雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

沐英13 沐氏政権の最後

2013-09-28 11:41:01 | Weblog
 写真はシーサンパンナ景洪市内にあるミャンマー人宝石店(2005年撮影)。中国人が好む緑色や乳白色系の翡翠を主に扱っている。
 わざわざ緬甸人(=ミャンマー人)と入れるのは、本場から直輸入した本物感を出したいため。昆明市内にもこのような店が多く連なる通りがあり、観光客が多くくるため、スリなどが頻発する通りとしても有名だ。何度説明を聞いても、私には翡翠はどの色や質感が価値があるのか今ひとつわからない。要はフィーリングが合えばいいのだと思うことにしている。
 皇帝が古来、最高位の権力の象徴として用いる「玉」。その素材に18世紀以降に鮮やかな緑色の玉として加わったのが、ミャンマーで採れる翡翠である。台北故宮博物院の清の皇帝が所有した白菜の形をした玉が有名だ。

 ところで、ここから33キロ先にはミャンマー国境がある。周恩来がミャンマーと中国の国境線を確定したのが1960年。いろいろと周辺国と紛争を起こしている中国が確定した最初の国境で、周恩来が国境確定のために訪れたという打洛には記念碑と記念公園が国境線となった川横にあった。中国発行の地図によっては打洛など国境沿いの地名が省かれていることが多い。それだけ微妙なのだ。写真撮影も禁止だった。
 だが、それ以前はもちろん、行った人の話では20年ほど前でも地元の人たちはごくごく散歩するようにミャンマーと中国国境を行き来していた。親戚が国境をはさんで居る人たちも大勢いる。
 中国が強引な開発を周辺、とくにミャンマーに対して行っていて、現地住民とも問題を起こしているが、その開発拠点の多くが昆明である。

【沐氏政権の最後】
 15代目の沐天波が雲南の統治者となって10余年。土司の沙定洲という人物が雲南府(現・昆明)で反乱をおこしました。天波は永昌(保山市周辺。ミャンマー国境に近い)に逃げ、一緒に逃れた彼の母の陳氏と正妻の焦氏は自殺。本人は乱が収まるや雲南に戻ります。

 同時期に明王朝滅亡直後に明の官僚が押し立てた南明王朝の永歴帝がミャンマーに逃げ込みます。じつは永歴帝を押す一派は当初、沐氏一族が沐英以来築き上げてきた財宝を頼みに雲南に逃げ込む予定でしたが、この反乱で財宝が無くなったことを知り、目的地をミャンマーに変更したのです。

 天波もミャンマーに同行します。そこで永歴帝らはミャンマーの王の裏切りに遭い、天波はついに最後を迎えたのでした。

(『明実録』では尻込みする明の遺臣の中で一人、毅然とミャンマーの王に抵抗して戦いの中で戦死。『明史』では天波の妾の夏氏がミャンマーについていかなかったので、自焚死した、とある。『明史』は沐氏政権後期を、ひ弱で情けなく描く傾向がある。)

 永歴帝はミャンマーの王から清の雲南征圧に訪れた将軍・呉三桂に引き渡され、昆明の城内で殺されます。

 このような微妙な時期だったため沐天波は数十日もの間、埋葬されませんでしたが、死体は破損することなく、人々に感慨をもよおさせたといいます。
こうして沐氏一族は明の滅亡まで雲南の最高権力者の地位をまっとうし、明の滅亡とともにその役目を終えたのでした。      (つづく)
   
※この章はあと1,2回で終わります。もう少しだけおつきあいいただけるとうれしいです。
その次はおいしい話です。



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沐英12・雲南の統治者は短命が宿命?

2013-09-23 10:42:18 | Weblog

 上の写真はかつての雲南府城(明代の中心城)の一番重要な玄関口にあたる南門だった近日楼(2006年撮影)。昆明拡幅工事のために城郭は1923年に撤去されたが、近日楼は残り、長らく市場の建ち並ぶ商業地区となった。だが、それも60年代に撤去された。そこは現在、昆明中心部の大型デパートが建ち並ぶショッピングセンターとなっている。

写真の近日楼は、2005年に場所を南に改めて昔の写真をもとに再現したもの。かつて雲南府城内にあった東寺塔と西寺塔の間に収まり、周辺は昔の風情で新しく復元(?)された歩行者天国のショッピング街となっている。普通の店より値段が高いため、あまり人は歩いていない。昆明にはオリジナルを破壊して、清末以来の旧市街風を建設し、ショッピング街にするところがあまりに多い。

当時、「近日公園」とタクシーの運転手にいうと、中心街のデパートの建ち並ぶ元近日楼のあった場所に行く人と、近日楼を復元した場所に行く人の二通りが存在し、行き先の説明に窮した。
通りには清末民国期の写真にあった昆明の人々や遊びがブロンズ像となって復元され、設置されている。

