雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

大理雪梨2

2012-10-26 15:34:48 | Weblog
                             
                 
写真は大理国の残滓がかいま見える大理博物館の塑像。十二干支は日本とほぼ同じ。ちょっと作りがかわいらしいというかユーモラスなところも、雲南の特徴か。

【昆明の宝珠梨】
 大理雪梨が昆明にもたらされた話も残されています。
 中国・宋の時代、宝珠和尚という高僧が大理から昆明に大理雪梨の苗を携えて講話に訪れました。現在、昆明市の野菜主産地でもある呈貢一帯で栽培されている梨がその和尚の梨の末裔で、「宝珠梨」と呼ばれています。この「宝珠梨」も伝え聞く話では京の都への献上品となったとか。「呈貢」という地名も、このことからついたのだそうです。
 つまり、昆明の特産とされる「宝珠梨」は大理雪梨と同種なのです。ただ、気候な土質などの違いもあり大理雪梨の方がさらに甘く、肉質もきめこまやかだと評判です。

 ちなみに大理は今なお仏塔がそびえ、寺が多く残されていますが、大理国は敬虔な仏教国でした。1117年には北宋から「雲南節度使大理国王」という称号を得ています。出土品からも中国・中原文化の影響が感じられ、華やかな文化国家だったことがうかがえます。
 つまり、大理の高僧は、日本では京都の由緒ある寺の高僧、というのと同じぐらいの箔がついたのでしょう。そこから梨の逸話も生まれたのかもしれません。

【大理で手厚く葬られた日本僧】
 大理といえば、日本とも浅からぬ縁があります。明代初期の1380年に中国の明の中枢で胡惟庸の獄という政変がおき、明の重臣が1万人以上、粛正されました。そのとばっちりを受けて、たぶん、まったく関係のない日本人留学僧数十人まで大理まで罪を着せられ流されてきたのだそうです。

 日本にはまったく史料が残されてはいないのですが、日本はまだまだ政権が安定していない室町時代初期。ちょうど倭寇と呼ばれる日本の海賊集団が中国にまで略奪範囲を広げていた時期なので、もしかしたら倭寇鎮圧を日本に対して要望する使者まで派遣するほど悩んでいた明の初代皇帝・朱元璋が、日本人と聞くと、すぐ粛正の対象にしてしまったのかもしれません。

 ともかく、これら日本人僧は結局、日本に帰ることかなわず、遠い大理の地で亡くなりました。そのことを哀れんだ地元の人が崇聖寺四僧塔というモニュメントを600年前に作って供養してくれました。

 これはひっそりと現在まで残り、2004年にはチャン・イーモウ監督の映画『単騎、千里を走る』の撮影のために雲南を訪れていた高倉健が、クランクアップ後、この塔を訪れて日本人を供養してくれたことに感謝して多額のお金を寄付。いまでは立派な塔となりました。また2007年には大理側から呼びかけにより日本の京都のお寺との交流も行われました。
 有難いことです。
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大理雪梨1

2012-10-21 12:10:14 | Weblog

写真は、大理産の梨のシロップ漬け。雲南でよく食べられる小腹が空いたときの軽食・えんどう豆の麺というか豆腐「豌豆粉」の売り場の横に山のように梨が置かれていた。同じように大理の人々の元気の源になっている。
2005年1月撮影なので大理雪梨は、すでに売られてはいなかった。
ただ大理の梨の収穫期は8月下旬から10月上旬だというのに、各所にこの梨が山盛り。人々は手を加えることで、冬場の食物として大切に保存して食べつないでいた。

【乾いたのどを潤す漢方や調味料としても】
 暑さが懐かしく感じる初秋のくだものといえば梨。中国には国土が大きい分だけ、さまざまな種類の梨が砂漠地帯から温帯地域まで収穫されています。みなさんも砂漠地帯を歩いてきた仙人が喉の渇きをいやすために梨を求める中国の昔話を、一度は読んだことがあるのではないでしょうか。そして、雲南で梨といえば「大理雪梨」が有名です。

 そのままをむいてかじると、日本で40年ほど前までスタンダードだった長十郎梨のような食感。幸水や20世紀梨のようなシャクシャクとした歯ごたえではなく、やわらかくて瑞々しく、やさしい味わい。

