雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

丹増あらわる④

2017-09-24 14:43:11 | Weblog


写真は大理の夜の舞台「胡蝶の夢」の一場面。派手な音響と光と衣装とアクロバティックの洪水。そもそも、大理に、若い男女の悲恋物語として「胡蝶の夢」という民話があることから、作られた舞台となっている。
 
【丹増の文化事業】
先に書いたように副書記には同時に数人が任命されていて、それぞれに役割があります。現在の書記に不祥事がおきると、副書記のなかから書記が選ばれることもよくありました。

 当初から胡錦濤勢力の一端と思われる雲南省長の徐栄凱からは
「丹増同志は雲南文化産業と雲南文化事業の総監督、総首領を担当してもらっている。彼は非常に抜きんでていて、我々は丹増同志にたいへん感謝している。」
 といわれていて、彼の役割が文化事業であったことがわかります。

丹増は一流監督の招聘に限らず、あらゆる文化事業の推進に邁進しました。
舞台事業もその一つです。

 日本での公演に限らず世界中で舞踊家、演出家としても大成功している雲南の舞踊家ヤンリーピンの舞台「雲南印象」の宣伝にも一役買いました。

 この舞台は昆明に常設の劇場で毎夜、ヤン・リーピンを中心にほぼ連日、開かれていたのですが、この宣伝をホテルや街角のポスター、タクシーの後部座席にシールを貼るなどして大宣伝を行いました。
 
タクシーの運転手やホテルのフロント、旅行会社の添乗員に頼むと、簡単にチケットを購入できるシステムになっていて、雲南旅行の際のオプションとして大活用されました。地元新聞でも連日、記事として取り上げられ、文化面の目玉となっていました。

 このシステムの大成功によって、観光誘致のための夜会的な舞台が中国各地で行われるようになりました。
 大理では「胡蝶之夢」、シーサンパンナでは「モンパラナシー」、シャングリラでは「シャングリラ」、麗江では「印象・麗江」と「麗江金沙」という雑伎舞踊劇を市の旅行産業と連携して行い、それぞれに成功を収めたのでした。
              (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題・巨大な映画撮影都市・横店

2017-09-17 16:29:31 | Weblog


写真は麗江の昔の町並み保存地区入り口のモニュメント。江沢民揮毫の文字もある。ここから一歩入ると、麗江の昔の町並みと土産物屋がずらりと並ぶ。地元の方々は他地域からくる芸術家などにテナント貸しをし、自身は裏の家で暮らすのだという。

【雲南は映画の拠点にはなれず】
丹増のかけ声もあって、雲南は東洋のハリウッドを目指しましたが、雲南独特の自然や景色が開発によって破壊され、世界的名声のある監督たちから次々とダメだしを出されてしまいました。がんばって麗江や大理にある程度、名のある撮影基地は作ったものの、今ひとつ、ぱっとしなかったことは以前に書いたとおりです。

 このように2004年ごろに中国各地でチャイナ・ハリウッドを目指して映画村が作られてきたのですが、その中で大成功を収めているのが大都会に距離的に近く、交通インフラも整った「横店影視城」です。

 場所は中国でもインフラの整った中国沿海地区に近い浙江省金華市。上海から高速道で1時間半ぐらいのところです。
 最初は小さな寺をセットにして使っていたところ、2004年に国家のてこいれが入り、今では広さ331平方キロメートル(東京ドーム7080個分)という超巨大な撮影基地に成長しました。

 中には秦王宮や明清時代の街の再現、紫禁城(故宮)の実物大セットや香港の街、広州の街、国宝級名画として有名な清明上河図の再現した場所がセクションごとに作られています。

 ここで張芸某監督の「HERO(英雄)」や浅田次郎原作のNHKドラマ「蒼穹の昴」(田中裕子が西太后を演じて中国でも「もっとも本物に近い女優」と称えられた)、中国のテレビで連日、放映されているファンタスティック時代劇ものなど数え上げると切りがないほど撮影がなされています。(映画:アヘン戦争、無極、レッドクリフ…、テレビドラマ:雍正王朝など。)

 国家5A級旅遊区という、観光地としての格付けトップにも指定されていて、見応えたっぷり。

 日本の中国専門旅行社には中国映画やドラマの撮影地を巡るツアーも時折組んでいて、毎回、大盛況とか。ちょっとした角度に「あ、この角度はあの映画の、あの場面のところだ」とか、興奮スポットは数知れず。

すぐに席が埋まってしまうそうなので、ご興味のある方は、お申し込みされてはいかが?
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹増あらわる③ 陳凱歌も・・

2017-09-09 11:23:27 | Weblog

写真はシャングリラの観光の目玉、チベット仏教の名刹・松賛林寺。周辺には草原が広がっているが、その草原には観光用のホテルから出た汚水や民家のゴミが草原に野ざらしになっている光景も見られた。海抜3300メートルと高地のため、排ガスも不完全燃焼をしていて、たいへん黒く、臭い。神秘の場所とはとてもいえないのであった。
【巨匠らが続々・・】

 さらに、2005年公開の陳凱歌監督の「無極(PROMISE)」はまさに丹増が強く雲南を撮影基地として宣伝したところ、2004年に雲南で撮影が行われました。

 真田広之が主演しており、全編中国語で参加しています。昆明で撮影前のインタビューでは、通訳なしで中国語で応答し、中国でも真田広之ファンは少なくないと見えて、昆明の新聞では大きく取り上げられていました。

 雲南でも土の柱がたくさん立っているような不思議な景観を持つ「土林」での撮影を終え、幻想的なシーンも含む場所としてシャングリラでの撮影が次に行われることに。

 まもなく到着すると聞いたシャングリラの人々は「歓迎! 無極撮影隊!」などと各所に横断幕を掲げました。ところが前の撮影が長引いていたため、シャングリラの地元紙は「まだ来ない」「まもなくです」といった、切ない記事をかかげて待つこと2週間。

 やがてひっそりと陳凱歌監督は一度はシャングリラに降り立ち、「私のイメージに合わない。幻想的ではなかった!」と言い残して、ホテルに泊まる事もなく去り、結局、内モンゴル自治区でそのセクションは撮影を行いました。

 映画の生涯をかけた巨匠監督らが相次いで、雲南での撮影をキャンセルする事実! 映画を呼ぶには雲南の落ち着いた自然と暮らしこそが大切、との巨匠監督らのメッセージが行動から伝わってくるようです。

 それにしても呼ぶ監督、いずれも巨匠ですが、文革期に下放され、その後、大学の映画科に入学した文革後の第一世代ばかり。中国では「第五世代」と呼ばれる人々です。これはこの世代に世界的なネームバリューの監督が多いことだけではなく、丹増と同世代のため、何かと話をつけやすい事情があるのでしょう。

 また、以前、当ブログでも触れた雲南を東洋のハリウッド化計画をぶち上げて、ジャッキー・チェンに映画撮影を一コマでも雲南でしてもらう計画を了承させた件もあり、雲南でも人気の高いジャッキーファンを熱狂させました。
                                    (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹増あらわる②

2017-09-03 14:30:28 | Weblog
写真は雲南北西部・徳欽県を流れる怒江。昔から3000~5000メートル級の急峻な崖の合間を猛スピードで駆け抜ける河のために橋がなかなか架けられず、舟の行き来も難しい地域とされていた。「中国のグランドキャニオン」と呼ぶ人もいる。この崖のわずかな縁に道を作り、茶や塩などを馬に背負わせてチベット族は北京やインドを目指して長い旅をしていた。この道を「茶馬古道」と名付けて、意義が見直されている。下記の映画「茶馬古道」はその光景を追っている。崖にともすると馬が荷物ごと落ちるなど、たいへん危険で命がけの旅であることが伝わってくる。
 また、19世紀にはフランス人宣教師がこの地で布教をし、教会も建てている。たまたまこの地でおじいさん(?)が宣教師をしていた、という老婦人が訪ねてきて、熱心に絵はがきなどを買い、人々に聞いて回っている光景にも出会った。
 

【壮壮たる監督、降臨】
 また、2004年には田壮壮監督(日本では『青い凧』で名声を博す)のドキュメンタリー映画「茶馬古道・徳拉姆」が上映されました。
 この映画は茶馬古道が学術上の関心を呼び、調査が進められているなかで1999年より田壮壮監督が昆明、シャングリラ地方、麗江などを8回にわたって視察し、その後、映像を撮り進めてつくられた作品です。この作品によって彼の長いキャリアの中で初めて中国映画祭の最優秀監督賞に選ばれました。丹増が呼んだプロジェクトではありませんが、公開時期がその頃に重なったため、雲南でも大きくポスターがバス停など各所に貼られていました。

 さらに2005年10月には、中国映画誕生100年と銘打って、その式典の一環として蒙自で中国紅河映画周という式典を催し、謝晋監督、田壮壮、姜文ら世界に響く映画関係者を集めて式典を催し、成功に導いたのでした。

 その目的は彼らに雲南で映画を撮って欲しい、ということを伝えるためでもあったのですが、謝晋は別のインタビューで
 「雲南の指導者は協力的だし、よく知っているし、世界でも珍しいほど多くの少数民族がいて、みな映画に協力的だ。だが、たとえば上海で映画を撮るとすると、上海は中国最大の大都会という以外に特徴がないように(雲南にもそれ以外の特徴が今ではない)。海南島には映画を撮りたいと思わせる熱いものがある。」(2012年のテレビインタビューより抜粋)

 と断言しています。たしかに当時より少数民族の生活様式を見せたり、歌舞音曲をショー的に見せることが、雲南でも強力に推し進められた時期でもありました。西部大開発の余波でダム建設のためなどで、村ごと移転するといった社会変動もあり、昔ながらの伝統的なくらしはどんどん見えなくなってきました。
 一流監督らがのぞむ本来の自然ゆたかな大地や、暮らしに根ざした祭りや衣服がなくなり、博物館や民族村でしか見られないものとなっていったのでした。
  (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする