雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル84 ジブラルタル② いろいろと濃い植物園

2022-12-25 14:48:25 | Weblog
写真はジブラルタル植物園(またの名をアラメダ庭園)の入口にあるジョージ・ドン門。広さ6ヘクタールあり、無料で開放されている。

【ジブラルタル植物園】
山を下り、街へ。まるでディズニーランドのように、風土と関係なく作られてそこにある、といった感じの緑と白のペンキを基調にした古風な英国スタイルの街並み。日曜のためか、人影はなく、パブも雑貨店も郵便局もお休み。ジブラルタル博物館も閉まっています。

車の通らないつるりと舗装された黒いアスファルトのヨーロッパロードを進むと、クラシカルな文字が鋳込まれた門がそびえ、その向こうにアジアっぽい植物が生い茂った空間がありました。「ジブラルタル植物園GIBRALTAR BOTANIC GARDENS」と書かれています(https://www.spottinghistory.com/view/9536/gibraltar-botanic-gardens/)
人っ子一人いない寂しい空間に、響く鳥の声。
初めて来たのに植物の種類や植え方にどことなく見覚えが。そう、ベルギーのヘント、オランダのライデンやポルトガル・シントラの植物園と似ています。赤玉土に突き刺すように生えたサボテン、竹に松、どこかで見たようなピンクの花。

調べると1816年にイギリス兵士の憩いの庭園として英国総督ジョージ・ドンが命じて作らせた庭園だそうで、ちょうどプラントハンターが一攫千金を夢見て、もしくは学術的な情熱から、世界各地の植物をヨーロッパに持ち込んで売り出していた時期に当たります。シーボルトが日本の植物を大量にヨーロッパに紹介した時期よりは早いけど、イギリスのキューガーデンが世界の植物を熱烈に集めていた時期に作られた庭園です。

写真はジブラルタル植物園内の道路に描かれたモザイク。1954年当時、エリザベス2世は戴冠式を終えた後、イギリス植民地を歴訪する旅を行い、ここジブラルタルにも立ち寄った。スペインでは抗議運動が巻き起こったという。

とはいえ、そのまま現在まで続いたわけではなく、この園も一時期、荒れ果ててしまったそう。1991年に外部企業の手によって復活したとのことですが、まったくの別物ではなく、生き残った植物もあったのでしょう。区割りはほとんど変わらず、ゲートも古そう。意外なところで古風な植物園に出会えました。サルが一匹もいなかったのも興味深い。

滑走路でもある道路を歩き、時折、ガチでくる飛行機をよけつつ、帰るべく検問所に向かっていると、明らかに一方向へ進む人の群れが。ついていくと、郊外型のスーパーマーケットに向かっていたのでした。ジブラルタルは免税価格で買い物ができるとあって、日曜日、家族総出で近所のスペインの人たちが買い物に来ていたのです。家電や化粧品などはイギリス製が多い。私も果物と飲み物を少し買って、ジブラルタルを出ました。

ジブラルタルに一番近い、スペイン側のマンション。

アルヘシラスの夜は、犬の吠え声が響くちょっと不気味な雰囲気。ほかに外食のチョイスはないのか、トルコ料理のテイクアウトの店が行列しています。私たちも並んで、ケバブを買いました。ナンに挟んだ羊肉のそぎ切りとトマト。おいしかった!

※次回はアフリカ大陸です。
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スペインとポルトガル83 ジブラルタル①

2022-12-18 12:33:15 | Weblog
上の写真ジブラルタル、ターリウ山頂のサル。娘のホカロンを器用に剥いていく。このあと、わらっちゃうほど、まずそうな顔をした。

【近くて遠いジブラルタル】
 モロッコ行のチケットは取ったので、次にもう一つの目的、ジブラルタルを目指します。 アルヘシラスに日中、空いている食べ物屋がなかったので(ホテルの従業員までウーバーで食事を届けてもらっていた・・。)ホテルに戻ってカディスで買ったパエリアと焼きイベリコ豚とポテトで昼食を済ませ、2時50分発のジブラルタル行のバスに飛び乗りました。毎時2本程度出ているバスは、街の人で混雑気味。

