされる!」
 本気で思うほどの強い風、同時に襲う寒さ。崖下には緑の中に白い線が走る白濁した海が続いています。ここはヨーロッパ大陸最西端の岬・ロカ。

 シントラの王宮からバスで小一時間もかからなかったというのに気候は激変です。いつの間にか一緒に行った研究者グループの人たちは、薄手の半そでにポンチョを羽織っただけで岬に立ったせいか、芯まで寒さが浸透してしまい、唇は紫になり、がたがた震えて、岬に設けられた記念館に飛び込みました。
 そこで温かいコーヒーを飲んでも、寒さがぬぐえることはなく、翌日には風邪を引いて、以後服装が一変するほどの衝撃を与えたのです。

 私は風を通さないオーバーコートを羽織っていたので問題なく、強風にふんばって大西洋を見つめていました。この海をさえぎるものは何もなく、はるか向こうはアメリカ大陸。風が強いのはある意味、当然なのです。

 ロカ岬、と書かれた看板の後ろは、わずかな風よけがわりに人が密集して集まっていました。人々はそこで気を整えると、また風に向かって仁王立ちして看板の横でパシャリ。この記念すべき地と海のはじまりを短く見つめて、すぐに看板に隠れる、を繰り返していました。

 こんなところにも牧草がへばりつくように風になびいています。そのため踏ん張ると、かえって草の繊維がすべって足がスライドすることも。
 ここの石碑には「ここに地終わり、海はじまる」
の文句が書かれている、とKさんが教えてくれました。このことばはポルトガルの国民的詩人ルイス・デ・カモンエスの詩なのだそう。

 記念館では、「ユーラシア大陸最西端到達証明書」が発行されていて、それを飾るための額縁まで売っています。ここに来て、この空気を感じるだけで十分なのに、ずいぶん商売っ気があるなあ、と距離を置いていたのですが、気づくと、家人もポルトガル研究者のKさんもほくほく顔で巨大で持ち帰りに不便そうな証明書を買い求めていたのでした。
(つづく)
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スペインとポルトガル27  シントラ宮殿(王宮)

2021-10-17 15:19:27 | Weblog

シントラ宮殿の壁面タイル。腰の上あたりに張られた黄色い縦型のローソクのような形のものは、装飾を大量に行った時代にスペインが「発見」した新大陸の植物のとうもろこしのように見える。

モザイク模様のタイルも一枚一枚細かくなった色タイルを貼り合わせて作られている。近年のモザイク模様を図案化した平面のタイルとは、質感がずいぶん違うと感心した。

様々な植物の文様がある。色も一枚一枚が微妙に違うのだが、全体に統一感が出ていて、すべてが計算づくのようだ。

【シントラ宮殿(王宮)】
 ペーナ宮殿から見える、はるか昔に廃城になっている「ムーアの城」は断念して昼食後、バスで駅に戻り、そこからすぐ近くにある15世紀から19世紀後半までポルトガル王家の離宮となっていたシントラ宮殿(地球の歩き方では「王宮」)を見学しました。

 15世紀末から16世紀初頭のマヌエル1世が大航海時代の莫大な富で増築や装飾などを行ったために、うっとりするほどタイルも彫刻も装飾画も、とにかく本物で美しいのです。

 平面でつるっとしたタイルもいいのですが、模様の縁取りを立体でかたどったタイルが欠けることなく、壁面に納まっているさまは圧巻です。色味などで今では失われた技術もあるのとのこと。ポルトガルタイルは今もなお有名ですが、当時の燦然と輝く技術の粋を堪能できたような気がしました。

 たとえば葉の色もよく見ると少しずつ紅葉させていたり、深い輝きを放つ白、青、緑、黒のタイルでモザイクで敷き詰めたような場所があったりと凝りに凝っていて、細かく見ていると時間がいくらあっても足りません。

 もともとイスラム教徒の支配者の邸宅を、12世紀にのちのポルトガル王が征服した、というだけに、イスラム様式、マヌエル、ルネッサンス様式が混交した建物となっています。この混交した建築様式という点ではペーナ宮殿も同じなのですが、財力の違いが桁違いなために、なんというか別物。こちらは、とても落ち着いていて歴史と風格がひしひしと伝わってきます。

 これほどまでに中世の骨格を持った王室由来の建物だというのに、しかもペーナ宮殿より入場料が安いというのに観光客が絶無に近いのに驚きました。
歴史的逸話にも事欠かないし、はっきりいって、オススメです。
(つづく)
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スペインとポルトガル26 シントラのペーナ宮殿3

2021-10-10 09:22:26 | Weblog
写真はベーナ宮殿。様々な建築形式の建物が連なっている。

【アジアン庭園完成パーティまで開いた】
さらにペーナ宮殿の紹介と入場券の販売を行っている公式サイトを見ると、

「フェルナンド2世は、道路沿いにすべての大陸から在来の森林種を植えました。そのためペーナパークの85ヘクタールはポルトガルに存在する最も重要な樹木園となっています。
 1840年代にフェルナンド2世によって導入されたのがアジアのツバキのコレクション。この植栽の披露のために、ダンスパーティーをフェルナンド2世は催したほどです。エキゾチックな木立はパビリオンと小さな建物を引き立てています。」(筆者意訳)

