雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

閑話休題・中国語の力

2008-04-25 22:40:58 | Weblog
いつも、長い文章にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございます。

写真は麗江の広場にて。麻雀に興じるおばさまは雲南の都市部ではどこででも見られる光景だが、麗江では、納西(ナシ)族の民族衣装で統一されているのが、特徴的。
 ナシ族のお年寄りは7つ星がついた背当てが付いている。背当てが毛皮製の人も多い。冷え対策なのだろうか。この格好で子守も水くみも農作業も行う。

【真田広之の流ちょうな中国語】
中国では、日本人人気俳優といえば、今でも男性なら「高倉健」、女性なら「山口百恵」が2大俳優とされている。

 高倉健が、チャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る」の撮影で世界遺産にも指定されている麗江の市内に訪れたときは、大フィーバーが巻き起こった。もちろん、撮影チームのガードが堅く、ちらりと後ろ姿を撮影するのがせいぜいだったのだが、それでも連日、高倉健の文字が新聞を飾った。

 そのときに驚いたのが、高倉健の相手役、といっても恋人ではなく、通訳の役の女性を、麗江について、高倉健とツーショットの風景が見られたとたんに、記事のトーンが彼女に好意的でなくなったことだ。それまでは彼女が北京の中央芸術学院出身の新人、として期待をこめた記事が並んでいたのだが、その変わりように中国の人は心底、高倉健が好きなのだなあ、と妙に感心してしまった。

 真田広之も中国で名優として知られているが、彼がチェン・カイコー監督の「プロミス~無極」で雲南に到着したときの記事も、じつに好意的だった。というのも、彼が雲南省副主席・丹増氏主催の歓迎パーティで、堂々と中国語で挨拶し、記者の質問にも通訳を介せずに話したことに驚きをもって、迎えられたためだ。

 彼は記者の質問に対し「(撮影場所の)元謀の料理はおいしい。大好物だ」と語っていたが、その言葉がそのまま、記事の見出しになっていたことからも、その歓迎ぶりが伺える。(『生活新報』2004年5月7日)。
当時、それほど中国語が堂々と話せなかった私にとっては、真田広之がまぶしく、うらやましく感じたものだ。

 私の父が20数年前に中国で理科系の学会報告したときにも、同じようなことが起こった。
 発表に際して、父は自分で書いた日本語の文章を中国語にして、挨拶したい、とふと、ひらめいた。もちろん、中国語は話せない。そこで私は仕方なく、父の文章を中国語の先生に翻訳していただき、それを私が中国語で発音してテープに吹き込み、それを父が一ヶ月、猛特訓してカタカナ羅列のアンチョコを作り、本番にのぞんだ。

 どう聞いても、私には不思議なカタカナの羅列か、新種の念仏にしか聞こえないのだが、中国では満場の大拍手で迎えられ、その後、中国の人に父は挨拶の列と質問攻めに会い、実際には一言も中国語を話せない父はうれしいやら、困惑するやら、という事態となったのだそうだ。

 日本では、英語を話す人の方が偉いようにも思われがちだが、やはり中華思想の国では少しでも中国語を話すと、ぐっと株が上がるようだ。
(次回は「英雄の作られ方」の話です)

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めざせ! 東洋のハリウッド2 シャングリラ編

2008-04-19 08:06:25 | Weblog
シャングリラの街。立派なホテル街の裏側に入ると、ゴミの山と、垂れ流された汚水がたまっていて、すごいにおいを出していた。そんな中、牛がそこから芽生えた雑草をもしゃもしゃと食べていた。乳牛の盛んな地で「緑濃き無公害の地でつくられた牛乳」とのふれこみの牛乳が昆明でも売られていたが、その牛乳がこれ、と唖然となった。


 有名映画人が雲南に来たときの歓迎ぶりは、田舎にめったにこない有名人がきたときのようにじつに熱狂的だった。ときにそれが「かわいさあまって」となることも。

【真田広之もやってきた】
 チベット自治区、シャングリラ。じつに神秘的なイメージを持つ名に改名されたこの地では、神秘の湖の撮影にのぞむ一行を今か今かと待っていた。

 2004年4月、「さらばわが愛~覇王別姫」や「北京バイオリン」で知られる陳凱歌(チェン・カイコー)監督が真田広之らを引き連れて「プロミス~無極」の撮影のために雲南にやってきた。その一行が元謀での連日40度を超える過酷な撮影を終了し、いよいよシャングリラにやってくるというのだ。

