雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル24 シントラのベーナ宮殿

2021-09-18 18:30:32 | Weblog
写真上は、リスボン発シントラ行の電車。シントラからの電車からは通勤客が次々と降り、シントラ行きの電車には観光客でほぼ満席だった。

【シントラへ】
私が建てる旅行プランとは違って、Kさんが考えぬいたプランはなんのトラブルもなく、翌日は順調にシントラまで足を延ばすことになりました。そこはかつてポルトガル王室の夏の離宮があったところ。イスラム時代の城も残されていて、昔から要衝の地だったということです。

 リスボン駅から列車で45分。車内は観光客で混んでいてボックス席は膝が交差するほど。やがて、着いたシントラ駅は標高204メートル。空気もすがすがしい。

 駅周辺のバス乗り場には、たくさんの観光客が並んでいました。これは時間がかかる、と思う間もなく、Kさんのたくみな案内でタクシーに分乗。途中、混んでいるバスを横目に見ながら、すいすいと緑深い山を登っていきました。

 つづら折りの道の脇にはシダ、松、杉、こんもりと盛り上がる苔などが植えられています。なんだか日本の植物園にいるようです。その山頂にペーナ宮殿があるのです。タクシーがつけた入口は、Kさんの案内で裏口のようで静かです。
(『地球の歩き方』に小さく「ムーアの城跡でバスを降りると入場券があまり並ばずに買えます」とあるので、それを活用したのでしょう。)
それにしても日本的な植物がなぜ、これほど目に入るのでしょうか?この宮殿の成り立ちから考えてみました。


シントラ駅から山を登ると見えてくるペーナ宮殿。木立の木々が時折、日本でなじみのある木々となる。


山は霧が巻いていることが多いためか、木々も地面も苔むしていた。

【シントラに恋した王さま】
ポルトガル王室が1807年のナポレオンの侵攻に恐れをなしてブラジルに亡命してから12年後、リオデジャネイロでのちのマリア2世が生まれました。彼女は父の命によって7歳で王位につき、ポルトガル王室の激しい権力争いの中で2度、結婚して、1836年に3度目の結婚をします。お相手はドイツ中部のザクセン=コーブルク=ゴータ家の出身のフェルナンド2世。
 この方、イギリスのヴィクトリア女王とその夫アルバート両方のいとこでもあります。
(『地球の歩き方』では、ドイツのノウシュバンシュタイン城を築いたルートヴィヒ2世といとこ、と書かれていますが、これはちょっとわかりません。)

 この方、芸術にたいへんな関心がある家に育った人でした。

 翌年、二人の間に長子が生まれ落ち着くと、1838年に山林と廃修道院を買い取り、ペーナ宮殿の設計を開始。着工は1842年から85年と長期間に及びました。ポルトガルのシントラのサイトを見ると
 「フェルナンド2世がシントラと恋に落ちた」
 のだそうです。

 フェルナンド2世はドイツ人設計士を招いて、当初は夏の離宮を、やがて住居を作っていきます。それはフェルナンド2世が亡くなった後もポルトガル王室が砲弾によって終焉を迎える1910年まで夏の離宮として、ときに住居として使われるほど重要な場所になっていったのでした。

(次回もペーナ宮殿の成り立ちを続けます。そこから日本的な植栽の意味がわかる!)
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スペインとポルトガル23 世界遺産・ジェロニモス修道院で結婚式!?

2021-09-12 10:31:08 | Weblog
写真は1983年、ベレンの塔とともに世界遺産に登録されたジェロニモス修道院の回廊。

【石づくりなのに植物の香り】
次に同じ建物の続きにあるジェロニモス修道院に滑り込みました。ほとんど閉館時間。海洋博物館に長くいすぎたのです。

 すべてが石でできているのになぜか植物の気配を濃厚に感じる堂内。高い天井を支える柱はヤシの木を模したといたり、回廊の窓や天井も森の木々が枝を伸ばすようなに作られていたりと、彫りが有機的かつ繊細です。

1502年から16年にかけて主な部分が建立された建物はインドの胡椒貿易が生み出した傑作。ポルトガルの大航海時代の栄華が顕著に表れたイスラムやゴシック様式が混ざり合って昇華したポルトガル独自のマヌエル様式と呼ばれる建物の代表格です。

 そして1584年、日本の戦国時代に九州のキリシタン大名・大友宗麟らの名代として派遣された天正遣欧少年使節団が訪れた場所でもあります。
 近代に入ってからは、ポルトガルが主催する国際会合の舞台として数々、使われていた国随一の建物なのですが、ここで結婚式をあげた日本人もいました。

 その方は今回の研究者グループ4名のなかの一人・E子さんのご友人。夫となられた方がリズボン出身の人で、E子さんも参列して、建物の豪華さと荘厳さに圧倒されたそう。日本でいうと明治神宮の結婚式、みたいな感じでしょうか? いや、政治的な格でいうと赤坂の迎賓館での結婚式、といったところ。国有化された建物で結婚式とは、リスボン、太っ腹!


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スペインとポルトガル22 

2021-09-05 12:05:02 | Weblog

写真は「フロル・ドス・ジェロニモス」のバカリャウ入りチャーハン。複数の香辛料の塩梅がほどよい。

【日本好みの味つけ】
ポルトガル研究者のKさんはグルメでした。行く店行く店にはずれがない。しかも値段も高くない。
お昼に行ったレストランは観光地の一角の小さなお店、Flor Dos Jeronimos(フロル・ドス・ジェロニモス)。ビニール製の赤と白のチェックの上に、白い紙のクロスといった日本の庶民的な洋食屋といった感じです。
料理はポルトガルの外食の定番と思われるものが並びました。

バカリャウ(塩漬けにした干しタラを水で戻したもの)入りチャーハン、
豚のスネの蒸し物、牛肉の目玉焼きのせ。
チャーハンは卵を絡めて食べやすく、他の料理もしっかりと肉の味が下支えして、コリアンダーなどと絡んだ、やさしい味です。というか、懐かしい味。田舎のおばあちゃんがコトコトと大鍋で煮込んだようなかんじです。

戦国末期から江戸時代初期、南蛮人としてスペイン、イギリス、オランダなどから日本に渡来していたのに、なぜか南蛮料理として残ったのはポルトガル料理でした。不思議に思っていたのですが、納得できました。海のものから出汁をとった煮込みや、塩気も油も強くない料理の数々。とにかく日本人好みの味なのです。
 ビールは、発酵が中途半端でアルコールが低めのお酒が好きな私でも薄くて、低いなあ。ここはワインの国なのでしょう。


写真は海洋博物館の本物の船が並ぶ部屋にて。

【海洋博物館】
午後は川沿いのベレンの塔から陸に1キロ強入ったところにある世界遺産のジェロニモス修道院とその建物の増築部分をあてた海洋博物館へ行きました。海洋博物館では大航海時代の船の模型が実物に近い大きさで並んでいて壮観。当時の海洋地図の展示もあり、見ごたえがあります。
研究者一行が博物館のミュージアムショップでひたすら書籍や当時の地図のレプリカの収集をしているので、私は館内を歩く人を見るともなく見ていました。

【深く考えるお顔立ち】
 ちょっとそばかすがあって色白で髪の毛が金髪から亜麻色で縮れている少女たち。細面で目の彫りが深いせいか、何か考え込んでいるようにも見えます。マドリードの人は感情がすぐに顔で出るような情熱的で印象があったので、ずいぶん違うものだなあと驚きました。同じイベリア半島でもスペイン人とはずいぶん違うようです。
(つづく)

※次回はジェロニモス修道院とシントラ珍道中です。
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