下の写真は近日楼脇で熱心に太極剣を舞う人々。近日楼は人々の憩いの場所のシンボルともなっているのだ。

【明の重圧、民族の叛乱と馴れない風土】
 さて、3代目は沐春の弟の沐晟。雲南を統治する西平侯爵として雲南鎮圧に明け暮れるものの、先の2代のように全勝することはなく、はっきり言って力不足でした。
田畑が増えるにつれて蓄財も賄賂も増えたものの、統治者となって一年ちょっとの正統4年(1440年)になくなります。

 4代目の沐晟の子・斌の世代からは、明の功臣の子孫として都で生まれ育ったボンボンとなります。4代目も短命に終わり、嫡子のは幼児だったため、間に叔父二人の雲南統治がはさまるも、いずれも叛乱鎮圧に苦労して数年で死去。

 4代目になるはずだった沐が幼児から青年に成長して7代目として成化三(1467)年春、都から雲南に赴きます。けれど地元の「蛮夷」がお祝いの品の生けにえを持ってきても、気持ち悪くて受け取ることができません。沐英から数えて4世代が経っていました。

 私も4世代前は明治初期の人なので、そう考えると気質や風習が変わるのは仕方がないとしても、これで雲南の統治は大丈夫かと不安になります。

ただ、彼は当時の教養書の四書五経に通じ、詞や文章をよくするインテリでした。ミャンマーの酋長が酋長の兄の子を殺したと訴えがあったときには、沐は酋長を捕らえて誅殺したり、広西の土官(現地少数民族の有力者)が残虐で社会的な混乱を引き起こしているときには、流官という中央から派遣された役人に任せるなど、巧みに明朝の支配を推し進める腕前も示しました。

 代が下がるに連れて、雲南には蓄財と名誉のために行ってやる、という雰囲気が漂い、人柄も傲慢に。12代目の昌祚などはほとんど災厄の塊です。雲南で外出した際、検事の楊寅秋が道を避けなかったという理由だけで、その車の運転手をむち打ちに。この事件は楊寅秋が朝廷に訴えたために発覚し、記録に残りました。さらに兄の田宅を奪い、罪人を匿い、子を殺そうとして最後には南京で獄死とあいなったのでした。       (つづく)
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沐英11 太極拳にも関連が

2013-09-15 14:21:50 | Weblog
大都市の中・富裕層は、公園があれば太極拳やダンスを楽しんでいる。上海、天津、北京、雲南の大都市でも、朝と夕には必ず見られた。(2006年昆明にて)

【沐英の子ども達】
 沐英には5人の男児がいました。一人は沐春、もう一人は沐春には子がなかったので彼の次に雲南を鎮守する西平侯爵になった沐晟、雲南都司事になった沐昂、早世した沐昶、駙馬都尉となった沐です。駙馬都尉とは皇帝の娘婿がなる職で、皇帝を警護、ときには影武者ともなる人物を指しました。

 つまり、沐は明の第3代皇帝となった永楽帝の娘と結婚し、めでたく沐氏は皇帝の外戚となったのです。しかもタイミングがおそろしく、永楽帝が武力によるクーデターに成功して皇帝に即位した直後! 前の皇帝の功臣が大勢、処断されていく恐怖政治のただ中の永楽元年6月末でした。

 永楽帝は政治感覚の明晰な人でしたから、明朝廷が沐氏一族の雲南統治力を評価し、どれほど必要としていたかがわかります。沐氏は雲南があったゆえに多くの明朝勃興期の功臣が失脚死するなかで、生き延びたのです。ただ、お嫁さんの常寧公主は結婚して6年と経たない22才で身罷りました〔洪武十九年(1386年)~永楽六年(1408年)〕

【武当太極拳にも関係が】
さて、現在、日本でも人気の高い太極拳。その太極拳の聖地の一つに武当山があります(1994年に世界遺産にも登録されている)。

 太極拳には明の時代以降に始まった「武当太極拳」(内家拳)と、それ以前から盛んだったとされる少林寺に拠点を持つ「少林拳」(外家拳)に大きく分けられます。健康法で現在、人気の太極拳は、この武当派系なのです。

 永楽帝は、鄭和の世界航海など数々の後世の人が度肝を抜く事業を遂行していますが、世界遺産となった武当山の一大道教寺院と家廟の建設もその一つ。その永楽帝の命を受けて、建設の指揮をとり、永楽帝の箔をつけるための瑞祥を採集し、さまざまな詩や書法作品などを残した人物こそが、沐英の第5子・沐なのです。今なお、武当山の山腹には豪快な彼の楷書を彫り込んだ文字が刻まれているそうです(楊立志・湖北省武当文化研究会会長の調査より)。

 ちなみに『明実録』をみると、仕事は命令されるときっちりと果たす有能な人物でしたが(チベットの高僧ハリマを迎えに行く、南京後軍都督府事として強賊を捕らえる、国家的儀礼を滞りなく行うなど)、一方で後年には皇帝の娘婿の権力を乱用し、人妻を脅して妾にしたり、歓楽街で好き勝手したり、軍営をぶっこわしたり、国の倉庫から拝借したりとやりたい放題。