 つまり、生で食べると、私にとっては、ぼやけた味なのです。

ではなぜ有名なのかというと、ほんとうのおいしさはしばらく置いてみる必要があります。洋なしのような細長いだ円形をした梨を、適度に涼しい環境で保存すると皮の色が緑から黄色に変わります。これがおいしさの目安。山形の特産のラ・フランスと似ています。

さらに氷砂糖を溶かした汁につけておくと、飴色のような黄色い食べ物(飲み物)に。シロップをお湯で薄めて飲むと、乾燥した雲南の気候では、痰切りによく効く最高の飲み物にも。

主産地は大理市の繁栄を支え続けたアル(「氵+耳」で一文字)海という湖の東岸。ここでは旧暦の8月8日に大理の各民族が四方八方からこの湖を船で渡ってあつまって、東岸の梨の樹の下で歌い踊る祭りがあるのだとか。ちょうど梨の熟する時期の秋祭り、近隣の街への梨の販売目的もあったのかもしれません。(日本にも、たとえば東京都府中市の大国魂神社などは栗の季節の神社の祭りには「栗祭り」、すももの季節には「スモモ祭り」と称して、たくさんの露天が出ています。)

よく熟れた大ぶりな梨は、私の経験からしても自らの重みですぐ下の方から平らになって、勝手に汁がしみ出し、場合によっては梨酒へと変化してしまいます。
 山間の梨祭りで手に入れた梨の保存法が真剣に検討されたのも無理からぬことでしょう。

(つづく)
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雲南の菊の花

2012-10-13 14:34:48 | Weblog

写真上は文山チュワン族自治区広南でいただいた羊肉鍋にたっぷり入った菊の花。写真下は広南の市場で売られていた菊の花(2004年10月撮影。)

【お鍋の具材に】
 秋。日本でも北は山形や宮城では、ポツンと一花、盛りつける刺身の飾りとしてだけではなく、菊の花がおひたしなどとして普通に食べられます。同様に雲南でも食用菊は、秋野菜の一品として鍋料理にはかかせません。

 花の色は白色。花弁が5センチ以上もあるような大輪で、細く、やわらかく、苦みもそれほどなく、くせがありません。
しかも、スーパーで1パック買って入れる、などというささやかな日本モードでは考えられないほど、どっさりと入れて、しっかりと食べるのです。
 羊肉などの濃いお味の鍋にはとくによく合って、くさみをおさえ、まろやかにしてくれるので、胃疲れをおこす旅行者にはありがたい存在といえるでしょう。

 ただ、問題は、花なので、見た目と香りを重視するためにあまり洗わずに食べざるをえないこと。つまり、農薬を一緒に食べてしまいがちなこと。
 雲南に限らず、中国全土で緑茶などとブレンドして愛飲されるお茶用や漢方としても利用される乾燥菊からは基準を超過した農薬が毎年、検出され、収穫期になると何かの風物詩のようにニュースに流れます。雲南から花を日本に輸入する仕事をなさっていた方には「現場を知ると、なかなか口にできないよ」といわれました。

【日本のかとり線香にも】
 他に、21世紀に入ってからの雲南の名産の一つに除虫菊があります。蚊取り線香の原料として日本でも戦前、さかんに使われていたものです。雲南中部の紅河州瀘西県で除虫菊の生産が始まったのが、2000年。2011年統計では県全体で6000トンの生産を誇るまでになりました。
 2009年には紅河森菊公司という地元の会社が、輸出などの際に有利な資格・原産地認証を中国国家出入境検験検疫局から取得し、海外に積極的に輸出しています。

 日本もその一つ。和歌山県有田市の「かえる印のナチュラルかとり線香」で使われている「天然除虫菊」は全量、ここからの菊を使っているのだそうです(http://www.binchoutan.com/kaeru/senko/index2.html)。