窓の外をみると、ちょっと気取ったナポレオン帽のような白い岩の塊ジブラルタルの山が海に浮かんでいました。それは目の前なのに、じれったいほど近づかないのです。深く湾曲したジブラルタル湾をCの形に移動するため、直線距離は9キロなのに23キロ以上も乗ることになり、結局、1時間を費やしたのでした。
 ジブラルタルは大西洋と地中海をつなぐジブラルタル海峡に突き出た岩の塊からなる岬。右も左もスペインなのに、なぜかここだけイギリス領。
スペイン王位継承戦争のどさくさでイギリス軍が占領し、外交の力で1713年にユトレヒト条約によって国際的にお墨付きを得たというスペインにとっては忸怩たる思いの土地。
つまり、ジブラルタルに行くためには国境を通過しなければならないのです。国境はバスから歩いてすぐ。800メートルの緩衝地帯に小さな小屋のような検問所がありました。大勢の人がパスポートを持って並んでいます。どれだけ待つのだろうと思っていると、さっとパスポートを見るだけであっさり通過できました。
【ターリウ山のサル】
 まずは遠くからでもみえたターリウ山のロープウェーへ。たくさんの観光客とともに山頂で降りると、野生の猿がお出迎えしてくれました。聞くところによると、ヨーロッパ唯一の野生猿の生息地なのだとか。
クリクリ髪の金髪の女性が目を細めて愛らしく「キュート!」と叫ぶやいなや、サルが近づいて、あっという間にお菓子の袋を取り上げてしまいました。帽子を取られた恰幅のいい男性は唖然。別の男性は背負っていたリュックサックのファスナーを開けられ、ペットボトルの水とTシャツを取られ、それらをポイっと投げ捨てられていました。弱り目に祟り目で、サルになにもなかったかもように肩にまでよじ登られ「オーノー」と無抵抗のポーズ。その上を行ったのは彼の連れの女性で、びっくりしている男性を写真に収めて、「グッド」とウインクするたくましさ。
うちの娘も、のリュックサックからはみ出ていたホカロンをスルリと取られました。サルはお菓子とでもおもったのか、慣れた手つきで器用に赤いビニール袋を破って、ホッカイロを取り出すとガブリ。ようやく食べ物ではないと気づいて、放り投げたのでした。
 
 この手荒い一連の歓迎レセプションは5分ほどで終わり、あとはなにごともなかったかのように寝そべったり、サルどうしでふざけたり、ノミ取りしたりと、動物園のサル山とかわらない行動に落ち着きました。その変わり身の早さといったら。
9世紀までにアラブの人によって持ち込まれたそうなので、彼らのほうが、よっぽど古顔ではあるのですが、山に上がったら、ご注意を。
(つづく)
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スペインとポルトガル82 アルヘシラス到着!①

2022-12-10 12:48:00 | Weblog
カディスからアルヘシラスへとのびる幹線道路にて。湿地帯、丸刈りの松のような林の続く樹林帯、牧草地(白牛、赤牛が放牧されている)と風景が目まぐるしく変わっていく。ショッピングセンターやドライブインなどにも細かく立ち寄り、客を拾う公共バス。やがて風が強くなり風力発電12基やカウボーイや牛の看板が見えるころ、アルヘシラスに到着した。

【西部劇の舞台のよう】
狂乱のカーニバルと思いきや、意外や地元密着型のおだやかさだった大西洋側のカディスからイベリア半島の地中海側に立地するアルヘシラスへ。10時15分にカディス駅をたったバスは順調に2時間で到着しました。

地図で見ると半島の下の部分をほんのちょっと、たった80キロ移動しただけなのに湿気のあったカディスとはうって変って、西部劇の舞台かと思うような乾燥した草原と赤い砂ぼこりの世界です。そこには同じような茶塗りの公営住宅が立ち並び、表情の薄い人々が熱い陽射しの中、買い物などに出かけているのみ。すれ違う人はなんとなく擦れていて、治安が悪い予感。潤いのある街とは少しちがうようです。

 ホテルも、場末感漂う船員の宿らしく、さっぱりとはしているけど、それ以上でもそれ以下でもない感じ。
 ときおりけたたましく笑うお掃除のおばさん以外、動く人もないホテル。3月初旬だというのに日差しが強いせいか、暑いようにも感じます。カディスから70キロほどしか移動していないのに、この違いはなんなのでしょう。

 ここに来た理由はこの街の観光ではなく、歴史の要として存在し続けるジブラルタルとアフリカ大陸上陸を果たそうという野望のためでした。
ジブラルタルへは湾の反対側なのでバス1本ですぐにいけるし、アフリカ大陸に行く船はここから出る。イベリア半島が南に突き出したところとアフリカ大陸がク゚っと鎌首をもたげたところ、つまり二つの大陸が大西洋側でもっとも近接している場所がアルヘシラスなのです。