正統十年(1445年)7月には
「父の沐英が蓄えたあらゆる財産が雲南にあるので、その遺産を分けろ」
と皇帝(第6代正統帝。のちに土木の変で「中国統一王朝中、唯一野戦で捕虜となった皇帝」として知られることになる)に上奏し、
「ちょっとみっともないぞ」(という意図の長々しい返書)とのお言葉はあるものの、許可されています。

 彼は長生きで娘婿になって50数年後に亡くなります。おそらく68才、と言われています(生年不明なので結婚年より割り出した)。沐氏一族も雲南にさえ行かなければ、本来、長寿の家系なのかもしれません。

参考文献:明代駙馬都尉沐與武當山
http://www.ctcwri.idv.tw/INDEXA3/A301/A30113%E6%B5%B7%E5%B3%BD%E5%85%A9%E5%B2%B8%E9%A6%96%E5%B1%86%E7%95%B6%E4%BB%A3%E9%81%93%E5%AE%B6%E7%A0%94%E8%A8%8E%E6%9C%83%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%86/A3011341%E6%98%8E%E4%BB%A3%E9%A7%99%E9%A6%AC%E9%83%BD%E5%B0%89%E6%B2%90%E6%98%95%E8%88%87%E6%AD%A6%E7%95%B6%E5%B1%B1.htm

*雲南の歴史の話が長引いております。読者からは「早く食べ物の話題にして」という要望もいただいております。
雲南では「沐英に学べ」会議もあることですし、雲南の食文化にかかわる重要な時代なだけに、あと数回、ご辛抱いただければ幸いです。まだ、食べ物の話はまだまだありますので、お待ちください。
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沐英10 2代目・沐春のかっこよさ

2013-09-07 15:08:20 | Weblog
 写真は大理市内の徳義院という古いお寺の野外舞台で行われていた街の演芸会(2004年2月撮影)。人々がぺー(白)族風の民族衣装を着て、演技と踊りを披露している。

 昆明市内でも大理特産などという看板とともに食べ物などを売っている屋台のお姉さんは皆、こと白の上下にピンクで花の刺繍の入ったベストとタオル風帽子というかカチューシャを被った出で立ちが多い。これは大理の土産もの屋で売っている、ペー族の衣装。ポリエステル製。
 持っている傘は、おなじくシーサンパンナや各地の少数民族園で売られているタイ族の衣装に合わせた飾り傘だろう。
 娘にせがまれ、この大理の衣装を記念にと20元で購入し、すぐにその服を着て歩いていたら、欧米の観光客や中国の他地域の観光客に写真を撮らせてください、と撮られまくり、あめ玉までいただいていた。じつは日本人です、とはとても言い出せない雰囲気だった・・・。

 民族学の研究者で、雲南の研究をするからには現地の少数民族の女性と結婚しようと、大理の家付きの、この白とピンクのペー族民族衣装の人と結婚した人がいる。人生上々と思っていたら、漢族だったので驚いたそうだ。大理を雰囲気を盛り上げるための客寄せで、一家で経営する民宿へ宿泊客をいざなう戦略だったらしい。とくに家族の誰一人としてペー族の風習を生で知る人はいなかったそうだ。まあ、現在、お幸せなので、なにより。

 逆に私が行ったときには、普通のズボンと茶色のジャンバーのおじさんが、我が家全員が箸をうまく操る様子を見て、「俺はペー族だ。箸の使い方がうまくて、頭がいい点、油モノを好まない点が、日本人と我々の共通点だな」と、物知り顔で語っていた。ご高齢の方の藍染めの衣装以外はまあ、見た目を楽しむため、と思って割り切ろう。



【2代目・沐春】
 沐英亡き後、雲南統治者2代目となった沐英の息子・沐春の評判は上々でした。沐英に従って17才の時から従軍していた苦労人で、ために掃討戦の続く雲南での統治も難なくこなせたのです。

 屯田開墾した土地は計30万畝〔約183平方キロメートル。山手線の内側(63平方㎞)の約3個分〕とか。たとえば沐英存命中から始めた昆明の東隣の宜良県の開墾では、「鉄池河をうがち、良田数万畝、民衆5000余戸がその地で生業を行うようになった」と讃えられています(『明史』より。『宜良県志』にもこの箇所は引用され、宜良県発展の礎となったと記されている)。

 さらに頻繁に雲南各地の叛乱鎮圧のために出動していますが、なかでも洪武30年におこったミャンマー国境付近の麓川での叛乱の際に官軍の兵糧が尽きたときには、沐春が500騎で救出に向かい、最後にはそこの叛乱勢力を「潰」すことに成功したとか。
 なかなか画になりそうなかっこよさです。

 さて、この鎮圧では投降者が7万人ありました。明の官軍側は多くの犠牲を出し、苦渋もなめたことから、投降者を殺すことを願ったのですが、沐春は許可しませんでした。そのためについに首謀者が投降を願う事態になった、など官軍をしっかりと統率し、判断も確かな頼もしい様子が読み取れます。その沐春も治世7年、享年36才で亡くなります。(『明史』より)

 沐英に続き、沐春も比較的若い年令で亡くなるところに、中原とは違う原生林が広がり、山がちで、各酋族が割拠する雲南での統治の困難さがうかがわれます。 (つづく)


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