雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

過橋米線イン武夷山・下

2010-11-27 20:03:43 | Weblog
                     
 写真は武夷山のお茶祭り会場でみた「過橋米線」。雲南の「過橋米線」とは似ても似つかないが、香辛料が控えめでトマトやキュウリなど南方らしく瓜系が入っているのが、おもしろい。レタスや蕨などなぜ、今まで雲南にはなかったのだろう、というようなアイディアだ。(雲南でもわらびは春の山菜として炒め物にする)
 雲南のお気楽な一杯米線なら、必ず入る(または客が入れられるようにテーブルに用意されている)花山椒や唐辛子といった辛み系の調味料がまったく入っていないのも、福建らしい。(福建にも辛い料理はあるが、普段の食事では地元の人は辛いものはあまり使わないようだ。福建に3代住んでいる知り合いがそういっていた。)

【祭りの屋台で遭遇】
 その武夷山へ先週、知人が行ってきました。そして「過橋米線」を見つけたというのです。以下は友人から聞いたことです。

 由緒ある武夷山は、世界遺産登録以降、より一層、観光地化が進んでいたそうですが、筏下りは相変わらずの設備で、しかもそれが「売り」だったとか。

 さて、この地では年に一回、「お茶祭り」が開催されています。観光客ばかりか祭り好きの地元の人々で大賑わいだったそうです。不思議なのは中国各地のお茶が楽しめるのが最大の目玉だったはずなのですが、そのブースは閑散。あまりに出店料が高くて、嫌われたらしい。

 そんな中、出ていたのが雲南料理との看板。その名物が「過橋米線」! よく見ると他のメニューは全く雲南料理ではないのですが、お客達は雲南のものを食べたと満足げだったとか。ちなみに店員に「雲南の人?」と聞いても苦笑い。

 作り方は、乾めんと一緒に、ハム、トマト、きゅうりなどの薄切りやわらびなどの山菜、レタスなどを、注文があると日本の立ち食いそば屋がそばを湯がくのに使う手持ちザルに入れ、湯にくぐらせること3分。最後に薄いチキンベースのスープをかけたもの。どこに「橋を過ごさせる」シーンがあるのか、と問いたいところですが、それなりにおいしかったそうです。

 雲南料理といえば「過橋米線」、しかし、その実態は「わからん」状態になっているようですね。
これまでに私が食べたところでは北京、天津は、まし。日本のものもまあまあ。東北地方はまた、別の方向でおいしい文化に育ちつつあるよう。こうなると、福建に正しく根付く日がくるのか、見守りたいところです。

 ちなみに福建も、れっきとした米線のふるさとです。ただし、雲南のように発酵させたものはなく、平べったい太麺が主。生めんもあるはずですが、雲南よりも湿度も温度も高いので、乾めんで出回ることが普通です。福建ではそれを焼きそばにしたものがおいしかったなあ! (この章・おわり)

写真下は、過橋米線のあったお店。写真の粒子がブログに載せるときに粗くしてしまうので、わかりにくいが、一番右の短冊にある「過橋米線」は一杯10元。他の麺類の倍の値段となっている。
                
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過橋米線イン武夷山 上

2010-11-21 22:20:01 | Weblog
                 
写真は武夷山の名物・筏下り。撮影は知人。

【川下りが名物の世界遺産】
 武夷山で「過橋米線」がありました! 今回はそのお話です。

 福建省にある武夷山。1999年にユネスコ世界遺産に登録され、中国の人が一度は立ち寄りたい観光地となっています。切り立った一枚岩の下を悠々と流れる川の織りなす景観、貴重で豊富な動植物資源、野生の茶の木が自生し、そこから今でも岩茶をとり続け、ウーロン茶の故郷となっていることなどが、世界的に価値ある場所と認定されたのです。

 この場所に行くと、観光客は川下りをすることになっているらしく、8年前に福建人の友人に誘われて、3歳の我が子と大きな竹を紐で結わえただけの筏で下ったことがあります。風景は美しく、悠々と流れる川をおじいさんと相棒の櫓2本で下る様はなかなかの気分でした。ただ、あまりにも単純な構造のため、川面に近すぎて、常時、水が浸水し続けるのが、浮いてはいるものの不安をあおります。

「いざとなったら、我が子は守らねば」

 と、観光客としては場違いな悲愴感に満たされていると、急に黒雲がわき起こり、突然のスコール。

最悪の状況です。

 絶景の切り立った崖は、あまりに直立すぎて、雨宿りの空間はまったくなく、一度、川下りを始めたら「九曲渓」と名付けられた9箇所の湾曲を過ぎるまでは崖にとりついて岩壁を登らない限りは逃げ場すらありません。さらに視界は壮絶な雨なので、船は小1時間、雨に打たれたまま、停止。船頭さんは慣れた雰囲気で崖に筏を寄せるのみ。
 ようやく視界が開けて、人界に戻った時、ずぶ濡れの体に温かいウーロン茶のおいしかったこと! ちなみに我が子は楽しかったらしく、意外にも上機嫌でした。
   (今や何も覚えていないそうです。)          (つづく)