ただたった2泊、しかも他都市との移動時間も含めてのなかでこのもくろみが果たせるのかは、不安なところでした。

 ホテルにチェックイン後、さっそく明日のアフリカ大陸へのチケットを求めてフェリー乗り場へ。完全にグロッキーになっている家人を起こさぬようにそっと部屋を出ます。

フェリー乗り場からアルヘシラスの街並みをのぞむ(早朝)。

強烈な日差しの中、歩く人もまばらな通りは、とてもスペイン第2の港湾都市とはとても思えない静けさです。シエスタ時間のせいかと不安に思ってたどり着くと、『地球の歩き方』に書いてある通り、10社ほどの旅行会社のブースがずらりと並んでいました。私をみるや、目が覚めたようにさかんに呼び込みをかけてきます。まるでイソギンチャクがおいでおいでをしているようなにぎやかさです。

アルヘシラスのフェリー乗り場に並ぶ旅行会社のブース。
この写真は早朝の光景だが、日中の呼び込みはなかなか
のものだった。

 そんななかで、まるで呼び込みをせず、しずかーに目を伏せているブースがありました。ガツガツしない姿勢に信頼を感じ、そこにタンジェ行きのツアーと船を申し込みました。値段交渉もないまま、静かにチケットを切って、明日の集合時刻などの紙などとお金を引き替えて終了。上品なのか、仕事に不熱心なのかは明日のお楽しみ。ともかく、これで明日、アフリカ大陸にいけるはず。
 (つづく)
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ポルトガルとスペイン81 カディスの見どころを散策する

2022-12-04 11:50:59 | Weblog
カディス(EL SARDINERO)の小魚(きびなご?)の唐揚げ。日本で食べる小魚の唐揚げと変わりない味。ほっとするおいしさ。

【カーニバルの中、カディスを歩く】
 カディスを島と考えると全長が1キロほどなので、散歩に最適です。街並みもよく保存されていて、カディス大学では石造りの古式ゆかしい建物からジーンズの若人がドーナツをほおばりながら歩いていたり、中からブラスバンドの練習の音が響いていたりと、寒さの厳しい中でもゆったりとした気持ちになりました。

カディス博物館の正面。

カディス博物館は、状態から見ると、カディス沖の海底から引き揚げたものが多いようです。ローマ時代以前のフェニキア人の顔を写した焼き物のレベルの高さよ。いまでも中東のサッカー選手で見かける顔が等身大の石像で残っているのです。鼻筋がしっかりと通って、目が大きい頬骨がしっかりある長めの顔だち。他に丸顔で目や唇の造作が大きい感じの子供風の顔やエジプトのピラミッドで見られるノーブルで硬質なお顔など様々な彫像が並んでいます。
 ワインを運ぶ壺もずいぶん展示されていました。タカラガイも。遺物の精巧さや華やかさから紀元前7世紀から5世紀までが絶頂期だと感じられます。

いまでもローマ時代の闘牛場があり、闘牛場博物館として存在しています。行くと、まだ、実際に闘牛ができそうな設備のままです。ローマ時代はカディスにとってはけっして遠くないのかもしれません。


 西の大西洋側にいくと、海に突き出た三稜郭つくりのサンタ・カタリーナ要塞(Castillo deSanta Catalina)があります。当時は、修築中のために中には入ることはできませんでしたが、フェリペ2世の命を受けて1598年から23年かけて建設された要塞は威厳があり、もし、入れたなら大西洋から地中海の入口まで見ることができたことでしょう。
 その要塞の横は駐車場。たくさんのキャンピングカーが留まっていて、陽気な音楽をかけながら、カーニバルの衣装のまま、くつろいでいました。その先に4つ星ホテルのパラドール・デ・カディス(Parador de Cádiz)があるためか、音量は小さめでした。
 こうして駆け足でカディスをめぐり、明日出発するアルヘシラス行のバスの予約をして、眠りにつきました。アルヘシラスからジブラルタルに無事、一日で到達できるか。今回の旅で一番、不安なところなのです。
 

カーニバルの衣装でくつろぐ人々。
カディスは全方位が海なので、日当たりの海沿いで甲羅干しをする人も多かった。
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