 と書かれています。おそらく意識的にアジアの珍しい植物を植えていったことがうかがえます。
 宮殿を中心とした山は霧がまいていて、適度に湿り気があり、黒々とした腐葉土が木々の間を埋めていました。どこかに日本のサクラソウが植わっているのかも、と期待しながら目を凝らしていました。


【ペーナ宮殿へ】
 さて、エキゾチックな植物に囲まれた宮殿のほうをみてみましょう。標高529メートルの頂上に立つペーナ宮殿はイスラム、ゴシック、ルネサンスといった建築様式を集め、凝りに凝った設計となりました。とはいえフェルナンド2世の美意識が行き届いた設計の後も建設されていたせいか、お金が尽きた成果はわかりませんが、実際目の前に見る城は途中まで美しく、途中からは手抜き、というアンバランスな建物というのが正直な感想です。
 たとえば本来彫刻でしつらえたかった柱には、風呂屋のペンキのように平面な予想図が描かれているだけだったり、部屋そのものが、いかにも力尽きました、という状態でペイントされただけで残されていたり。

 ただ、生活空間は住むにはちょうどいい大きさで、人々の動きが想像できる気持ち良い。

 外観もなんとも言えない感じで、いろいろな建築様式が寄せ集めたものの石材も張るべきタイルも集められなかったのか、黄色や朱色、白で塗られただけで終わっている場所も多々あります。さながら手入れされていないディズニーランドのよう。
 いろいろと考えさせられる建物でした。

 ただし、広大なので、入口にたくさんにいた観光客は、内部でばらけたのか、はたまた入場制限がかかっているのか、わかりませんが意外とゆっくりとみることができました。

 なにより眺望はすばらしい。アメリカ大陸へと続く大西洋の始まりがちらりと見え、風光明媚このうえなし。緑もこの上なく美しく、空も湿度を帯びたやわらかな青色をしていて、ほっとしました。
(ペーナ宮殿おわり)
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スペインとポルトガル25 シントラのペーナ宮殿2.

2021-10-03 10:15:07 | Weblog
写真はペーナ宮殿の道すがらに生える植物。よく手入れされている。時折、付された植物の名前が書かれた札には「JAPONICA」と書かれていた。

※今回はなぜ、日本でよくみる植物がペーナ宮殿に行く道すがらで見られるかの検証です。

 【新規な植物・日本発】
マリア2世の夫であるフェルナンド2世がペーナ宮殿の築城を指揮していたころ、オランダ、ドイツを中心に日本直物の一大ムーブメントが巻き起こっていました。仕掛け人はドイツ出身のシーボルトです。

 少し、日本植物がヨーロッパへ渡る年を細かく見ていきましょう。(以前、ライデン、ゲントの訪問記のときにも書かせていただきましたが、より詳しめです。)

彼が日本植物をプラントハンターとしてせっせとヨーロッパに送っていたのが1825年から30年。1828年12月にシーボルト事件が起きて1829年に日本追放。その際、シーボルトがジャワへと一緒に持って行った株が2500種類12800株ありました。

追放処分を受ける前から何度かシーボルトは日本の植物の移送に成功し、オランダのライデンに到着してはいました。とはいえ、この時が最大の持ち出しです。

1830年に日本の植物を大量に送った船がアントワープに到着。その時良好な状態の株は260種類ありました。ところがちょうどこの時、ベルギー革命が勃発(1830年8月ブリュッセル)。ベルギーとなったアントワープからオランダのライデンへ運ぶことはかなわず、植物の多くはベルギー領内のゲントに移送されました。

これによってゲントで日本の植物を増やしてベルギーは大もうけしたといいます。ただし、あまりにも濡れ手に粟だったためか、翌年には増やした株の一部である80種をライデンにいるシーボルトのもとに「返還」しています。

 一方、オランダから日本へ派遣されていたシーボルトは、日本追放後はライデンに居を構え、日本の植物の育成(馴化)と、整理に着手します。そして、ベルギー革命以前に送っていた植物の通信販売を始めました。
 通販のために必要なパンフレットも印刷され、1832年から59年にかけて22分冊に分けて発行されました。さらに1835年12月からシーボルトの死後まもなくまで続く『フローラ・ヤポニカ』の出版も始まり、植物の日本ブームが巻き起こります。

 ヨーロッパの上流階級の人々が高価な価格で買い求め始めた時期が、まさにこの宮殿の造営時期に重なります。ヨーロッパでの特徴のある庭園を造りたかったフェルナンド2世にとって初物買いの時期にぴったり。

※参考文献:大塲秀章「ジャポニズムの先駆けとなったシーボルトの植物」≪人間文化≫VOL.26、2016年 他

(つづく)
写真はペーナ宮殿に登る道の脇の庭園にて。上はソテツ。下は(おそらく)ハラン(葉蘭)。ソテツは日本を含むアジア原産。ハランは日本からヨーロッパに持ち込まれ、広まった。江戸時代の園芸品種の一つ。

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