雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

大航海時代を求めて スペインとポルトガル4

2021-04-24 15:10:25 | Weblog
写真は、横丁で見かけた光景。ちょっと暗がりの横丁で何か所か見られた。白い布の上にものを置くバザーでの売り手は黒人系ばかり。(普通に白テントの路上の売り場では金髪のおばさん方が野菜などを売っていたので違いが際立つ。)

【横丁のバザー】
土曜日にトレド門からソフィア王妃芸術センターまで歩いていると、大通りからちょっと入った横丁で布の上にめいめい小物を置いてバザーを開いていました。バザーというには、ちょっと怪しい感じで、ぼやっとした色の洋服や時計、大きなミッキーマウスの人形、靴、バッグ、ハサミ、ランプシェード、メガネケース、会社のロゴ入り水筒など思い思いのものが並んでいます。
 新、旧品が雑多に混ざり、一つとして同じものはありません。売り手は黒人の方々で買い手は白人系、場所によっては地中海に面した場所系の人々。バザーの開かれていた通りのお店は中東系の料理や食事を売る店が並んでいました。

街を歩く人や近所の人が気ままに品定めをしていると、まだ布を開いて何時間もたっていないだろうに(まだ朝の10時半。朝の早い時間でしょう?)布の端についた紐をキューっとひっぱってまとめ上げて、三々五々散ってバザーは終了。

白い布についた紐にご注目。

 あまりに不思議な様子にあっけにとられていたのですが、あとで調べると「トップマンタ」と呼ばれる違法な露天商とのことでした。
 警察が見回りにくると、さーっと荷物をまとめて店じまいするのが、おなじみの光景なのだとか。それにしても「マンタ」ってエイのことですよね。四角い布が海を泳ぐエイの形に見えるのでしょう。ささーっと散る感じがよくあらわされているなあと感心しました。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大航海時代を求めて スペインとポルトガル3 

2021-04-17 18:01:52 | Weblog
写真は「プエルタ・デ・トレド(トレド門)」。中国の長安や昆明にあるような、かつて街を囲んだ城壁に取り付けらえた門のなごりにしては独立した形をしていると感じていたら、1813年から1827年に建設された凱旋門、つまりモニュメント門だった。フランスのナポレオン軍がマドリードを占領後、ナポレオン軍の敗走でその影響が取り除かれたことを記念して建てられたものだそう。
現在の門は大きな道路の交差点のロータリーの中心にある。そのため、下をくぐることはできない。(中世にあったトレド門はもっと王宮に近く、城壁を囲む門の一つだったが、あっという間に街が広がって、その門は役割を果たせなくなったという。)
このようにマドリードには、様々な歴史的背景を持つ凱旋門が点在している。だが、現在、門のない「プエルタ・デル・ソル(太陽の門)」以外の解説は日本語では見つからないのに、驚いている。
https://translate.google.com/translate?hl=zh-CN&sl=es&tl=ja&u=https%3A%2F%2Fes.wikipedia.org%2Fwiki%2FPuerta_de_Toledo_(Madrid)&prev=search

【スマホアプリが大活躍】
 朝が明けたばかりのような赤く、さわやかな空と大地。乾燥。周囲は山でマドリードは盆地だと理解しました。標高も655メートル。(昆明の1892メートルほどではないが)なかなかの高地です。

 マドリード市内のホテルまでタクシーを利用しました。運転手のおじさんがスマホのGoogle翻訳でスペイン語を英語にしてさかんに質問してきます。日本人だと伝えても英語。

一方でおじさんは英語が苦手らしく、私が答えると地名などの単語以外の時は、スマホに向かって話して、と言うのでややこしい。そうはいっても『ドラえもん』のひみつ道具「ほんやくコンニャク」はGoogleが実現しつつあるんだな、と実感。

写真はプラド美術館の入口付近の古本屋。坂道だということがわかるだろうか?

