写真は紅河ハニ族イ族自治州を流れる甸渓河付近。このあたりを流れる河は、文字通り「紅い」。中国の名物煙草「紅河」もこの州で作られる。また、民族を「デン」「バン」と呼んでいたせいか、多くの地名が長い年月の間に、居住してきた漢族好みに改変される中、河の名前にその名残がある。(2004年10月撮影)
【自軍の兵を処罰する】
また雲南の羅盤甸
(現在の元江付近に住むイ族の人々、の説が有力。元江は昆明より南に120㎞ほど南下した紅河州にある。)
が叛乱をおこしたため、鎮圧に元軍が向かったときのこと。サイジャチの憂い顔に使者が問うと
「私は出征を否定しているのでない。おまえ達がむやみに乱暴を働いて、無辜の民まで殺すのを憂うのだ。平民のものを強奪したり、捕虜にしたり、慰みものにしたりしてはいけない。民が叛乱を起こしたら、ただ征圧のみ行えばよいのだ。」といいました。
羅盤城に着いてから3日、膠着状態が続きました。しびれを切らした諸将が攻城の許可を願い出ましたが、サイジャチは許可せず、使者を送って理で諭すことにしました。
羅盤城主は「謹んで命を奉じましょう」と、使者に投降の意志を伝えたものの、その後3日経っても、まったく降参する様子がありませんでした。そのためモンゴルの諸将は、今度こそ進軍しようとしましたが、サイジャチはまたも許可しません。がまんできなくなった将軍と兵達が城攻めをはじめたところ、サイジャチは大いに怒り、進軍を鐘の音を止めさせ、叱責しました。
「天子は私に雲南を鎮めよ、と命じたのであって殺戮を命じられたのではない。私は好きなように攻めよとは命じていない。よって軍法に照らして処罰する」
といって、左右のものに命じて将軍らを捕縛しました。将軍らは首を切られ、またサイジャチは城下で開城するのをひたすら待ったのでした。
羅盤城主はそのことを聞いて、
「平章(サイジャチの肩書き)は、じつに立派な心の持ち主のようだ。命を拒み続けることは、かえって不吉なことのようだな。」といい、国を挙げて投降したのでした。その時もサイジャチは羅盤の将卒もわけもなく誅殺することはありませんでした。
このことを聞いた西南の諸民族は、いろいろと納得するところがありました。酋長らがサイジャチのところにやってくると、献納するものがあれば、官を授け、貧民には給付を出し、私するところがまったくありませんでした。酒食で酋長をねぎらい、服から靴まで授け、粗末な服や草履を履き替えさせますので、酋長たちは皆感激いたしました。(24史『元史』巻125/サイジャチ伝より)
侵略の時代にあって、サイジャチはこのように、兵力を重視するのではなく、あくまで理で諭すことに重きを置いたのでした。
(つづく)
【自軍の兵を処罰する】
また雲南の羅盤甸
(現在の元江付近に住むイ族の人々、の説が有力。元江は昆明より南に120㎞ほど南下した紅河州にある。)
が叛乱をおこしたため、鎮圧に元軍が向かったときのこと。サイジャチの憂い顔に使者が問うと
「私は出征を否定しているのでない。おまえ達がむやみに乱暴を働いて、無辜の民まで殺すのを憂うのだ。平民のものを強奪したり、捕虜にしたり、慰みものにしたりしてはいけない。民が叛乱を起こしたら、ただ征圧のみ行えばよいのだ。」といいました。
羅盤城に着いてから3日、膠着状態が続きました。しびれを切らした諸将が攻城の許可を願い出ましたが、サイジャチは許可せず、使者を送って理で諭すことにしました。
羅盤城主は「謹んで命を奉じましょう」と、使者に投降の意志を伝えたものの、その後3日経っても、まったく降参する様子がありませんでした。そのためモンゴルの諸将は、今度こそ進軍しようとしましたが、サイジャチはまたも許可しません。がまんできなくなった将軍と兵達が城攻めをはじめたところ、サイジャチは大いに怒り、進軍を鐘の音を止めさせ、叱責しました。
「天子は私に雲南を鎮めよ、と命じたのであって殺戮を命じられたのではない。私は好きなように攻めよとは命じていない。よって軍法に照らして処罰する」
といって、左右のものに命じて将軍らを捕縛しました。将軍らは首を切られ、またサイジャチは城下で開城するのをひたすら待ったのでした。
羅盤城主はそのことを聞いて、
「平章(サイジャチの肩書き)は、じつに立派な心の持ち主のようだ。命を拒み続けることは、かえって不吉なことのようだな。」といい、国を挙げて投降したのでした。その時もサイジャチは羅盤の将卒もわけもなく誅殺することはありませんでした。
このことを聞いた西南の諸民族は、いろいろと納得するところがありました。酋長らがサイジャチのところにやってくると、献納するものがあれば、官を授け、貧民には給付を出し、私するところがまったくありませんでした。酒食で酋長をねぎらい、服から靴まで授け、粗末な服や草履を履き替えさせますので、酋長たちは皆感激いたしました。(24史『元史』巻125/サイジャチ伝より)
侵略の時代にあって、サイジャチはこのように、兵力を重視するのではなく、あくまで理で諭すことに重きを置いたのでした。
(つづく)
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