雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の豆腐⑫焼豆腐Ⅴ

2010-06-27 20:51:03 | Weblog
                        
写真は焼豆腐となる臭豆腐を干しているところ。真っ白だった元の豆腐は見事に黄色くなっている。焼くと、プツプツの気泡のせいで外は固く、中はふんわりする。

【じつは特殊な製法・建水の焼豆腐】
あまりにもシンプルすぎる方法のため、中国各地でさかんに作られている各種「臭豆腐」の作り方を集めた本には、どんなに細部まで読んでも出てこない。日本の各種豆腐の本、食物事典もしかりだ。かなりの時間をかけて30冊ほど読みあさり、また、インターネットで調べもしたが、かすりもしなかった。

 ちなみに普通は、まず固めの豆腐を作り(ここまでは建水の焼豆腐も同じ)、それを切って小さな固まりとし(建水では刃物で切るのではなく、適当に崩してましたね)、それからカビ付けし(そこまで本格的ではなかったですよね。塩を振って自然のカビ待ちでした)、漬け物の汁の残りをベースにした塩辛い「臭い汁」や酒などに漬け込んで発酵させる(この工程はまったくありませんでした)。各地で臭豆腐のバリエーションができるのは、このカビの種類と付け汁の違い、にあるといって過言ではない。

 ただ、豆腐の固まりを20センチほどの布で一つ一つ四角くきっちりと包む、という方法だけに注目すれば、似ている製法が一つだけあった。臭豆腐の製法の特殊なものとして注目される浙江省紹興市(紹興酒のふるさとです)のものだ。

 規格は建水のものよりはやや大きく、一片の長さが5.3センチの正方形で厚さが1.8から2.2センチほど。これを臭豆腐用の塩汁に3~4時間漬け込んで出来上がる。この製法だと熱暑の中でも2日は持つという。当然、汁のしたたり落ちる製品となることはいうまでもない。

 私も紹興で食べたことがあるが、軽く醤油に漬け込んだ茴香豆のゆがいたものと、この豆腐をゆがいたものを酒の肴に、きゅっと紹興酒、という、日本人好みのさっぱりとした取り合わせ。塩味が深くて、暑さしのぎにちょうどよい味つけだった。魯迅が好んだ酒の肴だと店の主人は話していたが、真偽のほどはわからない。(紹興は、中国の文豪・魯迅が幼少期を過ごした故郷です)

 日本ならゆがいた枝豆と冷や奴、というところだが、独特のクセがある紹興酒には、下味のついたツマミの方が合うようだ。

 建水の臭豆腐が、「臭」という名を冠しながらも、あまり臭くはなく、しかも干した豆腐のため汁気がない、というのは、じつは中国でも珍しい臭豆腐のようである。一般の「臭豆腐」と豆腐の中間に位置する食品といえるかもしれない。

 いや、もしかしたら、これぞ臭豆腐の昔ながらの作り方で、明代に雲南に伝えられて以降、歴史の波間に冷凍パックされたような豆腐なのかもしれない。

 ともあれ、標高が1400メートルほどと比較的高く、湿度の低い土地柄と、豆腐に合った恵まれた水環境ゆえに、途中で腐ることもなく、作ることができるのだろう。 (建水の焼豆腐・おわり)
                
            

               

*いやあ、冷や奴のおいしい季節になりました。豆腐の項、長くなっております。予想はしていたのですが、豆腐の奥深さにどっぷり。日本とは違う進化を遂げた中国の豆腐の話、まだまだ続きます。お付き合いくだされば幸いです。
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雲南の豆腐⑪焼豆腐Ⅳ

2010-06-20 16:52:54 | Weblog
西門の豆腐工場にて。裏に回ると黒竜江省産とかかれた大豆の袋が山のように積まれていた。

【西門の豆腐工場】
 1883年(清光緒9年)より豆腐を作りはじめたという工場は、2階建てとはいえ、あまりにも小さい。ちょうどギラギラと太陽の照りつける8月の昼寝どきだったせいか、街全体がシーンと静まりかえっていた。工場を覗くと、薄暗い中に人影は一つだけ。浅黒い顔の、いかにも働き者らしいおばさんが小さな木の椅子に座り、もくもくと作業をしていた。

 その作業は興味深いもので、左手には、赤や黄色に彩られた美しい手のひらサイズの薄絹を持ち、右手でザルに山盛りにされたわざと形の崩された、雪のように白い固めのもめん豆腐を匙で掬っては、左手の絹に納めて器用に一つずつ包む。大きさは町で見覚えのある1個0.1元の「焼豆腐」そのものだ。それを平たい板の上にきれいに並べてはまた、その上に板を載せ、それを際限なく繰り返していた。

 崩された豆腐は箕の上に木綿の布を敷いた上に盛り上げられ、箕の下のバケツが受け止める。その箕の中の山盛りの豆腐があっという間になくなるほどのスピードで、おばさんは次々と包みあげていた。街で10個1元の焼豆腐の、この最初の工程の手間賃は、一体どれほどだというのだろうか。

 さて、だいたい15層ぐらいに積み重ねると、板の上に煉瓦を一層+αを載せると、ちょうどの重みで豆腐の水が流れ出て、固めの「臭豆腐」の原型が出来上がる。一度、ひっくり返すと、一番上の段が下となって、また圧力の具合がよくなる。とんでもなく手間のかかる作業に気が遠くなった。

 さらに水が流れ出て、硬く締まると、今度はせっかく几帳面なほどに丁寧に包んだ薄絹を一つずつ、きれいにはがしてザルに並べる。

 最後に塩をまんべんなく掛けて、さらに箕で蓋をして、日に一度はひっくり返す。こうして日陰に2,3日置くと、ほどよく灰色が買った白い臭豆腐が出来上がる。こうして建水の町のアチコチの日陰には小さい瓦のような臭豆腐をザルに干されているのだった。
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雲南の豆腐⑩ 焼豆腐Ⅲ

2010-06-12 19:38:44 | Weblog
              
写真は焼豆腐と、乳酸発酵させた漬け物の残り汁でといた付けだれ

           
建水の町のあちらこちらにあるメガネ井戸。住民はひものついたバケツを投げ入れて器用に水を引き上げる。           

【ニガリいらずの魔法の水?】
水にも特徴がある。建水では「水売り店」が栄えるほど、地元の人は独特の水を誇りにしている。その水にも2種類あり、井戸によっては、不思議なことに、普通はニガリを加えて豆乳を豆腐へと固めるのだが、ここらの水は、その水のもつマグネシウムなどの成分だけで固まってしまうものもあるのである。石屏も同様だ。日本と違って「硬水」が当たり前の大陸、その中で豆腐を作るのに適した成分が水に含まれていて、人工的なニガリよりも雑味がないどころか丸みがあり、しかも安いとなれば栄えない方が不思議なくらいであろう。
【西門豆腐店】
そこで建水で有名な焼豆腐となる「臭豆腐」製造工場を訪ねることにした。建水県が臨安府と呼ばれていたころ、清代中後期から一貫して名を挙げ続ける工場が今も、最高品質のものを作り続けている、と聞いては居ても立ってもいられない。
場所が分からないので町で聞く。「それなら西門だ。」「西の周さんだよ。」皆、口を揃えて教えてくれるのだが、かつて町を囲っていた建水城の城郭の西の付近をいくら探しても見あたらない。それもそのはず、町は区画整理でアチコチを壊しまくり、西の工場も崩れた土壁の間の影にひっそりとたたずんでいた。 (西門豆腐の項、つづく)

*次号、この不思議な焼豆腐の製法が明らかに!

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雲南の豆腐⑨焼き豆腐Ⅱ

2010-06-05 19:41:38 | Weblog
写真は焼豆腐の付けタレ。パウダー状のもの。あらかじめ店が刻み唐辛子と塩、山椒などを混ぜてくれたパウダーや、山椒、刻み唐辛子、菜種油、ハッカ、椒塩(炒った山椒を細かく砕いて塩と混ぜたもの)、グルタミン酸ソーダなどを、客が適当に混ぜて付けてにして、焼豆腐に絡めてぱくりとほお張る。

【雲南料理の発祥地・滇南】
 しかし、なぜ滇南にばかり食文化が栄えたのだろうか。

 その理由は明代の政策が深く関わっている。雲南を制圧した明の朱元璋は、中国各地から集めた屯田兵を南京へ一度、集めた後、雲南へと送り込んだ。そのため明代に中国各地で広まった食文化が滇南に移植され、清末には、滇南の地が商業の中心地となったことで、この地で栄え極まったのである。

 また、中国では雲南に限らず各地で様々な種類の臭豆腐が作られているが、その発明者は、じつは明朝を興した朱元璋だ、という伝説もある。

 朱元璋は、歴代王の中でもとくに貧しく苦労人だった。若いころは乞食和尚もしていたという。その頃、どこかの家が捨てた豆腐を拾い、委細かまわず、油で炒めて一口食べたら、たまらなくうまかった。

 後に立身出世の階段を駆け上がり、軍事統帥として軍隊が勝利して故郷の安徽省に立ち寄った時のこと。あまりのうれしさに、全軍あげて臭豆腐を一緒に食べ祝うように命じ、臭豆腐の名が広まった、という。

(宋代の本に、豆腐を発明したのは前漢の淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)という説がある。その伝承をもとに故地の安徽省では現在、豆腐発祥の地として、毎年「豆腐節」を開催しているそうだ。ともかく中国で安徽省といえば、豆腐、のようです。)

どうやら明代初期と臭豆腐の発明と伝播には、何らかの関係があるらしい。

「石屏県志」によると、石屏焼豆腐は明朝初年から生産が始まり、清末には貢品となっていたそうだ。(梁玉虹著『雲南小吃』雲南科技出版社、2003年)近年では、毎年11月末ごろに「石屏豆腐節」(豆腐祭り)が開かれている。豆腐工場は200家を数え、年産2500トンほどが生産されている。

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