【地味にこたえる坂の街】
 ホテルはマドリード市中心の王宮から南に600メートルほど離れた「ホテル プエルタ・デ・トレド」。名前通りに大きな道路を挟んだホテル前に、石造りでいかにもヨーロッパという風情の「トレド門(プエルタ・デ・トレド)」がそびえています。地理感が大きい街なのでわかりにくいのですが、トレド門は丘の中腹にあるようでそこから中心に向かって坂が昇っていて繁華街が続き、坂が下る方向を見ると、どこまでの続くマドリードの赤い街並みが真っ青な空を背景に見渡せます。門の外側から先へはいかにも街のヘリらしく、街はずれのわびしさが、漂っていました。

トレド門より北に600メートル進むとマドリードの有名店が並ぶマヨール広場。東に進むと2キロ弱で世界3大美術館の一つプラド美術館などに行くことができます。ホテルは、なかなか便利な立地にあるのです。

 はじめてのマドリード! さっそく徒歩でプラド美術館へとはりきったものの、なかなか大変でした。ホテルから美術館などのある歴史地区に行くには、坂を上らないとたどり着けない。それも結構な急坂なのです。

東京でいうと九段坂下駅から武道館へ進む感じの坂。あれ、重力がおかしいのかな? と疑ってしまうような一見、急には見えないけど、確実に身体に食い込む坂です。マドリードのお年寄りが杖を突きながらもかくしゃくと歩いている様子に「ひざや関節が丈夫だなあ」とついつい感心するほどでした。
 体感でわかったことは旧市街、つまり歴史地区は丘の上にある、ということ。高低差はガイドブックの地図ではわからないものです。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大航海時代を求めて スペインとポルトガル2 白い十字架

2021-04-04 11:10:22 | Weblog
写真は飛行機から見たピレネー山脈(2019年2月14日撮影)

【マドリードへ】
飛行機の窓からは星座がくっきりと輝き、地上は白やだいだいのぼんやりとした発行体がポツリ、ポツリと広がっていて幻想的です。席の前の液晶画面がロシアからポーランドあたりだと表示しています。

 やがてくっきりと見えていた空間に白いもやがかかり、それがふたたび途切れると眼下にピレネー山脈が見えてきました。雪に覆われた白く険しい山々は、フランスとスペイン二つの国を分ける壁。どころかかつてアフリカからイベリア半島を北上したイスラム陣営をも阻んだ峻厳な山脈。迫力が違います。


 山脈を通過するとスペイン。下は赤茶けた大地に。
 マドリードまであと20分とのアナウンスが流れるころ、付近の山の峰には風力発電が無機質に連なっていました。地面が近づいてくると赤い大地ばかりだったところにダムや緑が見えてきました。
 マーブル模様のパッチワークのような畑の中にお菓子みたいな茶色い屋根の家々がみえ、山の峰に抱かれたなあ感じた8時10分、無事に着陸。

【T4ゲートの十字架】
 ほっとして真横をみると、ターミナル4ゲートの北東の山に巨大な白い十字架が横たわっています。すごく目立つのに、ガイドブックや書籍には解説が見当たりません。
あとでスペイン語のサイトで調べてようやく以下のことがわかりました。(googleの翻訳機能を使いました。)

スペイン内戦初期の1936年11月7日から約1か月もの間、共和党側に反対する民間人捕虜2000人以上に対する虐殺がありました。場所はハラマ川をはさんだマドリード対岸の町「パラクエジョス・デル・ハラマ」。そのためパラクエジョスの虐殺と呼ばれています。その犠牲者を追悼したサンミゲルの丘の上にある墓地だったのです。

 作られた年代はいくら調べてもわからなかったのですが、国の誰もが悼みを共有する墓地なのだろうと思ったらさにあらず。

世界史の教科書に必ず出てくる1939年から1975年までスペイン独裁を行ったフランコ将軍は反乱軍。つまりフランコ将軍を礼賛する建造物と受け取られる場所だったのです。

フランコ将軍も苛烈な弾圧で有名な人です。彼を恨む人もたくさんいるのでしょう。いまでも白い十字架にペンキで落書きをしてはネットにその模様をアップしたり、この十字架の写真をアップする人のブログに、たくさんの意見が寄せられたりと物議をかもす場所でした。

マドリード=バラハス空港ができたのは1928年ですが、ターミナル4が設置されたのは2006年とターミナルのなかでは最新です。空港を拡大していくうちに横が墓地になってしまったというわけです。
本を読むよりなりより、スペイン内戦も善悪が簡単ではない血みどろの戦いだったのだとこの十字架が語っているようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Paracuellos_massacres
Web 翻訳ツール (translatetheweb.com)
Web 翻訳ツール (translatetheweb.com)

(つづく)
※春ですね。桜は散り際も美しい。
 4月は更新が若干、不定期になるかもしれませんが、お暇なときにお読みくだされば幸いです。
次週の更新はお休みします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする