雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の回族 サイードシャムスッディーン9

2013-06-28 15:31:17 | Weblog
写真は昆明のチベット料理屋で出てきた羊肉の湯がいたもの。山椒や唐辛子味噌だれを浸けて食べると、体が温まる。
 雲南では羊肉料理を食べる機会が多いが(おかげで娘は「ああ、雲南のときみたいに毎日でも羊肉が食べたーい」とやや中毒気味に叫ぶ子に育ってしまった。幼稚園の給食にも普通に出ていた。)、古来より、雲南ーチベット高原ーモンゴル高原というルートの往来がさかんだったこと、また元の時代にモンゴル軍が雲南に留まったため、食生活にとけ込んだようだ。
 昆明では羊のあらゆる部位を主だったスーパーや市場に行けば手に入れられる。正月前には羊の頭が肉屋の前にかかり、「羊肉の店」の看板がわりとなっていたが、なるほど、そこに犬の肉を置けば「羊頭狗肉」となるのだな、昔から羊肉は高級だったのだな、と、ふと思った。


前回は映画の話で脱線しましたので、本題に戻ります。

【サイード・雲南にて死す】
 これほどまでに雲南への影響を残したサイジャチが雲南の行政官として活躍したのはたったの5年あまりのことでした。雲南に来る前からモンゴル帝国の古老だったサイジャチは雲南で天寿をまっとうしたのです。
 享年69才。雲南の人々は嘆き悲しみ、コーチシナ王は使者12人を派遣し、「号泣震野」したとか。すごい表現です。

ともかく短期間のうちに現在まで強く影響を及ぼすような行政単位や水利土木、文化を形にし、定着させた手腕は驚くしかありません。

 話は飛びますが、ほぼ100年後の元の滅亡時、元の帝室の最後の拠点となったのが雲南でした。地元民も元王側に立って頑強に抵抗し、ついには明の主力部隊が雲南征圧にくる事態となったのも、元初期の雲南征服時のフビライの卓越した人事の才と、それに応えたサイジャチの卓越した手腕のなせる技だったともいえるでしょう。

 現在、中国のインターネットを見てみると、「サイジャチ○代目の子孫」を名乗るブロガーが複数現れ(彼らは雲南か、サイジャチが雲南に来るまでに赴任した土地の回族出身者らしい)、また、松華坝ダム近くの五里多小学校内に、今もなおひっそりとサイジャチの墓が残り、しかも何度も人々の寄付によって修繕されています。

 これは力づくではなく、礼でもって雲南を支配した為政者がいかに歴史上少なかったか、それを実践した人は、時を越え、人々に慕われ続ける、という事実を教えてくれているように感じます。
 おそらくは漢民族ではなく、遠方からきた異民族=少数民族出身という異色の政治家だったことも、雲南の人々の愛着の念を呼び起こしているのかもしれません。     
(この章・おわり)

*日本に『元史』の翻訳がないこと、特別な研究書以外に、こんなにもおもしろいサイジャチの紹介が日本にないので、長くなりました。長くごらんいただいて、ありがとうございました。

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閑話休題・3姉妹 雲南の子

2013-06-16 10:40:55 | Weblog
写真は白馬雪山のお花畑。奥にいるのがヤク。(2004年6月撮影)

【世界的映画賞を数々受賞】
 久しぶりに映画を観ました。ドキュメンタリー『三姉妹 雲南の子』です。
 現在、東京・渋谷のイメージフォーラム(http://www.imageforum.co.jp/theatre/)や大阪・梅田のガーデンシネマで上映中です。他地域も順次公開予定(詳しくはhttp://moviola.jp/sanshimai/theater.html)

 雲南が舞台の映画はこれまでにもありましたが、雲南とはこんなもの、というフィルターごしにつくられているような作品が目立ちました。
ですが、この映画は文句なし、です。

 監督は王兵。これまでも世界的な映画賞を数々受けていますが、当局の許可なく撮影しているため、中国で上映されたことはありません。本作品も2012年ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門グランプリなど5つの映画祭で賞を獲っていますが、中国では観ることはできません。

 場所は雲南省昭通地域の海抜3200メートルの山中にある洗羊塘村。経済発展の恩恵のない中国最貧困といわれる地域の一つです。
 主人公はそこで暮らす3姉妹。両親は長い間不在。母親はゆくえ知れず、父親は出稼ぎ。3姉妹は家畜を世話しながら一つ家でほぼ独立した生活を送っています。近くに父方の親戚が住み、時折、一緒にごはんを食べさせてもらっています。

 10才、6才、4才と、野坂昭如の小説『火垂るの墓』なみの低年齢きょうだいですが、彼女たちは生き続けます。王兵監督が偶然、出会った2年前に、すでに長女が下の子たちの面倒を見て暮らしていたそうです。つまり8才が2才を育てていたのです。
 日々の暮らしが節度を持って撮影されているだけなのに、退屈しません。村の会議があったり、お父さんが出稼ぎから一時帰宅したりと日々は動いているのです。

 さて3人の食事は主に黒くひしゃげた鍋で蒸したジャガイモだけ。そして生活して、遊ぶ。どんな時も遊ぶ。パンフレットには有名人の感想がいくつも書き連ねてありましたが、どんなに熟慮された言葉も陳腐に思えるほど、映像の向こうにある現実は圧倒的でした。

【自立したつよさ】
 海抜3200メートル。私も似たような場所を通ったことがあります。6月。海抜2000メートルでは温かい日差しと焼けるような紫外線が降り注ぐ時でも、3200メートル地点は霧がかかり、寒く、別世界のようでした。しかも高地で空気が薄いため、私にも高山病の症状が出ました。ようやく来た春に一斉に芽吹いたのか、貧栄養の岩場に紫や赤、白などの小花が可憐に咲く自然のお花畑が印象的でした。

 そびえる木にはフワフワとした白いコケが取り巻き、地元の牛・ヤクの放牧の行われている傍らにはヤクの毛皮で編み込まれた黒い三角テントがチラホラ。中では小さな子連れのチベット族と思われる家族が寄り添っていました。

 あまりに幻想的すぎて同じ時空間に住んでいると、すぐには理解できないほどでした。映画では布団は干すどころか湿気すぎて気持ちが悪いベッド、靴もぐちゃぐちゃな様子が映されているのですが、あの気象状況ではそうなるでしょう。それほど厳しい環境なのです。
 王兵監督も撮影中に高山病を発症し、以後は撮影スタッフに任せて下山したとか。

ちなみに3姉妹の父親の出稼ぎ場である通海県は昆明より南の、回族が多く暮らす野菜集積地です。父親は北方の小さな村から直通バスで400㎞以上も南下して行っていました。直通バスがあることに驚きましたが、それほど需要があるのでしょう。

 通海に行くには昆明を通過するはずです。よく昆明の宿舎の周囲で陽に焼けた女性達が資源回収をしたり、ものを売ったりしていましたが、彼女たちの多くは、どんなときでも胸を張り、誇りに満ちていました。
 なんでちょっと偉そうに思えるほどのパワーがあるのだろうと不思議でしたが、3姉妹もどんな時でも芯の強い誇りをオーラのようにまとっていたのです。これはどんな苛酷な環境でも自立して生きている誇りなのだ、と、この映画で根源的なものに触れたような気がしました。

*次週は更新はお休みします。
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雲南の回族・サイードシャムスッディーン8

2013-06-09 10:44:23 | Weblog
写真は大理付近の畑の中のため池(2004年1月撮影。)乾期のど真ん中でも高原には湖沼が多い。雨期には付近が水浸しになることも。そのため、雨期には崖の道が泥沼状態になったり、数百キロはあろうかという大岩がごとりと道をふさぐこともしばしば。運が悪ければ、岩が当たってしまったり、乗り込んだバスが崖下に落ちる事故がしばしば起こる。私も道の大岩のために一日、足止めを食ったり、道が流れてしまったので、目的地に行けなかったり、あの岩が当たっていたら危ないところだ、と肝を冷やしながら通りすぎたりしていた。ただし、ここ数年はひどい干ばつが続いているので、道がふさぐほどの大雨が降ったかと思うと、カラカラで用水路も干上がる、という深刻な事態が続いている。

【すぐれた行政手腕】
 このような武力にも勝るサイジャチですが、彼の本職は、将軍と呼ばれるような軍事専従者ではなく行政官でした。

 雲南では
①税を軽くし、
②行政単位の軍県を設置、
③屯田を実践し、
④松華坝ダムを造ったり河道を整備するなどの水利を行い、
④雲南の農業に内地の先進技術を伝え、
⑤成都から昆明への早馬を伝える駅路(高速通信網および高速道路)を整備し、
⑥橋をかけるといった交通網の整備を行い、
⑦日月蝕や季節を観測できる観測所を雲南に設け、薬局を設立し、病院を造る、といった天文、暦法、医学を雲南に伝え、
⑧孔子廟、イスラム教寺院を建立し、
⑨漢族に伝わる婚礼葬礼の制度を教えました。

 屯田や灌漑の設備などは、戦乱が長く続いた中原でもモンゴル帝国は行っていましたが、今まで進んだ技術が施されてこなかったところに技術を施し、その後も長く使われ続けたという点では、雲南に大きな変化をもたらしたといえます。

特に水利に関する土木関係は現在にも役に立つ礎となりました。日本でいうと、たとえば江戸時代に暴れ川だった利根川の流れを変えて銚子に流し込む水路を造った大土木工事のようなものでしょうか。

ダムから滇池への水道(みずみち)はそれほど都市を成立させる上で重要だったといえます。また、昆明での治水の遺跡としては、元代の松花坝のダムが、昆明では最古にして、今、唯一存在する古代水利設備だそうです。じつは文献には後漢の時代に益州郡太守の文斉が灌漑した、との記述があるのですが、その遺跡は現在のところ発見されてません。

 また成都-大渡河-建昌路-昆明へといたる駅伝、つまり早馬の整備が1278年(至元15年)に整ったとはいうもののなかなかの悪路で、雨期にあたる夏場には通行できなかったそうです。

 この駅伝の道については600年あまり後に、日本人が上海に立てた学校・東亜同文書院の学生らが卒業旅行に昆明からたどっています。それほどの悪路になるとは知らなかったのでしょう。日本から香港経由でベトナムへ。そこからホーチミンから滇越鉄道で昆明に入り、昆明からゆるゆると馬と徒歩で四川へと旅立つころにはどっぷり雨期に。道が川となり、本人たちは泥まみれ、ヒルには食われ、お供に雇っていた地元の人々はお金を持って逃げ出すという悲惨な卒業旅行をしたことが彼らの記録に残されています。         (つづく)
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