 我が家でも日本の自然食品店で見かけた「雲南」の言葉につられて、このかとり線香を買いました。
 使うと、たしかに体にやさしいのですが、じつは蚊にもやさしく、この蚊取り線香のまわりを元気に蚊が飛び回っている姿を目にします。少しはいやがって別の部屋に移ってくれる蚊もないわけではありません。私は満足しているのですが、家の者にはのどと目が痛くなるのに、あんまり効かない、と残念ながら不評です。戦後、日本の会社が化学系農薬の蚊取り線香に走り、長らく除虫菊の殺虫成分だけのものがなかった理由は「確実な効き目」にもあるのでしょう。

 じつは紅河州の主な現金収入は、昔からたばこの栽培にあります。雲南産のたばこの銘柄として「紅河」が全国的に知られていますが、この主産地です。

 除虫菊がこの地に定着したのは、たばこの葉を刈り取った後、間をおかずに同じ畑で栽培できたということにあります。6月中旬に育苗を開始し、雨期の終わる9月末には畑に移植し、4月頃に刈り取り。ぴったりたばこの葉の生産の裏作にあてはまったというわけです。

  (おわり)

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雲南の薬4

2012-10-05 15:31:54 | Weblog

写真は温病学と傷寒論の中国書籍の数々。(2012年、日本のとある書店にて撮影。)日本では傷寒論を学ぶ医療関係者が圧倒的に多い。


【まとめ】
 日本が鎖国のころに中国で興った温病学。江戸時代にも漢方をまじめに勉強する日本の医者はいたはずなのに、明治になって中国の情報が入ってきた後も、なぜ、温病学を無視したのでしょうか。

 これは推測ですが、日本ではウイルス系の病気への対処は明治以降、主流となった西洋医学に完全におまかせするしかなかったのでしょう。というのも明治政府は一刻も早く西洋に追いつこうと、ご存じのように鹿鳴館で西洋ダンスを踊ったり、西洋の文化を入れたり知識を吸収するのに忙しく、「西洋最高、旧い日本よさようなら」とばかりに日本の伝統文化を破壊する政策をとりました。
 
 そんな流れの中で、漢方医も禁止されたのです。

 具体的には、西洋医学での医師免許しか認めませんでした。これでは漢方医が新しく発展する余裕は生まれようもありません。しかも西洋医学でのウイルス分野は当時、最先端の研究分野でした。
そのような歴史のなかで、日本では温病学は完全に欠落してしまったのでした。

 現在、日本の漢方と中国の漢方の処方の大きな違いは、温病学の有無です。これが今またさかんになりつつある日本の東洋医学が、今ひとつ不完全な原因と指摘する日本の医学者もいるようです。

 ともかく、葛根湯は(性質が中途半端ということもあり)江戸時代のまま、ほとんど進化しなかったために日本では習慣的に生き残り、温病学の発展と傷寒論の研究が進んだ中国ではほぼ絶滅してしまったのでした。
【3世紀に執筆された傷寒論の現在の出版状況】
 ところで、いま、中国医学の本を多く扱う本屋に勤めています。棚には「傷寒」関係の本がずらりと並びます。なんと三国時代(紀元3世紀ごろ)に書かれた本だというのに、今なお中国では解説本の新刊が毎月のように出版され、中国でも日本でもよく売れています。日本で出版された傷寒の解説本も数多く、買い求める客がとぎれることはありません。

 一方、「温病」のジャンルはというと、中国からの出版物は沢山あり、書棚にも置かれてはいるのですが、まず、日本では売れません。日本の出版社からもたまーに「温病」をテーマにした本が出されますが、すぐに絶版になり、入手不能となるのが現状です。
したがって、「温病」の本は日本の本屋では隅に追いやられております。
(この章おわり。来週から、また肩の力の抜けた「おいしいもの」をご紹介する予定です。)

*とある中国関係専門出版社の社長にお会いする機会がありました。
「じっとしておれん。いまこそ正しい知識だ。尖閣問題の本を年内に出版するぞー。」と雄叫びをあげておりました。
以前より『尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか』(村田忠禧著、日本僑報社、2004年)など出版されていますが(現在、入手困難)、ここにきて、国交正常化40周年記念の出版物として前々から用意していた日中関係史関連ものが出されています。
『日中関係史1972-2012』(東大出版会、2012年9月)は近く中国語に翻訳した出版物も刊行されるとか。すっきりとした解決はなくとも冷静な相互理解を、まずは深めたいですね。




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