雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南はいま2・ 発展する中規模都市

2008-08-29 22:58:50 | Weblog
写真は雲南中部にある谷あいの街・個旧。谷の中心にある70ha(東京ディズニーランド1.5倍の大きさ)の金湖を囲むようにがっちりとコンクリートで固められたビルが建ち並ぶ。

【涼しい・・】
 今回、バンコクと昆明に行って感じたのは「日本の異常な夏ぶり」です。日本ほど、気温も湿度も、しつこいほど暑苦しい国はない。バンコクですら涼しく感じる恐ろしさ。昆明では連日20度を割り込み、湿度も20%を切っているだけに夏の服装しか用意していなかった身としては「しまったー」と思えるほどの涼しさ。あわててウオルマートで厚手のズボンを買い込まねばならないほどでした。

 また雲南では雨期のど真ん中とあって例年以上に各地で、浸水、崖崩れの被害が続出。ベトナムに台風が接近しているのがその原因とのことですが(雲南はベトナムと国境を接している)、こちらもゲリラ雷雨となっていました。昆明も連日の雨に鬱々としましたが「雷雨」の予報が出ていたにもかかわらず、いきたかった雲南省中部にある「過橋米線」の発祥地の街を転々と歩き回った結果、うまく雨の隙間に移動することとなり、水没したアスファルト道路などには直面しましたが、大雨にも、土砂災害にも遭わずに、無事、過ごすことができました。

【雲南中部の都市・個旧と蒙自】
 さらに、昆明の建設ラッシュはさほどではなかったものの、雲南の主要都市は目を見張るばかりの発展ぶりには驚かされます。昆明から南へ行くことおよそ200キロ、雲南省中部の都市・個旧は、新聞では、友人を持っていた果物ナイフで刺して殺した、といった血なまぐさい事件でよく取り上げられています。

 そこで、どんな街なのかといってみると、明・清時代から現在まで中国を支える錫の主産地で今も目つきの鋭い鉱夫の闊歩する街でした。人々の動作がどこかキビキビしていて料理店にしても作業場は清潔に保たれています。ただひたすら愛想がないだけ。バスターミナルに降りるなり「リーベンレン(日本人)」というささやき声が聞こえ、タクシーに乗ろうとしても「俺は長距離ねらいなんだ。そんな短距離は自分で歩け」と言ってのける20世紀初頭のアメリカのウエスタン映画に出てきそうな気風をたたえた街です。

 この錫で潤っているのか、小さな街にはオリンピックもできそうな紅いアスファルトで作られた立派な陸上トラックが3つ、プールが一つあり、街全体も不自然なほどアスファルト道路と新しいビルと公園で成り立っていました。

 そこから乗り合いバスで1時間もかからない蒙自はかつて銀の採掘と交通の要衝地としてにぎわったという街です。かつて科挙の合格者が続出した豊かな街だったとはいっても、飛行場もなく、昆明からも遠い。どんな不便な街でもガマンガマン、と覚悟を決めて乗り込むと、意外にも手入れの行き届いた植栽並木の続く、緑したたる美しい街でした。

 新市街にはプールや麻雀室、会議室なども整えた、中国観光局が定める最高級の「5つ星ホテル」が。ピカピカに磨き込まれ、白鳥と黒鳥が優雅に泳ぐ美しい庭園を持つ居心地のいいホテルが一泊2人部屋で240元(約3500円)。また大学もあり、さらに文化的な施設が無料で見学できるという、ものすごく恵まれた都市だったのでした。
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雲南はいま1,警備の現実

2008-08-23 11:09:33 | Weblog
写真は2008年8月8日の市街地からほど近い昆明国際空港の到着ロビーの出口付近。普段からあまり賑わいのない空港とはいえ、これほど人がいない空港ははじめてのこと。写真奥には脇目もふらずに巡回する集団警備員の姿が。この6人体制の警備は街のあちこちで見られた。

【トイレが遠い】
 5年前は成田から昆明へ直行便で昆明に到着できました。これが、4年前から上海や北京などで国際便から国内便に乗り換えなければ(上海の場合は国際空港の浦東から、国内空港の虹橋へバスなどで移動しなければならないことも)たどり着けなくなってしまい、どんどん雲南は離れていくなあ、と感じていました。

 ところが、今回はさらに遠くに。無謀にも北京オリピック前の8月6日に出発することになった不運も重なり、一月前に予約を入れようとすると、バカ高い席をのぞいて満席だったのです(「北京オリンピックでも日本からの観光客は少ない」とニュースで報じていたので油断していた!)そのためバンコク経由で行くことになり、せっかくならバンコクを一日観光しようと旅程を組んだところ、なんとオリンピック開会式当日の中国入りとなりました。

 さぞや入国手続きは厳格に違いないとおそれていると、昆明・巫家垻国際空港の入国手続きは係官が微笑みすら浮かべて、あっさりと完了。流れるように空港のタクシー乗り場へ到着。麻薬捜査犬はいるものの、いつも以上に人の少ない空港でこれは楽だ、と思っていると、娘の「トイレー」の一言。

 あわてて空港ロビーに戻ろうとすると、さきほど出たばかりの出口にはいつも間にか警備員やわけのわからないお友達風連中が座り「再入場はだめ」と封鎖します。私も必死に食い下がりましたが、前のホテルで借りるか、道ばたでどうぞ、とすげない返事です。さらに、ふと、前を見ると、黒帽に黒の防弾チョッキをものものしく身につけた警備員の集団が通り過ぎて行くではないですか。どうやら巡回警備らしい。

 わけのわからないものものしさに、しょげかえっていると、どこへ行っていたのか同行していた夫が意気揚々と帰ってきて「リコンファームできたよー」と脳天気な声。彼は彼らのお昼休み中になんの苦もなく入り、航空会社のカウンターで手続きしていたのでした。娘と私は一呼吸、間が悪かった、というわけです。しかし、そんな穴だらけの警備でいいのか?

 一方、帰国の際の荷物検査では、白族らしい服を着た標準語の話せないおばあさんから道ばたで買った、白い飴のようなハッカのような食べ物を見とがめられ「あわや麻薬」の疑いでちょっとだけ、足止めを食らうという笑えないハプニングもありました。

【すべてはオリンピックのため】
 街では、テロの起こった路上付近で検問ボックスが設置されていたり(怪しそうな自転車を止めてみたりするだけ)、銀行のある繁華街では空港と同様に集団の巡回警備が見られましたが、それこそ集団で前をきっちりと見ているだけ。
 地元の新聞には例の黒帽の巡回警備員の写真とともに一面で「我々は北京オリンピック成功のために、閉会の日まで警備を続けます」との文字が。またテロの起きた公共バスも便利なので利用していましたが、こちらはまったくのノーガードでした。

 今回は昆明から遠距離バスで雲南名物「過橋米線(クオチャオ・ミーシエン)」という料理を追って、その発祥の地といわれる個旧や蒙自へも行きましたが、警備は、いつもはバス乗り場ではなかったバスターミナルで手荷物を開けての検査と、昆明から高速道路に乗るあたりで、検問でした。その内容は運転手が手続きをし、公安の人がバスに乗り込んで、ひと渡り目で見て「オーケー」で終わり。そんなことで不審者が本当にわかるのかと、疑問のわく警備体制がそこかしこで展開されていました。

【お盆に焚く火も禁止に】
 一方で、市民は、オリンピックで盛り上がっているかというと、さにあらず。相変わらず、ひまそうな人はテレビをつけっぱなしにはしているものの、見ている番組は「カンフー時代劇」もの。オリンピックで興奮しているのはスローガンのかかれた垂れ幕ぐらい。たまに「今日は都合により、お休みします」の張り紙に「オリンピック観戦のためかしら?」と類推するのが関の山でした。

 とはいえ、昆明市内ではあれほどたくさんいた物乞いはほとんど見あたらず、路上で食べ物を売る人々に写真の許可を求めると、たいてい「ダメ」。彼らは許可なく、路上で店を出しているので、取り締まりが厳しくなると、とってもまずいことになるのです。カメラを持っているだけで、警戒して怒り出す人もいるほど、市民のほうがピリピリとした空気になっていました。警備網はテロを起こす可能性のある人を探すより、市民に規律を守らせるほうに結果的には重点がおかれていたのです。

 旧暦の7月半ば(今年は8月13日から8月15日)には昔からある風習で、毎年、河の岸辺や路上でお線香を焚き、紙銭を焼き、お供え物を供える光景が各所で見られるのですが、それも「ゴミになる」と厳しい取り締まりの対象となっていました。祭祀のあとの片付けの勧めではなく、一足飛びの禁止。なぜ、そこまで、と思わずにはいられませんでした。
 
 そんな中でも市民憩いの公園では自慢の鳥の鳴き声を聞き合わせたり、踊りや太極拳を楽しむ、といった落ち着いた光景も、そこかしこで市内のメインストリートでファッションショーが開かれたりと落ち着いた暮らしぶりも、たくさん見られました。
 (この章つづく)

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‘保護’された茶王

2008-08-01 22:24:38 | Weblog
写真はシーサンパンナのハタ郷の茶王樹近くにて。静かなダム湖で、付近のアイニ族(中国政府はハニ族の中に入れている少数民族)の村人以外は入り込むことのない道の奥にあるにもかかわらず、水は緑色に濁っていた。日本でいうところの清流は中国では、ほとんどないのかもしれない・・。

話は茶王に戻ります。
【ひどすぎる保護】
 前回の2700年の茶王の‘保護’は専門家でない私でも、あんまりだと思うくらいだから、専門家から見ると、目を覆わんばかりの処置、ということになるようだ。

西双版納(シーサンパンナ)熱帯植物園副研究員・張順高氏は
「もともと茶樹は酸性土壌を好むので、アルカリ性であるセメントを用いると根の呼吸に甚大な障害をもたらします。土を踏み固めるのもダメです。また、他の参観設備の設置も長年、古茶樹の周囲にあった生態環境を改変してしまい、悪影響を及ぼします」と指摘している(春城晩報2004年8/26)。

【樹齢800年の古茶樹群も死滅】
さらに新聞を読みすすめて衝撃を受けた。古茶樹の危機はこの「古茶王」一つだけではなかったのである。同じく雲南省南部にある西双版納州モン海県にある樹齢800年以上の栽培型古茶樹群も90年代初めより同様の「保護措置」を取られ、多くが枯死してしまったというのだ。その際、専門家チームが急遽、救助にあたり、生き残った木のうち数本は息を吹き替えしたかに見えたが、それも5年以内に死んでしまった。

【枯れた千年茶王】
2004年11月には同じく西双版納州のすぐ北にあたる思茅市瀾滄県恵明郷景邁村にある1万畝の古茶園内で樹齢千年の茶樹が台湾系企業の‘保護’により枯死したという記事が出た(都市時報11/18)。この木は村落内にあったもので、毎年4月に村人たちがこの木の前で祭りを奉納し、大切にしていたものだ。(つづく)

(暑い中、いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。もし、感想を書く余力がございましたら、お書きくださると、うれしいです。)

*次週より2週間、新規投稿はお休みします。



コメント (3)
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