 撮影隊が着く直前から、私もシャングリラにきていた。バター茶を飲みながらふと、街を見渡すと、街一番のホテルには「歓迎 無極撮影隊一行」の横断幕がはためいている。シャングリラの地方紙には連日「何日後に到着!」の詳報が。だが、粘りに粘る監督のせいで、撮影は押しに押して、一週間たっても一行は現れることはなかった。

 ようやく撮影スタッフの一部がやってきた。さっそく風景の撮影やセットづくりに取りかかった。すると新聞もうれしそうに「火の玉に追われたヤクの大集団が山上から草原へと駆け下りるシーン」を撮影するなどの詳細が語りだした。だが監督はあらわれない。

 2週間、3週間と過ぎると新聞は「監督はシャングリラの荘厳な雰囲気にインスピレーションを受けた、と確かに言っていた。来るといってたよね」などとの弱気な記事に。やがて監督は誰にも知られることなく静かに現れ、2日間、ロケをすると、風のように去ってしまった。

「思っていたところと違った。荘厳ではなかった」との言葉を言い残して。その後も未練たらたらの記事は続くが、やがて、内モンゴル自治区にセットを設けて本格的に撮影に入ったと知ると、同年8月16日には「シャングリラの生態環境が撮影隊によって大きく損なわれた」という雲南省林業局の調査が公表された。翌年、映画が公開され、ヒットすると、2006年5月9日には雲南省建設部が「クルーはシャングリラの碧沽天池」を破壊した、との訴訟騒ぎにまで発展することになった。監督サイドは当然「そんな事実はない」と反論している。
 その「神秘」さの実態が上の写真。街はどんどん拡大し、観光客は押し寄せ、空気は車の排ガスでくさく、水も排水でくさい。神秘を追究するにはあまりにかけはなれてしまったことに、街の上役は気づいていないのだろうか。

 さて、そのうち、騒ぎはうやむやとなっていった。そして、「東洋のハリウッド」のプロデュース。なんとなく裏があるような気がして、素直には喜べないのである。

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めざせ 東洋のハリウッド!

2008-04-12 22:27:15 | Weblog
写真は1999年の世界園芸博覧会跡地を公開した昆明の観光名所の一つ‘世博園’。雲南らしい植物は期待できないが、各種園芸植物がきれいに植わっている。雲南の野菜の苗コーナーや漢方薬コーナーが雲南らしさをかろうじて出している。

【めざせ 東洋のハリウッド!】

 最初に聞いたときは冗談かと思った。東洋の摩天楼といえば香港(最近では上海)、東洋のハワイといえば海南島と中国では呼ばれて(自称して?)いるが、雲南では「東洋のハリウッド」を目指しているというのだ。

 調べてみると、大理には、約47万㎡(東京ドーム10個分)の広さを持つ、『清明上河図』を参照して中国宋代(平安・鎌倉時代ごろ)の町並みを復元した映画撮影村があり、テレビドラマ「天龍八部」をはじめ、いくつもの時代劇が撮影されている。

 また昆明より23キロ付近にある玉竜湾には自然風景区と映画撮影基地、東南アジア民族文化城を持った、映画撮影基地、昆明の北東150キロにあり、高速道路で結ばれた曲靖市翠山には明、清代と現代性を融合させた2.6万㎡(東京ドーム半個分)に56以上の建築物を有した撮影基地を設けている。

 世界遺産・麗江の束河村には茶馬古道の昔ながらの村を復元した撮影基地を設け、すでにいくつもの映画撮影に利用された。日本のツアーで麗江観光に訪れた人の多くは、なんとなくこの村に連れてこられ、本当のような嘘っぽいような少数民族風情を味わったことだろう。

【高倉健、真田広之も撮影に】

 世界的に有名な監督による映画も撮影隊も、たびたびロケに訪れている。2004年だけ少なくとも3本。ジャッキーチェン監督・主演の『THE MYTH/神話』(2005年公開)、張芸某(チャン・イーモウ)監督、高倉健主演の「単騎、千里を走る」、「さらばわが愛~覇王別姫」や「北京バイオリン」で知られる陳凱歌(チェン・カイコー)監督、真田広之ら主演の「プロミス~無極」である。このような有名な映画チームが雲南に到着するたびに雲南省副主席・丹増氏は歓迎パーティを開き、それを記事に載せていた。

 ジャッキー・チェンとは2ショットで語りあう写真とともに「丹増、ジャッキー氏に雲南を東洋のハリウッドにする計画への参加を要請」との記事を新聞に掲載させている。どうやら同様の話を有名映画人がくるたびに持ちかけていたようだ。

【昆明が映画村に?】
 とうとう今年3月に入り、陳凱歌監督が雲南省昆明市に総面積330万㎡(東京ドーム70個分)投資総額120億元(約1800億円)アジア最大の映画村「東方影城」をプロデュースすることが決定した。

 世博園のある世博新区に映画人の手形、足形をつけた道や映画館、テーマパークなどをつくり、世博園を経営する「雲南世博集団」と共同プロデュースするのだそうだ。陳凱歌監督夫人にして女優・アクの強いプロデューサーとして中国で知られる陳紅がそのイメージキャラクターというのは、あまりにも、という気がする。ただただ広い地面からの反射焼けで黒ずむ管理人と、人もまばらな上に、食べ物もまずく、全体的に大雑把すぎてよく印象がつかめない世博園を思い出し、なんら新鮮味のないテーマパークにうんざりしてしまうのだが、映画で雲南を有名にしたい、という切実な思いだけは伝わってくる。

 だが、雲南省の政治協力委員に選ばれた香港のスタンリー・トン監督(ジャッキー・チェンとともに『ポリスストーリー3』『神話』を原案、監督している)が昆明市内に映画制作・メディア基地の建設を発表したばかり。丹増氏が有名映画人にひたすら声がけしていた風情が感じられる。

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カワクボ3

2008-04-04 15:32:11 | Weblog
写真は明永村から行ける氷河。氷河の側面やさらに上方までも緑が覆っている姿は低緯度地帯ならではの特殊な作り方がされた氷であることがうかがえる。

【シャオリンのしょいこ】
 翌日、再び明永村へ。漢語で発音する「ミンヨン」は、チベット語では火鉢を意味する。周辺地域に比べ、ここは標高2300メートルと低いため、奄美大島と同緯度ともなると、夏場は意外なほど気温が上がる。

 その日は晴天で、やっと念願の山頂を拝むことができた。そして6月だというのに、気温は20度を越えた。同行したチベット人の漢語通訳者は「暑い暑い」と真っ黒な長袖長ズボンの姿で玉のような汗をたらし、昼過ぎにはすっかり、バテて、へたり込んでしまった。でもけっして薄着になろうとする意識はない。なるほど現地の人にとっては「火鉢」なのだ。

 その村長宅で意外な話を聞いた。「シャオリン」という日本人青年がこの家に寝泊まりし、10年かけて登山隊の遺体を収容して帰ったというのだ。遺体が氷河からはき出されるたびに、彼はしょいこを担いで上がり、チベット圏から離れた雲南省の大理まで運んで荼毘にふしていたのだという。

 「最初は中国語もしゃべれなかったが、最後には我々の話すチベット語もしゃべっていたな。」と村長。奥さんは「あまり食べない男の人でした」と、やはり懐かしそうに語る。「シャオリン」さんはこの村の人々の日本人感を着実に和らげていたようだ。

 その村では「シャオリン」という人名以外の確実な情報は得られなかったが、その後の調べで、その登山隊が京大山岳部のチームで、1991年のアタック時に雪崩に巻き込まれ、日中あわせて17人が死亡し、当時の新聞でも大々的に報じられていたことがわかった。そして偶然にも日本での私の農業仲間のおいっこが、その犠牲者の一人であった。

 不思議な縁を感じ、「シャオリン」こと小林尚礼さんにお会いした。
てっきり、京大山岳部のOBらが若手をくどいて「就職は俺らにまかせろ」とでもいって、無理矢理、現地に送り込んだのかと予想していた。しかし実際には、小林さん自身が、遭難のあった翌年、氷河から遺体があらわれたという現地からの連絡を受けたのを機に会社つとめをやめ、誰に言われるでもなく単身、村に住み着いたことを知った。

 聖なる山をけがされ、飲み水の水源を文字通りけがされた村人が日本人に対する嫌悪の情を増していくなか、村長は彼の希望を受け入れ、家に泊め、見返りを一切求めることなく、登山隊の遺体収容の手助けをし続けたのだという。

 彼は現在、山岳カメラマンとして活躍し、村との往復を続けている。つい最近では今までの返礼として村長の娘の日本留学の手助けをした、と2008年3月22日の「毎日新聞」で、紹介されていた。

 また、話はかわるが梅里雪山は1902年からイギリスをはじめアメリカ、日本と相次いで大規模登山隊がアタックしているが、いまだ登頂が果たされていない処女峰である。
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