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おばあさんのポーポ・下

2010-11-13 22:01:03 | Weblog
                         
写真は上は宜良の繁華街の裏道で見つけた赤牛。コンクリだらけ普通の道なのに生きた牛。よく見る尾牛肉料理屋の裏だった! できたてほやほやのコンクリだらけの町なのに、なぜか野暮ったさが顔を出す。微妙に素朴で、清潔な街。
下は「ポーポ」売りのおばあさん。

【園児のおやつにも】
 さて、昆明から60キロ東の街・宜良の街で出会ったのが「ポーポ」。ここは昆明市全体の食糧庫のようなところでもあり、名産のアヒルの養殖から近郊野菜、米、トウモロコシなどの栽培から野生キノコまでなんでも揃う活気ある街です。

 その路地裏を散策していると、かわいらしい、おばあさんの呼び声が遠くから聞こえてきました。声に導かれるまま歩いていくと、幼稚園の前へ。5時。ちょうどお帰りの時間で、子供と若いお父さんお母さんが、リヤカーを押したおばあさんの回りに集まっています。

 5角(0・5元。約7円。)紙幣を握りしめ、「ポーポ」なるものを茶碗一杯分、よそってもらっていました。子供も親も、うれしそうに競うように買っては、その場で食べています。(別に食糧難ではありません。)

 私も次々の伸びる手に気圧されつつもようやく買えました。大鍋から薄いプラスチックの碗に、溢れそうなほど盛られています。ものすごく熱い。

 さて「ポーポ」をいただいてわかりました。八宝粥、標準中国語で「パーパオ(チョウ)」の雲南なまりのことでした! もち米、緑豆、小豆、ナツメなど8種類の食材を甘めに煮立てたものを一碗ずつよそり、最後にザラメときな粉をたっぷりとふりかけてあります。なつめの甘酸っぱさとやさしい甘さが絶妙で、胃にもやさしく、初めて食べたはずだというのに、なぜか懐かしいのです。

小さいころ、ひいおばあちゃんがよく作ってくれた、お湯に砂糖を入れ、しゃれたスプーンでくるくるとかき混ぜただけの「おぶう」。手間の度合いはだいぶ違いますが、おばあさんが手を動かして作り出す、隠し味の愛情スパイスが懐かしさを醸すのかもしれません。   

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おばあさんのポーポ・上

2010-11-07 17:20:06 | Weblog
写真は昆明の繁華街の道ばたでうっていた「手作り飴・バイタン」。白くて噛むと、粘ついて歯にくっつく。自然の甘みが優しい。口に入れなければ適度に固いので、馬蹄形の金属で上から抑え、トンカチで圧力を加えてかち割って、売る。

【夕暮れ時の風物詩】
 夕暮れ、雲南の都市部を歩くと、リヤカーに大鍋を積んだ、あるいは竹駕籠を背負ったおばあさんに出会うことがありました。たいていは、とてもゆっくりとした足取りで「ポッローウ!」や「バイターン!」などと、語頭に弾みのつけ語尾を伸ばし、音階が上がっていくような独特の口調で客寄せをしています。そして、社宅や学校の前、はたまた人通りの多い4つ角など、おばあさん毎に決まった場所に停止して、集まった人におやつ風食べ物を売るのです。

 そういうおばあさんはたいてい、福の神のようなニコニコ顔でそれほど生活に困った風情が見られません。他の露天売りの人とは一線を画していて、人とのふれあいと、ちょっとの小遣い稼ぎの楽しみのため、という感じなのです。(今のところ、都市部の年金は勤めていた企業が倒産、などがなければ手厚い。今まさに、これも危うい、と専門家は警鐘を鳴らしていますが。)

 ちなみに「ポッロウ」らしき言葉は、「紅肉(標準中国語でホンロウと発音する)」と書くらしく、豚のバラ肉の細切れを唐辛子と醤油、花山椒などでこっくりと味付けしたご飯のおかず、「バイタン」は「白糖」らしく、水飴をひたすら練り混ぜて真っ白にしたものを、適当な大きさに切って量り売りしたもの。味からすると、もち米に麦芽を入れて作った昔ながらのスタイルなのではないでしょうか。

 日本でも、子供の頃に、似たような味の飴をなめたことがありました。なんといった名前だったか? 気になったので調べて見ますと、このスタイルの飴は、江戸時代に盛んに作られていて、中国から伝わったこの「唐飴(からあめ)」と、ポルトガルわたりの砂糖でつくった「金平糖(こんぺいとう)」の2種類が当時、拮抗していたそうです。

 ともかくなめると、とても懐かしく、癒されました。おばあさんの手作りらしく大量生産ではないので、防腐剤などは混じってはいないのでしょう。
(ちなみに上着のポッケに入れたまま忘れはて、帰国の途につこうとしたら、空港でこの飴がひっかかり、係員に尋問されてしまったことも。白い得体のしれない感じが何らかの「麻薬」と間違えられたようです。)

 さて、「らしい」の連発となってしまうのは、おばあさん達は、たいてい、とてもきつい雲南語で、しかも文字が読めない方もいるので、作り方や名称について聞き取ることができにくいためです。

 ちなみにバイタンのおばあさんは今夏、行ったときにも、小西門近くの辻に夕暮れにやってきて、同じ飴を売っていました。やはりニコニコしていました。

参考文献:八百啓介「近世における飴の製法と三官飴」『北九州市立大学文学部紀要74号』(2008年、p37-p47)
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